備中高松城
「ひまじゃな」
羽柴秀吉が、満々たる水を湛え、すっかり湖と化した足守川を眺めながら呟いた。
備中高松城。
毛利家との戦いの最前線である。
城主清水宗治の戦上手に加え、泥田の中に屹立する、その地の利のため、兵はなかなか近づけない。
しかし、「歩けぬのなら、いっそ堀にしてしまえ」という、秀吉の逆転の発想で、空前絶後の水攻めが開始された。
土木にも秀でた黒田孝高の指揮のもと、堤防はあっという間に完成し、たちまち高松城は孤立無援の城と化した。
「官兵衛。あとはすることはないのか」
背後に控える黒田孝高が答える。
「あとは明智様の援軍を待つのみ。策は、、、多々ございますが、それでは、早く落城し過ぎます」
「うむ。明智殿のご加増を底増しするためには、目に見える武功を立ててもらわねばならぬからな」
「殿のお気遣いの細かきこと、毎度のことながら感服いたします」
秀吉は、ものごとは、一人で十分できることでも、七、八分でとどめ、残りの二、三分を仲間とともに進めることで、よりよく進むことを熟知している。
残りの二、三分といっても、人は常に自分に甘いもので、自認としては五分と五分の仕事をしたと思っている。
そこでさらに「功は貴殿に」と譲って初めて、貸しを作ることができる。
貸しを作り続けることでのし上がってきた、羽柴流の処世術を、今回も使った。
秀吉もまた、英雄である。
いま一番、気を使わなければいけない相手が誰なのか、一瞬で見抜く。
信長といま一番緊密なのが明智光秀であることはわかっていた。
なぜ諸将が「明智は上様の勘気を被ることばかりする、そろそろ首が危ないのでは」と噂するのかわからなかった。
あんなものは芝居ではないか、と、思い、しかし、なぜそんな芝居が必要なのか、という違和感を感じ取っていた。
「上様が、その理由を、わしに明かしてくれるようになれば」
秀吉は思う。
「盤石よ」
そのためにも、まずは明智光秀を持ち上げる必要があった。
高松城が落城寸前であることを隠し、「毛利本隊の援軍接近」として、援軍を乞うたのが五日ほど前。
現在、遊軍として使えるのは明智軍のみ、ということを見越しての依頼である。
「筑前殿」
蜂須賀正勝が近づいてきた。
「毛利の伝令を捕らえた」
「この昼日中にか」
「今は満月だからな。昼間の方が気が緩むと思ったのかもしれん」
と、書状を取り出した。
小早川隆景からの、援軍の状況を清水宗治に伝える密書だった。
「伝令は?」
「舌を噛んだ」
「仕方あるまい」
密書では、毛利輝元が直々に八万の兵を率いて出立したとなっていた。
「八万は大きいのう」
「こんな書が渡っておったら、城内は気息充実で手がつけられなくなったところだったな」
「官兵衛、どう思う」
「八万は出せぬでしょう。よくて三万、普通に勘定致せば、今こちらに向けられる兵は一万かと」
「そんなところじゃな」
「毛利輝元はいつ頃くるかの?」
「一万の兵が広島から経つとすれば、普通ならば十日以上かかりましょう」
「我らが今ここから陣を払って、京に駆け上るようなものか」
「急ぎに急げば三日でも駆けられましょうが、それでは疲れ切って、戦では、ものの役に立ちますまい」
諸将の笑い声が水面にこだました。