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羊の短編集。

猫に似ている。

作者: そらみみ




声をかけたのは、彼女が猫に似ていたから。

膝を抱えて、声も出さずに涙を零すその横顔が、あまりにひとりきりで綺麗だったから。



「おーじさん!」

いつも通り公園のベンチに座っていた俺の前に、彼女は背後からひょっこりと現れた。

両耳の上で括られた柔らかそうな栗色の長い髪が、首に巻かれた赤いタータンチェックのマフラーと対比されてよく映える。

彼女がいつも身に纏っているのは、一目で制服とわかる紺地のブレザー。自分の世代はセーラー服が多かったから、いつも少しだけ珍しいなと思ってしまう。

「なになに、おじさん。もしかして私の制服姿に見惚れてた?」

手ぶらの彼女は俺の視線に笑って、くるりとその場で軽やかにターンしてみせる。膝丈のスカートが綺麗に揃って揺れた。

 小動物を思わせる黒目がちな瞳はきらきらと俺を見て、薄桃色の唇は閉じられたままうきうきと俺の次の言葉を待っている。

 吹き付ける冬の風を受けて、コートの襟に首をうずめる。対する制服姿の彼女はマフラーこそ巻いているものの、膝上のスカートから伸びる足は寒そうだ。

「いや、いつも通り寒そうだなぁと思ってな」

「むー、そこは制服姿を眩しがるところでしょ?」

「…………マブシイナー」

「すっごく棒読みだけど、おじさんがおじさんっぽいこと言ってる」

「言えって言っておいて、その感想はどうなんだ」

呆れて半眼になれば、彼女は華奢な体を折ってきゃらきゃらと笑った。

12月の公園は、さすがにその寒さゆえか子供が少ない。ブランコを漕いでいる兄弟らしき少年たちを横目で見ながら、彼女は俺の隣に腰を下ろした。

「子供は風の子って言うけど、最近の子はお家の子だよね」

「いや、風の子でも火の子でも、お家の子ではあるだろ」

「まぁ、一理あるね!」

「いま絶対にただその言葉使いたかっただけだろ。ここで使うのは違和感だよ、お嬢ちゃん」

指摘こそしたものの、言わんとしている意味はわからなくもないから、まぁいいじゃんと足をぶらつかせる彼女に苦笑する。

「それでですね、おじさん」

急にぴっと背筋を伸ばした彼女は、折り入って話がある、という風に表情を引き締めてみせた。その様子に倣って、こちらもいつも猫背気味になっている背筋に少しだけ力を入れて向き合う。

「お嬢ちゃんどうしたんだ、かしこまって」

「好きです」

「……………………どうも」

なんと言っていいものかたっぷり悩んで、そう返せば、途端に彼女はむすーっと膨れっ面になる。

「その反応ひどくないー! 私、花も恥じらう女子高生だよ? 浮かれこそすれ、なにその呆れたって反応!」

「いや、毎日言われるとさすがにお腹いっぱいというか、驚きも減るというかなぁ」

「おじさんの贅沢者め!」

「いや、そうさせたのお嬢ちゃんだから」

「む。今の言い方なんかやらしい。君しか俺を満足させられないみたいな」

「言ってない言ってない。むしろ意味合い的には逆に近くないか」

くるくると表情を変える彼女を、どうどうと宥めながら内心でため息をつく。

彼女に俺は一体どう見えているのか知らないが、俺は花の十代に比べれば三十路そこそこのいいおじさんである。自分で言うのも悲しいものだが、顔は十人並み、癖の強い黒い髪はぼさぼさ、髭はもっさもさの猫背気味の中年男性が俺である。

「それをなんで好きとかいうことになるのかねぇ」

「え、何か言った?」

先の会話なんてなかったかのように、公園に住み着いた猫に関心を奪われていた彼女が振り返る。しゃがみ込んだままこちらをきょとんとこちらを見返す彼女を見つめながら、自分の太ももの上に頬杖をつく。

