桜染
頬を撫でる風はまだ冷たい。日差しは暖かなのに、と男は立ち止まり空を見上げた。天道は沈みつつある。
男の格好は珍妙だ。白塗りせずに施された隈取、女物の派手な着物、漆塗りの背負籠、帯に差された豪奢な刀。彼の横を通り過ぎる者も奇異を見る目だ。
男は歩き出す。彼の生業は旅の行商だ。漆塗りの品を扱う。
男は或る門をくぐる。彼が立ち寄ったのは、壮観な屋敷。武家、或いは商いで財を成した家か。彼が対象とする客は、専ら金持ちである。
みぃん、みぃん、みぃん、みぃん……
門をくぐった瞬間に感じる、奇怪な雰囲気。梅の香が立ち込める中に蝉の鳴き声が聞こえる。
男は其れを気にせず、屋敷の勝手口を目指す。
開いていた勝手口に入り、すまない、と人を呼ぶ。若い女中が姿を現し、男の珍妙な姿に驚きつつ声をかけた。
――何か御用で。
――いえ、漆塗りはいかがかと思いまして。
――悪いけれど、今は其れどころではないの。一寸妙なことがあってね……。
話好きそうな彼女は聞いてもないのに、勝手に話始める。出産のため里帰りしていた娘が奇妙な死を遂げた後、其の双子の妹が一向に目覚めないというのである。母である屋敷の女主人も床に臥し、旦那も疲弊している。旦那の両親も孫の傍らを一向に離れようとしない。そして、何故か其処には、死んだ娘の旦那がいる。
おそらくこの女中は下の方の者なのだろう、彼女の話には伝聞の語尾ばかりだ。
男は適当に相槌を打った後、問うた。此の蝉の鳴き声はなんだ、と。
女中は顔を歪め、娘が死んで以来ずっと聞こえるのだと言う。
蝉の姿は一切無いのに、だ。
男はそうか、と一言返すと再び訪ねる。此処に泊まってもよいだろうか。
外は闇に包まれつつある。いくら男とはいえ、常人が出歩く時間ではない。
女中は男に少し待つように促し、屋敷の奥に消える。男は背負籠を下ろし、其処に腰かけた。
暫くで女中は戻り、男に使用人と同じ待遇でよいなら、と答えた。男は頷き、屋敷に上がる。
女中に部屋を案内される途中、男とすれ違う。女中が頭を下げる。少なくとも、彼女よりは上の人間なのだろう。
――お主、何者だ。
――行商の者ですが。
女中が答えるより早く、男は答える。武士の身形をした男は、その珍妙な男の姿を品定めするように眺めると、口を開いた。
――にしては、妙な格好だな。
――ええ、まあ。夜中に出歩くこともありますから、魔除けとでもいいますか、そのようなところで。
男は薄い笑みを浮かべながら答える。武士の方は鼻を鳴らし、
お前は其の道のものか、と尋ねた。
男は一瞬、神妙な面持ちになったかと思うと、また笑みを浮か
べ、専門ではない、と答えた。
武士は眉根を寄せる。専門でないだけで、それなりに知識を有
するというのなら、娘の姿を見せるべきだろうか。
――ついて来い。
武士、否、屋敷の主人は踵を返し歩き出す。男は女中と顔を見合
わせると、主人の跡をついて行った。
辿り着いたのは、屋敷の奥、娘が寝ている部屋。障子を開くと、
一つの布団を囲み数人の男女が座っている。
みぃん、みぃん、みぃん、みぃん……
蝉の声が一層大きくなる。玉桂が顔を出している。障子を閉めた。
部屋は薄暗い。か細い蝋燭の灯が頼りなげに揺れている。部屋の至る所に魔除けの品が置かれている。壁、襖には札が乱雑に貼られている。
若い男が此方を見た、疲労の色が濃く浮かんでいる。
――其の方は、何方ですか。
静かな声でそう問う。他の連中も其の声につられて此方を見た。
――行商の者だ。物の怪の道に多少通じているようだ。
そう答えて屋敷の主人は布団の傍に立つ。
――これが娘だ。
主人が持つ行燈で娘が照らされる。日焼けしてない陶磁の肌、唇は桃色、広がった緑髪。病に臥せているようには見えない。
――此の子は、此の子はどうなってしまったの。
強い語気で、老婆が問うてくる。娘の祖母だろう。
――あたしには、ちょいと……。
男の口が真一文字に結ばれたのも束の間、口調は軽く、戯けているようですらある。老婆は布団に顔を伏し、おいおいと泣き出した。
――やはり、分からぬか。
主人が小さく独りごちると、男はすいません、と戯けるように返した。
――わざわざ、すまなかった。
主人はそう言って、障子を開けた。煌々と輝く月光に部屋が照らされる。月光下に梅がこぼれた。蝉の泣き声は止まぬ。
蝉の鳴き声に起こされた。月桂が眩しい。男は部屋を出る。客人とはいえ、招かれた者ではない男に宛がわれた部屋は粗末だ。
廊下を当てもなく歩き、庭に下りる。よく手入れされた庭だ。池に映る月を錦鯉が裂いていく。風が桃の華を揺らす。
まだ蝉は泣いている。屋敷の者達は慣れているのだろうか。
これで蝉が鳴いていなければ絶好の景色だ、上手い酒が似合うだろうに、と男は考える。
まだ華開かぬ桜の下を何者かが横切った。男が振り向くと、其処にあるのは若い女の姿。白い着物が闇に浮かぶ。
――どなた。
