2 拾ったときは猫だった。
しばらく使われた形跡のないぼろ家は、職場から依頼を受けた近所の管理人が修繕をしてくれたというが、間に合わせ程度。
それでも、すぐには困らないだけの薪が運び込まれていたのはありがたかった。
暖炉に火を起こしたら、冷え切った建物にじんわりと熱が通いはじめる。
「……暖炉なぁ。飛び込んだらまる焼けになるぞ。って言ってもわかるのかな。これ、子猫だし」
暖炉の前の古びて擦り切れたカーペットにちょこんと座り、赤々と燃え盛る炎を見ている白猫を前に、つい独り言がもれた。
キッチンと水回りに、リビングと寝室と作業場という一人暮らし向きの家である。狭さや閉塞感はあるものの、温める効率を考えれば普段はリビングで生活をするだろうし十分なのだと思おうとした。
しかし、子猫と暖炉の取り合わせは大変心元ない。
思わず拾い上げてしまった猫が、あまりにもか細い声で鳴くので道に置き去りにもできず。コートの胸元に放り込んだら、すぐにすやすやと寝てしまったのである。
寒くて疲れていたのかと気の毒になり、そのまま連れてきてしまったのだった。
とはいえ、猫と暮らした経験など今までにない。
世話の仕方もトイレのしつけ方もわからない。だが、この寒空の下に放り出せば早晩死んでしまいそうな気もする。
「どうしたものかな」
呟きつつ、すぐには猫が動かなそうなのを見てリビングとカウンター越しに続くキッチンへと足を踏み入れる。
古びた戸棚にはいくつか食器類が並んでおり、小さな竈の上にはさびついた薬缶が置いてあった。
水道は通っているとは聞いているが、しばらく使っていないと凍り付いてしまうので、元栓を閉めてあるとのこと。
(水回りを確認して、元栓をあけて、薬缶を洗って水を汲んで……。お茶を飲むだけでも一苦労だな)
その間、猫一匹で目を離した状態で置いておいて平気なのだろうか。
火に飛び込んだり、部屋の隅で粗相をしたり、物陰に入って出て来れなくなったり……と考えれば考えるだけ心配になり、振り返ってみる。
先程までなかったものがその場に現れていて、少しの間考え込んでしまった。
真っ白の短めの髪が、うなじにかかっている。その髪の白さとは微妙に色合いの違うミルク色の肌。
無造作に薄汚れたカーペットを身体に巻き付けた小さな人影で、身じろぎしたときにむき出しの肩がちらりと見えた。
(人間……に見えるんだが)
人恋しさで幻覚が見えるには早すぎる気がする。
声をかけそびれてぼんやりと見ていると、その小さな人型のものが振り返った。
ほっそりとした顎に、小さな唇。通った鼻梁につんと尖った鼻。瞳はこぼれそうなほど大きく、青と緑のオッドアイ。表情らしい表情がなく、見つめてくる。
目が合った。
何か言わねば。
「にゃ、にゃあ」
猫を拾ったはずだった。
「普通にしゃべっていいですよ、さっきの独り言みたいに」
おそろしく綺麗な澄んだ声で、そっけなく言い返された。
脱力してその場にしゃがみこみたくなったが、狭い家だし逃げ隠れする場所もない。
「どこから幻覚がはじまっているんだ……?」
「ご自分に対して信用がないんですか? それとも、何か薬でもキメてる?」
「いや、断じてそんなことはない。ないぞ。だけど……俺はいま誰と話しているんだ……」
この家にたどり着いたときは誰もいなかったはずなのだ。
「あなたが拾った猫と話していますよ。身体が温まってきたのでつい寛いでしまいました」
猫って寛ぐと人間になるのか? という疑問は口にできなかった。
先程から妙にそっけないこの白い生き物にすげなく返されると、さらにへこみそうだった。
「そのカーペット、あんまり綺麗じゃないと思うんだが。その下は」
「裸です」
見てはならないもののように感じて、ちらりとだけ視線を向け、すぐに逸らす。
猫のときも小さかったが、人間になっても小さそうだ。せいぜい十歳を過ぎた程度の子どもに見える。子ども用の服なんかないな、と考えていたら見透かしたように言われた。
「あなたのシャツでも借りられれば十分かと思います。ベルトになるような紐も。あとは、厚手で長めの靴下でもありますか」
ずいぶん人間になり慣れている猫のようだ、と思った。注文が手馴れている。
「先に送った荷物が玄関先に届いていたから、少し待て。開けて来る」
それだけ言い置いて、キッチンから玄関の方へと続くガラスのはまったドアから出る。凍えるほどに寒い玄関先から積み重なった木箱の一つを持って戻ると、所望されたものをぎりぎり手の届く距離から手渡した。
「猫が怖いんですか」
「そんなことはない」
だったら、拾ってコートに突っ込んだりはしていない。
ただしそのときは猫だと思っていた。
改めて顔をみても、整い過ぎて男か女かもよくわからない造作をしている。それで裸となれば見るのも近づくのも無理だった。
ふう、と溜息とともに猫人間は立ちあがった。
すとんとカーペットが落ちて、すんなりとした白い背中が見えた瞬間的に飛び退ってキッチンのカウンター裏側に退避する。
大丈夫大丈夫、見えたけど、見えていない。
必死に唱えている間にも、しゅるしゅると衣擦れの音がした。
やがて、「着ました」と涼やかな声に呼びかけられた。
動揺は完全に悟られているが、余裕がないと思われるのも嫌で何事もなかったように立ち上がる。
小さい。
足音もなくすぐそばまで来ていた猫人間は、せいぜいが胸ほどまでの背丈しかなかった。
厚手の生成りのシャツは膝上まで覆っており、薄手のストールを紐にして絞った腰はどうかすると両手で掴めそうなほど細い。外見年齢相応なのか、胸のあたりは平坦に見えて、やはり男か女かは判然としなかった。
「服、とりあえず着られたみたいで良かった」
肩回りはあまってだぶついているし、袖も指が少し見える程度に長すぎる。
だが、猫人間はさほど気にした様子もなく見上げてくると、不意に相好を崩して破顔した。
「寒かったので、助かりました。あなたはこの村の人じゃないですよね。もしかして、これからこの家に住むんですか? ひとりで?」
矢継ぎ早に聞かれたが、幸い「はい」「いいえ」で済む程度の質問だったので、頷いてみせた。
猫人間はますます笑みを深めて、嬉しそうに言った。
「良かった。じゃあ、これからよろしくお願いしますね! 名前はシュウです。好きな食べ物は魚です!」
魚か。
食の好みは合いそうにないな、と。
ぼんやりと思ったのはそんなことだった。