「君はこんなおじさんのどこが好きなんだ」

 何気ない問いは彼女にはどうやら予想外だったらしい。彼女は目を見開いて固まった。しばらく待てば、歯切れ悪く彼女は口を開く。

「そういうの……普通聞く?」

「いや、疑問に思ったから聞いたわけなんだが。そもそも答えられないってことは」

「だって、それって、こ……」

「こ?」

「こ、告白しろって言われてるようなものじゃん!」

びしっと指を突きつけられて、目を剥く。驚きのあまり二の句が継げない。

そんな俺の様子に気づくこともなく、彼女はそわそわと急に落ち着きをなく、視線を彷徨わせる。

「急に告白しろとか、そういうことを言われても、困るっていうか」

 なら、さっきのは告白ではなかったのか。

「いや、でもちょっと俺様みたいで強引なのもかっこよくなくはないというか」

 いや、俺がいつそんな強引なことを言ったか。

「あぁもう! そんなに言うなら、私が言ったらお願い一個聞いてよね!」

「もう好きにしてく……」

 思わず投げやりに返事をしかけて、はっとする。彼女の目がきらんと光ったかと思えば、一足で彼女は俺へと距離を詰めていた。思わず、のけぞる。

「なら、デートして!」

「は?」

「だって、それくらいのメリットがないと割に合わない! 今更、じゃあ言わなくていいぜベイベーとか、男らしくないこと言わないよね!」

「わ、わかった」

剣幕に押されて文字通り両手を上げて了承の意を示す。約束だからね、と人差し指を突きつける彼女の口元は少なからず嬉しそうで、余計に困ったなという心持ちになる。

「ただ、行くところは俺に決めさせてくれよ」

「えー! おじさんに連れて行ってほしいところあったのに!」

「こ、こういうのは男がエスコートするもんだろうが」

 エスコートなんておおよそ日常会話で使わない単語を使ってしまい、舌を噛みそうになった。

途端にぱあっと華やぐ表情に、ぐっと罪悪感が押し寄せる。エスコートなんてのは口からでまかせで、自分の困らないところに適当に連れていこうと思っているなど彼女は知るまい。

「おじさん! いまのなんかすごくきた!」

何がだよ、と思いつつ、俺は小さくため息を吐いた。


 彼女はいつだって自由に見える。

 初めて言葉を交わした日から、彼女はいつだって俺の予想を超えていく。


「えーっとね、おじさんの好きなところはねぇ」

 デート(仮)の約束を取り付けた彼女はいつもより幾分嬉しそうに笑っている。

 ニコニコしている彼女に害はないし、どうせなら笑っていてくれる方が心中穏やかなのだが、それにしても自分の先の発言は失言だったと項垂れたくもある。

「かっこいいか、かっこよくないかで言えば、かっこよくないところ」

「…………ちょいとお嬢さん? おじさん泣くよ?」

 一瞬だけ耳を疑って、それから冷静になって理解すればなんという暴言。

「もう、最後まで聞いてよね! おじさんの可愛いところが好きなの! この前、猫と一緒にベンチで煮干し食べてたでしょ!」

「…………おい、なんで知ってる」

可愛いという、おおよそ三十路の男に似つかないワードを否定する文言が頭を高速で展開したから反応が一拍遅れた。対する彼女はどこか誇らしげに、それでいてそれをかみ殺すようにつんと澄ましてみせる。

「だって、見てたもん」

「見てたもんじゃありません!」

「その時のおじさんのほけーっとしたまま、猫と同じ方向見ながらもそもそ煮干しを食べているときの可愛さったらない。あれこそプライスレス。私が写真家ならフラッシュの嵐だったよ、良かったね」

「どっちにしろ良くない」

「まあまあ、あんまり怒ると皺が増えるよ」

 どうどうと、今度は彼女が宥めるように俺をいさめて、今度こそ俺は大きくため息を吐いた。



 彼女と初めて会ったのは、もちろんこの公園だった。

 意外かもしれないが、俺の方から声を掛けた。始めは危ないおじさんかと思ったと悪びれずに彼女に言われたときは、少なからずグサッとくるものがあったが、それも今にして思えば、彼女が俺を少しは信用して打ち明けてくれたことに他ならない。

 猫が好きで、赤いタータンチェックが可愛くて好き。子供は見てるのは好きだけれど、一緒に遊ぶのは疲れそう。制服ばかりは飽きるから、たまには違う格好をしたい。寒さにはたぶん強い。

 彼女が俺に話してくれたのはそんなことぐらいだ。夕方ベンチに座れば、彼女はどこからともなく表れて、嬉しそうに俺を呼ぶ。おかげで習慣でも何でもなかった気まぐれの散歩は、すっかり日課になってしまった。

 おじさん、と初めて呼ばれたとき、少しは抵抗をしたのだが、あんまりにも笑顔で彼女が呼ぶものだから結局そのままにさせている。最近ではとうとう自分でもおじさん、と自分のことを呼ぶようになってしまったのだから格好がつかない。

 ところで話は変わるが、俺は猫が好きだ。ご近所さんから住んでいる古家を猫屋敷と呼ばれていることも、うっすら知っている。

そして、彼女は猫に似ている。

 彼女と夕方にベンチで他愛のない話をするのはきっと、そんな単純な理由に似ている。





「図書館なんて久しぶりに来たなぁ」

 本棚の間を縫いながら、先を行く彼女がそう呟く。

 立ち並ぶ本棚に収まる本は児童書で、彼女はその背表紙を時折足を止めて小声で読み上げる。

「こぶたくん、まちへいく。これは街に行って何をするんだろ」

「家族への仕送りのために、身を粉にして働くのかもなぁ」

「えー、絵本なのに夢がないよ。それに粉になるより、ステーキになったほうが良いと思う」

「おじさんは、その発想の残虐さに泣けてくるよ」

 そうかな、と彼女は少しも悪びれた風もなく首を傾げた。

俺がデート(仮)先に挙げたのは図書館だった。ここであれば、会話の声も自然と小さくなるし、周りの目も気にならない。何より、自分が身を置いても、分不相応でないところが良い。