か細い女の声。男は此処に宿泊している行商の者、と返答し、其方は何方かと問う。
――私は…………。
みぃん、みぃん、みぃん、みぃん……
ゆら、と彼女の姿が揺れる。水面の月のように、儚い。
男は眉間に皺を寄せる。
女は手を差し出し、男にも手を出すように促す。男が彼女の手の下に手をやると、其処に何かを落とした。乾いた音がする。
強い風が桜の木を揺らす。男は思わず顔を伏せた。
顔を上げるが、女の姿は其処にない。
みぃん、みぃん、みぃん、みぃん……
男の手には蝉の抜け殻がひとつ。
日輪はまだ山に顔を埋めている。男が旅立ちの支度をしていると、襖が開き若い男に声をかけられた。娘を囲んでいた一人だ。
――何か、御用ですか。
昨日と同じ様に、男は薄い笑みを貼り付け聞く。若い男の顔は真剣だ。
若い男は男の傍に立つ。
――本当に、何も分からないのか。
――何のことでしょう。
――珠姫、目覚めぬ娘のことだ。本当は、何か気付いたのではないか。
――旦那、あたしには何のことかさっぱり。
男は困ったように眉を寄せながら、笑う。
――頼む、何か分かっているのなら教えてくれ。あと三月もすれば、あれが眠り始めてから季節が一巡りしてしまう。
彼は深く頭を下げる。放っておいたら、此の若い男は額を床に擦り付けかねない。男は深く溜息を吐いた。
男は袂に手を入れ何かを取り出し、若い男に差し出した。
――これは……。
――謎を紐解く鍵ですよ、旦那。
男は深い笑みを浮かべた。
若い男、死んだ娘の夫には其れが何を指すのかまるで分からない。日に照らしてみても、水に沈めても何の変化もない。男は何を思って、此れを渡したのだろう。
布団の中の娘を見つめていても答は出ない。若い男は近くにいた女中に、男はどうしたのかと聞く。もう出てしまった、と若い女中は答えた。
顔をしかめ、小さく溜息を吐く。女中に男を探して連れてくる様、命じる。
女中は半刻もしないうちに男を連れてきた。男は相も変わらず薄い笑みを浮かべている。
女中が去り障子が閉められた後、男は口を開く。
――これは、どういう意味だ。
若い男は握りしめていた手を開いた。壊さないように、握りしめていた。男は笑った。
男の人を食うような笑みに主人が顔をしかめるも、男は無視して若い男の隣に座る。そういえば死んだ娘の名はなんだ、と男は問うた。
誰も口を開かぬ。言わぬのではなく、言えぬ。其の様な雰囲気の中、夫だけが口を開いた。
――鞠子。
みぃんみぃんみぃんみぃんみぃんみぃんみぃんみぃんみぃん
――何でしょう、旦那様。
みぃん、みぃん、み……
誰もが息を飲んだ。眠り続けた娘が目を開き、口をきいたのだ。
ややあって、旦那様と呼ばれた男が、お前は鞠子なのかと問う。娘は笑みを浮かべ、頷いた。
突如、主人が立ち上がり、叫ぶ。其れは死んだはずだ。
老婆も翁も慄き、座ったまま後ずさりする。
娘は周囲を意に介さず躰を起こし、笑顔で旦那を見る。
――旦那様、ようやく目覚めることができました。ですが、旦那様、旦那様は私の躰でない私でも、愛して下さいますか。
――……ああ、ああ、お前は鞠子だ、珠姫ではない、鞠子だ。私の、鞠子だ。
娘の夫は涙交じりの声でそう言うと、娘を抱き締めた。
抱かれたまま娘は男を見る。優しいが狂気を孕んだ笑み。
――ありがとう。此れで、漸く私に成れました。
男の笑みは深くなる。
――いいや、あたしは何も。
男は立ち上がり、歩き出す。足元で何かが壊れた。
蝉はもう、泣いていない。
男は勝手口で背負籠を背負っている。此処に来る迄に長い廊下を通ったが、庭を覆うほどの蝉の亡骸を目にした。可哀相だこと、当人は悪くないだろうに。
主人の悲痛な叫び声がまだ聞こえる。男は口を歪め、下駄に手をかけた。
――何かしたの。
あの時の若い女中が声をかけてくる。
――いいや、あたしは何も。
男の表情は薄い笑みに変わる。梟の様に振り向けば、女中は不安げな顔をしている。
――ああ、そういえば魔除けの品も扱っていますが、ひとついかがですか。此の屋敷は、どうも物騒でいけない。早いとこ勤め先を変えた方がいい。
――……あなた、やっぱり、
言葉の途中で口を覆われる。氷の様に冷たい骨ばった手。男の顔が近づく。口元の深い笑み、焦点の合わぬ眼。女中の背骨を冷たい汗が這う。
――さあてね。
男は静かにそう言って、手を放した。女中は膝から崩れ落ちる。
男は立ち上がり、屋敷を出ていく。
蝉の泣き声はもうしないのに、此の屋敷の奇怪な雰囲気は拭えない。
男は門をくぐり、来た道とは逆を目指す。太陽は山に帰っていく。眩しそうに目を細め、歩き出した。
少し行って、男は振り返り屋敷の方を見つめる。男は重い荷を背負い直し、再び歩き始めた。顔には薄い笑み。
あの屋敷には、濃い色の桜が舞うだろう。
今宵は大人しく振る舞いましたが、次回御目に掛かります時は、斯うはいきますまい。更に其の場を引っ掻き回して御覧にいれましょうぞ。それでは、また出逢う時まで。