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人類図鑑  作者: 飛島 明
1/8

痒い男

 突然。

 通勤途中のバスの中で前日蚊に刺された右の内側のカカトが痒くなった。


 昨日、ポリポリ掻いていたら『掻いたら、余計痒くなるわよ』と、妻にたしなめられので我慢した。

 そのうち治まったので、忘れていたのだ。

 なのに痒さが、また戻ってきたのだ。


 いつでも自由に掻けた昨日と違う。掻きたくても掻けない。となると、一層痒い。

 男はくねくね、と体を動かした。

 

 ついに、こしこしと左の足先でなんとか掻くことが出来た。

 隣に立っていたOLや、座っていた女子高生。

 彼女たちからは、あからさまな非難の目が向けられた。

 男は痒みを撃退できたことに深い満足感を覚えたのであった。



 その次の日は同時に2箇所。

 バスを下り、満員の電車の中。

 額と足の甲が痒くなった。

 額はなんとか、吊り輪を握った右手でかりかり、と掻くことが出来たのでしのげた。


 しかし、足の甲は。

 靴の中でもじもじしても、効果はない。


(反対側の片足の踵で、甲を踏みたいっ)


 そう思いはしたものの。

 吊り輪につかまっているとはいえ、100%以上の乗車率。


 電車の振動・制動の時の重力。加えて、寄り掛かってくる他人の重みまで己の腕で支えている。男には、容易に手放させるポジションではなかった。


 足を上げたら最後、安定感を失う。次に襲ってくる重力に抗しきれず、将棋倒しの一番下になってしまう。


(せめてアタッシュケースの角で甲を押せれば……!)


 男は絶望的になった。

 アタッシュケースは乗り込んだ際、これ幸いと網棚に上げてしまった。

 いつもなら網棚における幸運を祝うのであるが、このときばかりは恨めしかった。


(乗り換えの駅に着くまでの辛抱だっ)


 男はひたすら耐えた。



 ようやく乗り換え駅に到着した。

 どっと吐き出される人の波を垣分けて、男はホームのベンチに突進した。


 男は、隣の青白い青年がいきなり吐き出した。

 吐瀉物の飛沫がズボンの裾にかかるのも気にする間もない。


 靴を放り投げる勢いで脱ぎ捨てると靴下の上から猛然と掻き始めた。

 隣で吐いていた青年が茫然と男を見ているが、それどころではない。


 暫く、がりがりがり、と掻き毟った。

 ようやく痒さから開放された。同時に後ろ昏い思いも抱えることになった。

 掻く、ということに性的な快感も得てしまったのだ。


 ……とにもかくにも、満足した。電車に乗り込み、意気揚々と会社目指した。



 ◇□◇◇□◇◇□◇◇□◇



 次の次の日は尻だった。


 男は通勤途中、また痒さが襲ってくるのではないかと怯えていた。

 が、杞憂だったらしい。

 この日は通勤時間を無事クリアして、始業時間前に席に着いた。


 安心して自販機で購入したホットコーヒーをすする。

 しかしホッとしたのも束の間。会議の部屋に入室し着席したところで、尾てい骨が痒くなってしまったのだ。


 よりによって四半期における営業成績と分析。

 次期への修正・展望等を述べる会議の場である。


 しかも支社長の臨席を賜り、今回の司会は己の上司。超のうえにウルトラがつくほど大事な会議であった。


 エースである男のプレゼンの順番は、かなりあと。

 男を置き去りにしたまま、世界は進行していく。


 もじもじ、とすることは赦されない。

 やがて、男の脳を痒さが蝕んでいく。

 体の痒い所を掻けないもどかしさ。狂おしさが男の脳を支配し始めたのだ。


 男の額に筋が立った。

 隣に座っている部下が、いつにもまして厳しい表情の彼に心配げな視線を送っているのも気づかない。


 痒くて耳の中にキーンという音が走る。


 やがて彼の発表の番になった。彼の目はレポートを上滑りし、何を喋ってるのかさえわからなかった。


(休憩に入れれば)


 男は念仏のように心の中で唱え続けた。

 彼の願いも空しく、会議は白熱したまま進行していく。予定していた休憩時間も削り取られる。予定時間を大幅に過ぎて、さらに延長された。


 それだけに討論も活発化し充実した会議であった。結果として3時間にも及び、男は脂汗を流して耐え切ったのだった。


 どっと吐き出される人の波。

 男は猛ダッシュしてトイレに駆け込んだ。


 個室に入り、前に入った人間の残した匂いを気にする余裕もない。ベルトを緩め、下着ごとズボンを足首まで引きずり下ろした。ズボンの裾が床に触れて汚れるのも気にせず、尾てい骨を猛然と掻いた。


 ようやく掻くことの出来た安堵感。

 そして不覚にも膨らんだ股間の為に、男は取引先に遅刻する電話をトイレの中からする羽目になった。



 ◇□◇◇□◇◇□◇◇□◇



 男の体を痒さが支配していく。

 耳の中が。

 性器の袋の内側が。

 目の中が。

 それも掻けない時間を狙って。




 1年が経つ頃。

 男の元から妻は子を連れて去っていった。


 遅刻や欠勤、そして仕事中に奇妙な振る舞いが多くなった。初めこそ心配してくれていた同僚達もやがて奇異な目で男を見始めた。


 とっくに電車もバスも乗れなくなっていた。

 とうとう男は会社を辞め、入院した。


 無菌室の病室の中。

 とろんと幸せそうな目をし、だらしなく弛緩した口からよだれを垂らしている。

 除菌手袋をして、開腹部から内臓の裏側を掻く男の姿があった。


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