「てっきり、行きたいところっていうから遊園地とかかと思ってた」

 この身で行くうえで一番、形見が狭い場所を上げられ、笑顔のままスル―する。そんなところに行ったら、周囲の若さと煌きに目がつぶれるような気がする。

 ただ、彼女はきっとそういうところに行きたかったのだろうなと、少なからず思った。

「遊園地がよかったか?」

 つい、罪悪感に負けてそう尋ねる。これで頷かれたら、どうするのだろうかと言うことは考えていなかった。それでも、もし肯定が返ってきたら、俺は悩むのかもしれない。

けれど、彼女はあっけらかんと笑った。

「ううん。なんか新鮮で楽しいよ。いつも公園でしか一緒にいないから」

「それ、本当にお嬢ちゃんの本音?」

「こんなことで嘘つかないってー」

 ごくごく自然に彼女はそう言う。少なからず、安堵して息を吐く。彼女はそんな俺に目を細めて微笑んだ。

それから、また彼女と一緒に本棚の間を歩いていく。

 彼女はやっぱり時折足を止めて、いたずらに本の題名を読み上げては俺にあらすじを問う。対する俺は読んだことのない本のあらすじを、面白おかしく空想して彼女に披露する。

 人の少ない夕方の図書館は静かで、潜めた声はきっと彼女にしか聞こえていないのだと思う。

 彼女の笑い声も、きっと俺にしか聞こえない。

「弓張り月の声」

 ふと、挙げられた題名に一瞬返答が遅れた。いつの間にか本棚は児童書ではなく、小説が並ぶ一角になっていた。途切れることのなかった会話の応酬に落ちた違和感に彼女が俺を振り仰ぐ。

「おじさん?」

「……あぁ、悪い。ぼーっとしてた」

「これは読んだことある本?」

 彼女なりの推測だったのだろう。思わず、苦笑いが零れた。彼女は内面さえ、猫のように聡い。

「まあ、随分と前の話だけどな」

 どんな話なのかと、彼女の目が聞いている。青い背表紙に金の文字。本棚に囚われたその本に目を滑らせて、俺は彼女に視線を戻す。

「なんなら読んでみるか?」

「――――ううん、いいや」

 一言だけ落として、彼女はまた歩き出す。あっさりと引き下がった彼女に拍子抜けした後、失敗したと遅からず気づいた。

 彼女は確かに図書館という場所を楽しんでいただろう。

 けれど、そうだ。彼女は一度も本に手を伸ばさなかった。背表紙の題名を読み上げるだけで、彼女はそのページをめくろうともしなかった。自分にあの本を取ってほしいと、そんなことも言わなかった。

 彼女を呼び止めようとして、少しだけ迷う。

それでも、本棚の間を進む彼女をやはり引き留めようと口を開いて、

「斉藤先生?」

背後から呼ばれた名に、自分より先に彼女が振り返る。夕暮れに染まる本の群れの中、俺も呼び声の主へと顔を向けた。

 そこにいたのは眼鏡をかけた一人の女性。かっちりした紺地のスーツに、簪でまとめられた黒髪には一部の隙もない。小首を傾げているのは、おそらくここで自分と会うなどとは思っていなかったからだろう。会釈をして声を掛ける。

「こんばんは、小林さん」

「えぇ、こんばんは、斉藤先生。先生とこの時間の図書館で会うとは思っていませんでした」

「俺もです。小林さんは資料集めですか?」

「いえ、今日は仕事が早く上がれたので私用で」

 他愛もない会話が続く中、足音のないまま彼女が背後に佇んだのを気配で悟る。

「先生はどんな御用で図書館に?」

 伺うような視線から逃げて、斜め後ろにいる彼女をそっと確認する。

 彼女は、静かに俺が小林と呼んだ女性を見つめていた。そして、その唇から続いた言葉に、目を逸らした。

斉藤先生、と女性は眼鏡の奥の瞳を揺らすことなく俺に問う。

「お一人ということは資料集めでしょうか?」



「おじさんは、どうしてって聞かないね」

 図書館から公園に戻れば、もう日は暮れていた。子供たちの姿はなく、公園の遊具は冬の寒さに晒されている。

 彼女はいつも通りに、指定席とでも表現すべきであろうベンチに腰を下ろした。

「それって、私にこれっぽっちも興味がないから?」

「いや」

「私のことが嫌いだから?」

「ちがう。いま、目の前にいるお嬢ちゃん以上の情報はいらないよ」

「……そっか」

 ベンチに座ったまま、膝を抱えた彼女の横に腰を落ち着ける。

 夜に近づく空気は徐々に冷たく張り詰めていく。彼女の視線はだんだんと下がり、とうとう彼女は抱え込んだ膝に顔をうずめた。

 何も言わないのは、彼女の言葉を待つべきだと思ったから。彼女はいま、きっと必死で言葉を絞り出そうとしている。

 より一層膝を引き寄せて、彼女はようやく言葉を発した。

「死んではないよ、私。たぶん幽体離脱みたいなもの。自分のことだからわかるよ。でも、記憶、ないの。だから、自分の体に帰れない。……でも、帰れたとしても帰るのが怖い」

