口なし女
噂が立った。
なんでも旅人が、わたくしの庵から還らぬのだという。
「さては物の怪に喰われているに、違いあるまい」
噂が噂を呼び、とうとう高い徳を積まれた僧侶様が、わたくしを調伏すべく訪われた。
僧侶様がわたくしをご覧になって、驚かれた。
それもその筈、わたくしの鼻の下には口がない。
「なぜ、かようなことに? ……鬼にでもお遭いになりましたのか」
わたくしはふるふると首を振り、小机に向かうとさらさらと書いた紙を見せた。
『わたくしは毒を吐くのです』
僧侶様の手が数珠を握り締められた。
『わたくしの心には、毒が棲んでおります』
「……」
『毒が口を通り言葉となると、人々の心に入り込み、傷つけてしまうのです』
「なんと」
僧侶様が、わたくしを痛まし気に見つめられた。
『人々が立ち去ってから、気づくのです。”ああ、また毒を吐いてしまったのだ”と』
僧侶様は同情してくださった。
(尊い御身が、わたくしごときに)
なんと、徳の高いお方であろうか。
『”いっそ、口など無ければ人に毒を吐かずに済むものを”。神仏に祈りを捧げておりましたら、ある日口が無くなっていたのでございます』
僧侶様は感動した面持ちで仰せになった。
「毒は人の心に在るものを。貴女は人々を傷つけまいと、ご自身の口を無くされるとは。なんとご立派なお心持か」
わたくしは、また。ふるふると首を振る。
僧侶様がお尋ねになる。
「時に、食物はどう摂りなさる。食べねば、お体に障ろう」
わたくしは、また小机に向かうとさらさらと書いた紙を見せた。
『ご心配なさらず……?』
僧侶様がハテと頭を傾げられた、その時。
「ぐあっ」
気づいたのが先だったか、息絶えたのが先だったか。
僧侶様の絶叫まで、わたくしの口の中に呑み込まれたのだった。
「徳の高いお方というのは。少し筋張っているけれど、美味しいわね」
にいい。
わたくしの顔の後ろに咲いた紅く嗤う口を、ぞぞぞと髪が覆い隠したのでございました。