テンプレ否定派の肯定派の議論の不毛さ
現代人は思ったより馬鹿だと思う。原因は知識は増えてるが、それを享受してる人はかなり少ないからになる。次に社会的な分業構造だと思う。仕事以外の専門知識は特別高い知識を有してるわけじゃないって点。存在するのに利用してない。この事をきちんと認識してる人がかなり少ない。そしてそれらを習得してる人とそうじゃない人と較べるとやはり愚昧な大衆と言うのは存在すると思う。
人類が辿ってきた知の蓄積がかなり前で止まってしまっている。それがまさに学校教育だろう。それさえ満足に習得して無い。何故か?実学的じゃないからだろう。あれじゃ忘れてしまう。いや忘れて当たり前だ。利用し無いから忘れてしまう。今どれほどの位置に人間がいるのか?は全く重要じゃない。
社会的に大多数の人はどの位置なのか?なら何百年も前のレベルの知識階層と大差ないと思う。
不可知論、形而上学、神学論争。決定的な答えがあるわけじゃないが、人類はこの点多少はマシになったが、排除されたのは幽霊妖怪の類だけで、相変わらず思い込みによる妄想的で得手勝手な理屈には溢れている。今回の話しはそれらと深く関わっている。
結論から言うと、テンプレ否定派テンプレ肯定派の議論は不毛である。実際は違うが、エッセイカテのレベルの低さだと不毛だ。それが何故か?と言うと上に書いたことに繋がる。答えが難解なのじゃない。最初から答えが無い議論だからだ。それを見極める事が出来てない。それにはきちんと原因がある。
これは誰でも知ってるが、好みの好き嫌いを根拠にした議論は無意味だという事。まあこれで終ってしまったら、全否定になる。だがまずこの常識は誰もが知ってるが、それを上手く知的レベルで理解してる人は少ない。誰しもがそうじゃないと思い込んでいる。それに繋がる意味で、エッセイカテは感情論のクソ話が多いと書いてる。
全否定じゃないのは、私はそれを数と層と言う点で知的なレベルに昇華してるからになる。ただ議論じゃなく、似通った好み同士で言語化していく創作論の対話は全く不毛じゃないと思う。これが対立的になるとほぼ不毛だ。批判を認めろとかアホな話しより、それが不毛だから駄目なんだと知って欲しい。
なんでもかんでも、杓子定規に批判的精神の名の元に一元化するものじゃない。ケースバイケースだ。不毛な議論に付き合わされ迷惑するのはいつも肯定派なんだ。教条的と言うかシンプルに批判的精神の発露だけで動いてるが相手にとって迷惑だし、それを許容し無い社会は不健全だとか思い込んでるんだろう。
何もかもが自分にとっての都合の良い正当化に過ぎない。根本的に否定するのが楽しいからってのがあり、肯定派には何の得も無いのに他人の楽しみのために自分の不快だけが存在する議論に付き合わされる。これは犯罪的行動だと私は見てる。嘘っぱちの大義名分で、相手の時間を奪うな。
さあ不毛さに進もう。例えば、テンプレ否定派が望む文字物語と言うものについて。文字の物語だけが持つ素晴らしさを説いて、それが根本となって下らない文字以外物語がもつテンプレに繋がる面を否定するとしよう。魅力が分からないのが悪いと言う点だ。
確かに若者は食わず嫌いでそれはあるだろう。前も書いたとおり、多少はトレーニングが読書慣れにはいる。それを欠いた状態で、つらさやきつさからくるつまなさを本質的な面白さだとして、不快感をもたれても困るとなる。または中年になっても、読書慣れしてない層は当たり前に居る。何故ならこの状況は私の若い頃から始まっていたのを私は知ってるからだ。
文字物語離れは今に始まったことじゃない。それは、書店の減少、小説が売れないなどの顕著なものが出始めたのが最近なだけで、その兆しや危機感はずっと前から出版社がデータとして持っていた。
だが、この中で実際は読書なれしてるレベルは読んだが、文字物語から距離をとった人が多いって点。老化などいろいろあるが、もっと明確なものとしては、疲れるって点がある。疲れるのは誰でも同じじゃないか?疲れてまで得るものが薄いとなる。ここが重要になる。得るもの感じるものの量は個人差がある。
この絶対の差に無頓着ゆえにおかしくなる。慣れさえすれば面白さは理解できるってシンプルな思い込み。疲れに文字物語マニアが無頓着なのは、疲れが重要じゃないんだ。実際は得るもの=感情の濃さに個人差があって、そこまで刺激になってない。それだけの事になる。疲れの差はさほど無いだろう。結果としての感じ方に差があると、トータルで面白く無いとなる。
メリットとデメリットの話じゃない。メリットの個人差がある状態でシンプルな言語で議論しても多分不毛なものにしかならない。これは否定派=文字物語が好きな傾向から語ってるが、もっと広く物語全般でも全く同じになる。否定派が思ってるより、肯定派はそれ以外の物語に刺激を受けて無い。
これらを知的に話そうとすると、自然と数と層の話しになる。直接対話議論するのじゃなくて、その上俯瞰した視点でこの現象を見なくてはならない。そうなると、何故不毛か?はまだ原因がある。
意識的に頭をあまり使わない物語は、何故面白いのか?が分かりにくい。その何故が、誤ってただの特長を語ってしまって真の刺激は無視されることが多い。肯定派も否定派もこれは同じ、かつ否定派は分かってないのだからもっと酷い。かつ感じ方の個人差で、飽きたが問題なんだ。飽きる速度だって当然差がある。この根底は、好みの個人差によって刺激が弱くなるからすぐ飽きてしまうんだ。
飽きる事がすべての人が同時に起こらないから流行がある。多くの人が飽きるから流行が変わる。これを流行はしかけられたとか思い込みが多いが、そういった陰謀論は重要じゃない。根底に個人の刺激の無いしかけなど空振りに終る。しかけはきっかけに過ぎない。自分の刺激がありもしない妄想だなんて話しは無い。
そう思いたい馬鹿な否定派が作り上げた幻想だ。しかけは火花でしかない、火薬はキチンと人の心の中にある。否定派は自分がそれへの感情が無いか?薄いのでまともな思考が出来ないのが原因。
0か1かも議論の問題になる。すべての好みはグラデーション的に濃淡で示されるものじゃないといけない。それゆえ人の行動は複雑怪奇になる。それらを個々で扱っても不毛なものしかならない。だから集団として数と層が知的な言及に絶えうるものになる。
特徴と真実の刺激を見極めるのは可能か?なら難しい。だが全くそれに疑いもし無いってのが大半の人間だと言うのが、ネットのそういった物語の感想議論を見て気がついた事になる。
相関関係と因果関係が一番簡単な話しだろう。相関関係から導き出した答えは因果関係においては誤謬も多いとなる。副産物的な刺激を全く関係が無い、作品独自の特徴をそのままこれが面白さだとしてしまうケースがものすごく多い。何故か?頭をあまり使わないから、いちいち意識して物語を把握して無いからになる。
根本的に過去批評が重ねられた議論向きの物語じゃないんだ。それを過去からの流れでそのまま適用する馬鹿が多いのが、テンプレ批判派の間抜けな点なんだ。その流れなら確かにそれを排除する流れはさぞ不健全で、物語の発展を嫌う後ろ向きな創作活動に見えるだろう。いや違うから、あんたが違いが分かって無いだけだから。