 薄々どこかで気づいていた。

 この隣にいる少女が、自分以外の人間には見えていないことに。

 けれど、それは彼女にとっても同じだったのだろう。薄々、彼女は自分が俺以外の人間にとってはないものとして扱われていることに気づいていた。自分の今の状態が異質であることも、きっと勘付いていたのだろう。

 それでも、今日までは、あの瞬間まではお互いに決定的な確信を避けてきた。

「おじさん」

 彼女が顔をうずめたまま、くぐもった声で俺を呼ぶ。

「なんだ?」

「好きだよ」

 それはあまりに唐突だった。いつだって、突拍子のない彼女らしい言葉だった。

 けれど、それは同時に今までとは明らかに違う温度と声音で告げられた。

 これだけは本当なんだよ、とひどく脆いその声が物語る。

 その感情こそがいまの何も持ちえない彼女の、たった一つの勝ち得たものだったのだと、そう思った。

 例え、それが状況に酔った、かりそめの恋情だとしても。



 初めて好きだと言われたのはいつのことだっただろうか。

 おそらく日が暮れ、そろそろ帰ろうと腰を上げた時だった。次はいつ来るのと、無邪気に尋ねた彼女に気まぐれに任せてだと、冗談交じりに返した後。彼女と初めて話すようになってから、1週間は経過したそんな頃合い。

「おじさん」

「だから、おじさんって呼ぶのは」

「す、好きだよ!」

 思わず目を見開いて、言葉を無くしたのは覚えている。なぜならそれは、あまりに急で、予想をはるかに超えていた。驚きに停止した脳が、それでも何かを言わなくてはと発言を促し、

「だから、明日もちゃんと会いに来てよね!」

続く言葉に、何かがすとんと落ちた。焦りも混乱もすっと静まり、あとはただこちらを見上げてくる彼女の表情だけが残った。

「……わかった」

 まるで死刑宣告を待つような彼女の表情が、そのたった一言で花弁が解けるように安堵に染まる。

昔、誰かが言っていた言葉を冷たさの中で思い出す。吊り橋を渡るとき、その恐怖による動悸を、恋と勘違いするときがあるのだと。そして、それは恐怖故に縋りついた相手に向くのだと、その誰かは肩を竦めた。

 だから、そうか、と。

 その時から、わかっていたことだった。

彼女が俺を好きでないことぐらい、初めから知っていた。



***



「ごめん、おじさん、笑っていい?」

 真顔でのその断りに、一体なんというのが正解だと言うのだろう。

 現に、許しを請うておきながら彼女は、俺が許すのゆの字も言う前にもう既に噴き出しかけていた。

「そんなにおかしいか」

「いやだって、毎日夕方に公園に来るようなおじさんとかニートか、リストラされた人なのかなって思うじゃん? 小説家なんて思わないじゃん? あえて触れないようにしようかなって気遣いも必要なかったってことでしょ? すごいよ、おじさんってば文豪なんだ! 似合わない!」

「ひとつ言っておくが、小説家イコール文豪ではない。あと似合わないのは自覚済みだよお嬢ちゃん」

「じゃあ、私のこと書いてほしいな! おじさんとのらんでぶー」

「うん、お嬢ちゃんランデブーの意味知らないだろう?」

 笑い声をかみ殺そうと躍起になっている彼女にやや呆れる。それでもその姿にどこかで安堵する自分がいるのも否定できない。

 図書館の一件から一週間。彼女はいつもの調子を取り戻していた。そもそもあの日の翌日から、いつもと変わらない頭の軽い会話を取り戻していたのだから、彼女は手に負えない。

そして今日は、話の流れで職業を打ちあけることとなり、聞いた彼女は顎が外れるかとこちらが心配するくらいにぽかんと口を開けた。そして、その後に先の台詞である。心配して損したとはこのことだ。

「あれ? らんでぶーであってない? 愛の逃避行のほうが良い?」

「はいはい、勝手に言ってなさい。そもそも俺は誰かをモデルにして小説は書かないことに決めてるんだよ」

ひらひらと手を振って、会話を散らす。けれど、その言葉に彼女は興味を惹かれたようで、目を丸くした。

「どうして?」

「どうしても。責任が取れないからな」

「責任?」

 一から十まで言わないと理解できないとでもいうように、彼女はオウム返しに疑問をぶつけてくる。これは説明しないと、彼女の性格上、引き下がらないと判断して、やや重い口をごまかして告げる。

「例えば誰かをモデルにして、その人物が死んだり、罪を犯したり、そういった救われない結末になった際に責任が取れない。誰だって、自分をモデルにした人物が犯罪者として描かれたとしたらいい気分はしないだろう」

「ふーん、そういうものかな、作家先生おじさん」

「そういうものだよ、あんまり本を読まなそうなお嬢ちゃん」

「私、おじさんの書いた本なら読んでみたいかも」

「それはどうも」

「むー、どうせ社交辞令だって思ってるんでしょ」

「違うのか?」

「違うよ!」

 おそらく売り言葉買い言葉に近いものだった。けれど、あの日からぶつけてみたい言葉でもあったのだろう。

 その言葉はなんのひっかりもなく、唇から零れてしまった。

「なら、帰るのか? いまは本に触れないだろ」

 彼女の表情が凍り付いた瞬間に言葉の意味を自覚して、それからそれでも、そう問うたことを後悔しなかった。

 あの一件から一週間。その問いかけは心の片隅でずっと、くすぶっていたものだった。

 瞬きの間に彼女の表情はめまぐるしく変化して、けれど最後にはそっと抜け落ちた。

「きっと、どんな人でもそういうんだろうなって思うよ。わかる、わかるんだよ」

 でも、と彼女は俯く。その細い肩が震えて見えるのは決して気のせいではないのだとわかる。

「おじさんに言われると堪えるなぁ…………私、いらない?」

「そういう話じゃない」

「じゃあ、どういう話? 私のこと、扱いに困ってるなら、もう来なければいいだけの話でしょ?」

 顔を上げた彼女が見たことのない感情を隠した形だけの笑みを口元に浮かべる。棘を持った声だけがまっすぐと言葉を紡ぐ。

「見捨てると夢見が悪いから? だから、そんな当たり前のこと言うんだ」

「お嬢ちゃんと話すのは楽しいよ。見捨てるとか、そんな何様だっていうことも考えてない」

「楽しいならいいじゃん。そうだよ、おじさんが飽きたらそこで終わりにしてくれればいいから、それまで付き合ってよ」

縋るような言葉なのに、彼女の声音は俺を拒絶するように固く冷たく色を失っていく。聞いているこちらが苦しくなるようなそれは、きっと自覚があって発せられているものではなかった。膝の上で握りしめられた指は、言葉を飲み込むような必死さに似ていた。

「お嬢ちゃん」

「逃げてきて気がするの……!」

 悲鳴じみた叫びだった。泣きそうに歪んだ顔は、それでも涙が滑ることはない。自分の体を抱きしめて震える彼女は、マフラーを巻いた彼女は、本当は寒さなんて感じていないだろう。

「ちゃんと思い出せたわけじゃない、でも苦しいことがあったのは覚えてる。逃げた先が今なのかもしれない。それなら……っ」

「生きていて、ひとつも苦しい思い出がないわけないよ」

 淡々と返した言葉に彼女が傷ついたように小さく息を呑む。残酷な、少しも優しくないことを言った自覚はあった。

 彼女もそれを感じ取ったのだろう。傷から生まれた感情は、攻撃性を隠さないまま、俺に向けられる。

「おじさん、小説を書いたときに誰かをモデルにしたことあるんでしょう?」

 いっそ、すがすがしいほどに脈絡のない方向へと会話の矛先が向く。嘲りをはらんだ瞳がゆらゆらと揺れる。

「きっとそれがきっかけで何かがあった。そうでしょ。そして、その本は図書館のあの本なんだ。おじさんだって、それから逃げたいんでしょう? 逃げられるものなら、逃げたいんだよ。それなのに、私には逃げるなっていうの!」

 攻撃する標的を定めた言葉は、鋭く空気を切り裂いていく。飛躍した理論は確かに今までのいくつもの欠片をつなぎ合わせたもので、やはり彼女は猫のように聡いと場違いにも思う。

 青い背表紙に金色の文字。触れるのを一度躊躇って以来、開けないでいるページのことを思い出す。

 ふっと、自然に笑いが零れた。彼女が目を見張る。自分の中でこの時になってやっと腑に落ちた事実が心を穏やかにしてくれた。

「君は猫に似てると思ったんだ」

 それは、彼女と出会ってから幾度となく浮かんだこと。

 意図がつかめず、怪訝な色を示す彼女はまるで警戒心を露わにした猫のよう。その様子さえ、心を揺らす。

「泣いていた君に惹かれた理由がいまやっとわかった」



初めて彼女を認識した日、彼女は一人きりで泣いていた。

冬の公園、子供たちの喧騒から離れたベンチの上。膝を抱えて、ともすれば見逃してしまうほどささやかに彼女は涙を零していた。

 彼女が身を包む制服は近所の高校のもので、違和感を覚える理由などなかったのに、彼女はどこか言うなれば景色からずれていた。でも、それだけが声を掛けた理由ではなかったのだと思う。

「お嬢ちゃん、寒くない?」

 我ながら、なんて危ない声の掛け方だったのだろうか。ゆっくりとこちらを見上げた彼女は、驚きで涙を止めていた。

 寒いです、と呆けたように彼女が言って、俺はそこでようやく無意識のうちに口に出した言葉に焦って、焦った末に、何をとち狂ったかちょうど抱えていた猫を差し出していた。

「温かいけど触るか?」

ぽかんとした彼女は、しばらくそのまま固まって、それから噴き出した。急な反応に目を白黒させれば、彼女は息もできないのではないかと心配になるくらいに笑った後で、目尻に浮かんだ涙を拭った。

「そんなホッカイロみたいに……おじさん、変!」

「え、おじ……変!?」

「あー、でも、ありがとうございます。なんかもう今ので、いろいろ楽しくなっちゃった」

 そう言って彼女は、花が綻ぶように少し照れくさそうに破顔した。



 

「お嬢ちゃんのこと、あの日初めて会ったのかと思ってたけど違ったんだ」

「……え?」

「時々、あのベンチで一人でぼーっと座ってたのを見たことあるのを思い出したんだ」

 きっと普段は明るくて、たくさんの友人に囲まれているであろうタイプだと思った。

毎日、足を運ぶような公園ではなかった。それでも、小さな違和感として残るくらいに彼女はその時折の風景に溶け込んでいた。

「でも、泣いてるのを見たのはあの日が初めてだった」

 いつの間にか彼女は何も言わずに、俺の次の言葉を待っていた。夕日は傾き、夜が訪れる前のわずかな時、重ねてきたこれまでの何気ない会話を懐かしく思った。

「思ったんだ。この子はいつも泣きたくて、あのベンチに一人で座ってたんじゃないかって。でも、結局いつも誰かの目を気にして泣けなくて、だからこそ本当の意味で誰も見てないとわかったあの瞬間泣いてたんじゃないかって。そう思ったから思わず声を掛けてたんだと思う」

「そんなの、わからないじゃん……おじさんの勝手な想像でしょ? それにそれで何がわかるっていうの……」

「そうだよ、なにもわからない。でも、きっと、誰かに心配をかけるのが嫌で、弱いところを見せるのが意地でも嫌だっていうそういう、そういう頑なで不器用で可愛い女の子だなって思ったんだ」

 一度も伸ばさなかった手を伸ばして彼女の頭に触れようとする。怯えたように身を引こうとした彼女に関係なく、その手は彼女に触れられることはなかった。すり抜けそうになった手を大人しく引く。

「触れないって改めてわかると歯がゆいな。かっこもつかな……」

 ぎょっとしたのは、あんなに頑なに泣かなかった彼女が涙を零していたから。

 ぽつり、ぽつりと零れる涙は彼女にとっても予想になかったことなのだろう。呆けたままに彼女はゆっくりと瞬きをして、それからくしゃりと顔を歪めた。

「おじさんは狡い…………触られたいって思っちゃったじゃん」

「な」

「だって、気づいたら私のこと見えてるのはおじさんしかいなくて、だったらおじさんに見捨てられたら一人になっちゃうってそう思って。おじさんは優しいし、好きだなって思って、でも引き留めたくて必死だったのも本当で、でも自分勝手なことはわかってて、それなのにおじさんはやっぱり優しくて」

「優しいとは違うんだけどな」

「違くない!」

 涙を零しながらキッと見上げられて、頬をかく。

「年甲斐なく、惚れちまったんだから、それは下心じゃねぇのか」

「………………え?」

瞳が零れ落ちるのを心配してしまうほど、彼女が丸く目を見開いて動きを止める。そんな様子でさえ、愛らしいと思えてしまうのだから、こういった感情は厄介だ。自然と頬が緩む。

一度、伝えてしまえば、溢れてくるそれを躊躇う理由はなかった。

「好きだよ、お嬢ちゃん」

「そ、んなの嘘……」

「あいにくと小説では嘘を書いても、現実では正直者でね」

「だって、私は」

「お嬢ちゃんの言うとおりだよ。俺は自分の書いたもので人を傷つけたことがある。乗り越えたつもりだったけど、正直さっきのは少し堪えた」

 さっと、彼女が青ざめた。震える唇で零れ落ちそうになった謝罪を手で制止して先を続ける。

「でも、そうなんだよ。生きていればきついこともあるし、乗り越えたつもりでも少し突かれればまた棘になる。けど、やっぱりそれでも楽しいことはあるし、いい出会いも転がってる。そう悪いもんじゃない」

「だけど、怖いよ…………私が何に苦しんでいたかもわからないのに、それでも帰らなきゃいけないの?」

「あぁ」

 助けを求めるような瞳にはっきりとした言葉を返す。歪みかけた彼女に茶化して言い聞かせる。

「帰らないと、俺の本、読んでもらえないからな。それにやっぱり俺は、君の名前も気になるし、今度はちゃんと遊園地でもなんでも一緒に行けたら嬉しい」

「あ……」

「今気づいたか? 一人図書館はよくても、三十路の中年男が一人で遊園地はさすがにきついだろ?」

 言われたとおりに想像したのか、彼女が噴き出す。きっと、図書館であの会話をしていた時、彼女は自分が霊体である自覚はなかったのだろうと思うと、それも少しだけ嬉しかった。つまりは、自然体でそういったことを忘れられる時間を俺が彼女にあげられていたということだから。

 けれど、いつまでもそんな風にはいられない。

 それはきっと、彼女自身が一番よくわかっている。

 やがて、笑い声を収めて、彼女はふっと困ったように微笑んだ。

「本当はなんとなくわかってたんだ。きっとそろそろ戻らないと、もうずっと帰れなくなる」

「そうか」

「だから、きっとこれでいいんだよね。私、帰っても大丈夫なんだよね?」

「あぁ、お前のことを待ってくれてる人がきっといるよ」

「その中に、おじさんもいる?」

 おずおずと彼女がそう尋ねて、一瞬だけ言葉に詰まった。その一瞬で曇りそうになった彼女の不安も吹き飛ばすように、彼女が安心できるように俺は笑う。

「そう、俺もお嬢ちゃんにまた会えるのを待ってるよ」

 そっかぁ、と彼女は目を閉じる。

「私、帰ってもよかったんだ……」

その体が、すっと透明度を増す。

「おじさん」

「なんだ」

「……ううん。これはまた今度会った時にする」

 夕闇の中、空気に溶けていく彼女は何かを言いかけてやめたようだった。

その言葉をいま聞きたいと思うのは俺の我儘で、彼女には伝えるつもりはない。

「じゃあ」

「うん」

 いつもベンチで別れるように、俺が手を上げて、彼女が後ろ手を組んでまぶしそうに目を細める。

 そうして、俺は1人になった。

 夕闇に溶けた彼女の欠片は初めからそこに誰もいなかったように、何一つ残らない。

 握りしめていた拳の中、肌に食い込んだ爪が痛かった。

「正直者が聞いて呆れるよなぁ……」

 吐いた嘘は数えきれない。大人は汚いと子供が言うのは、きっと大人がいくつも嘘をついて生きているからだ。

 それでも、嘘を吐くことで彼女が本当の居場所に帰ることができるのなら、俺はいくつだって嘘を吐く。

 もう、会えないかもしれない。

なんて、そんなものは俺だけが知っていればいい。




 記憶がないと、彼女が言った時。

 その可能性に思い至った。

 つまりは、彼女が無事に元の体に帰って、目覚めた時、この記憶は果たしてどうなるのか。

 ただの曖昧な夢になり果てるのか、それとも目覚めることで消えてなくなってしまうものなのではないか。

記憶を取り戻した瞬間に、代わりに消えていくものではないのか。

でも、しょうがないと思った。

 この記憶も、この感情も、この会話も、あの時間も、すべてきっと夢のような本来ならあるはずのないものだったのだから。



***



 季節は巡る。彼女と出会った冬は終わり、暦は春を迎えていた。

 あれから、あの公園には足を運んでいなかった。彼女が記憶を無くしてしまったことが怖かったのかと言えばそうではない。彼女が本来の記憶を取り戻したとき、自分は必要ないとそう思ったからだった。

 家族があり、家があり、名前があり、友人がいて、生活がある。一度は失いかけたものをもう一度、その手に抱きしめることで彼女は精一杯だと、そう思った。

 けれど、どうして今日、再びこの公園に足を運んでいるかと言えば、それでも一つだけ縋りたかったという少しの未練にすぎない。これが綺麗に散ってしまえば、それでいいと、そんな自己満足の結果を受け入れるためだけにこうして久しぶりに公園に足を踏み入れた。

 冬には気づかなかったが、この公園にはたくさんの桜の木が植えられていたらしい。風に舞う薄紅色の花弁が、寂しげだった公園を鮮やかに染め変えていた。遊具で遊ぶ子供たちの声ですら、明るく聞こえ、微笑ましいと頬が緩む。けれど、心が晴れないのは、ここにきてあのベンチに座る勇気がまだ出ないからだろう。

 ふと、巡らせた視界に目を見張る。

 薄紅が揺れる中、なびく髪がはじめに目に飛び込んだ。こちらに歩いてくるその姿は、制服姿ではないもののすぐにわかった。思わず、声を掛けそうになって、寸で思いとどまり、自分も何もなかったかのように歩を進めた。

 すれ違う瞬間、胸を過ぎるものに眉根が寄った。わかっていたつもりの、簡単に飲み込めると思っていた感情の息苦しさに苦笑が零れた。ぽっかりと開いた喪失感に、どこかで期待していたのだと、この時やっと思い知った。

 俺は、本当に彼女のことが好きだった。

 いつからと聞かれれば難しい。けれど、隣でくるくると変わる表情も、意地っ張りなところも、明るく振る舞っている裏で、いつも相手のことを考えている器用で不器用なところも、全部、そのままであってほしいと思っていた。

 でも、きっと彼女はこれから幸せに生きていくのだと、それならいいのだと、掌を握りしめて、

「――――ふざけないでよ!」

 はっとして顔を上げる。振り返った俺の目に飛び込む、肩を怒らせた彼女の姿。

 怒りで真っ赤になった顔、まっすぐとこちらを射抜く強い光。

「なんで何も言ってくれないの! こんな時ぐらい、おじさんから声かけてくれたっていいじゃない!」

「な、んで」

「会いたかったのは、私だけってこと?」

「待て、なんで怒って――――」

 彼女が距離を詰め、瞬く間に胸倉をつかむ。先行する怒りに押され、彼女をよく見ていなかった。その時になってようやく俺は気づく。こんな時まで、自分の馬鹿さにほとほと嫌気が差す。

「どうして私ばっかり、いつも私ばっかり……!」

 泣きそうに歪んだ表情は、怒りを示すものではなく、痛みを示すものだった。

「お嬢ちゃん」

「会いに行きたかったよ! でも記憶があやふやになっちゃって、最近になってようやくいろんなことが思い出せて、やっと会えてうれしかったのに、驚かせようとしただけなのに、なんで」

 くしゃりと歪んだ顔に、あぁと思う。あの時告げられなかったことを、今度こそ告げてもいいのだと口を開いて。

 顔に思いっきり何かをぶつけられた。

「…………お嬢ちゃん、控えめに言っても痛い」

「痛くしたんだから当たり前! おじさんのヘタレ、馬鹿、甲斐性なし!」

「うん……あの、弁解の隙をくれ」

「嫌だよ! まだ言い足りない!」

 取り付く島もない様子に、ぐったりしつつ、顔にたたきつけられたものが何かをようやく確認して目を見開く。

「お嬢ちゃん、これ」

「読んだ。別に売り言葉、買い言葉じゃないけど、面白かった」

少しだけバツが悪そうに眼を逸らして、彼女が唇を尖らせる。いま俺の手にあるのは、今月のはじめに俺が刊行した本だった。彼女が顔を背けたまま、視線だけこちらに寄越す。

「この中に出てくる登場人物の一人、私がモデルでしょ」

「……そんなにわかりやすかったか?」

「わかりやすいも、わかりにくいもないよ。だって、私じゃん」

「まぁ、本人に言われたら、言い訳できないな」

 何となしに頬を掻けば、何か言いたげでありながらそれを悟れと促すような視線を向けられる。

「えーっと?」

「なんでおじさんってこんなに空気が読めないの!」

「えぇ、それはあんまりに横暴じゃ」

「ないよ! てっきり、そういう意味かと思った私が馬鹿みたい!」

 要領を得ない彼女の言い分に、困り果てるものの、彼女はどうやら自分で落ち着きを取り戻したらしい。

 ため息の果てに、少し静かに切り出した。

「私、おじさんにまだお礼も言えてなかったんだよ。それなのに、おじさんは公園に来てくれなくなるし、作家名もぼんやりとしか思い出せないし、手掛かりゼロに等しいし、やっと会えたら知らないふりするし」

「もう、君は俺のこと覚えてないかと思ったから、それなら会わない方がいいと思ったんだ」

 こうして言葉にしてみると、何とも言えず安っぽい理由だと情けなくなる。彼女の幸せを願ってみたところで、俺が彼女の幸せを勝手に決めていいはずもなかった。

 案の定、彼女は唇を噛みしめて、俺を睨み付けた。

「私のことを待っていてくれる人はいたよ。お母さんも友達も私が目を覚ましたら抱きしめてわんわん泣いてくれた。思い出せた自分のことも嬉しかったよ。でも、だからっておじさんが居なくていいことにはならないよ」

「……会いに来てくれようとしてくれてありがとな」

 少しためらってそれからその頭に手を伸ばす。その手は避けられることも、すり抜けることもなく彼女に届いた。

まんまるなその頭を撫でれば、彼女はふて腐れたように頬を膨らめた。

「子ども扱い……責任とるって言ったくせに」

「責任?」

「モデルにしたら責任とるって言った」

 彼女はまるで約束を破られた子供のように目を合わせず早口で俺を責める。対する俺は目を瞬く。

「そのつもりだけど」

 何を当たり前のことを言っているのだろうとそう告げれば、彼女は呆けた顔で俺を見上げた。

「…………え?」

「いや、賭けではあったけど、お嬢ちゃんが俺のことを奇跡的に覚えていて、奇跡的に俺の本を読んでて、奇跡的に俺のことをまだ好きなら責任とるよって意味でモデルにしたから。俺もいい加減、ただ引き摺るだけは生産性がないからな。反省を踏まえて生かさないと思ってな」

 ぱくぱくと口を動かしているので、大丈夫かと尋ねれば、途端に彼女は顔を真っ赤にして叫んだ。

「確信犯!」

「まぁ、本来の確信犯の意味って違うんだけどな」

 うっと言葉に詰まった彼女は視線を彷徨わせて、それでも非難めいた視線を向けるものだから、落としどころとして手を広げてみる。彼女は今度こそ、指の先まで真っ赤にして固まってから、たっぷり十秒迷って、それでも手を下げない俺に、むうっと拗ねたふりのまま飛び込んできた。

「甲斐性なしは撤回してあげる」

「それはどうも」

「なかなか会いに来なかったことも許してあげる」

「うん」

「あと」

「あと?」

「……今更だけど、ありがとう」

 かろうじて聞き取れるくらいの小さな声に笑う。

「お嬢ちゃんってさ」

「?」

「照れ屋なくせに、やっぱり意地っ張りだよな」

 そう言えば怒ったように背中を叩かれ、俺はまた笑った。



 声をかけたのは、彼女が猫に似ていたから。

膝を抱えて、声も出さずに涙を零すその横顔が、あまりにひとりきりで綺麗だったから。

 そして、だからこそ、そんな彼女に笑ってほしいと思ったから。





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