考えよう、自分の健康
森山 慧水は「不可能任務」に挑むべく、ちゃぶ台から台所に立って洗物をしている息子の後ろ姿をじっと見つめていた。彼が目指すもの、それは息子の左側にある冷蔵庫と書いて「宝島」と読む桃源郷に貯蔵されたキンキンに冷えた「ビール」であった。息子と冷蔵庫の距離は約1m50cm。対して自分と冷蔵庫の距離はその倍。どう考えても無理、不可能。圧倒的にバレる。バレる。怒られる。まさに「不可能」、息子に気づかれずにビールを回収する「不可能任務」である。
|(落ち着け。落ち着け慧水)
人間のような腕と手に形づくった自身の手を口元に起き、慧水はさながら司令官の如く思案を巡らせた。目標と自分との距離はさほど遠くはない。問題はそこに永久凍土のように居座る我が息子、森山 毅の存在である。息子を如何にしてどかして目標を奪取するかが問題なのだ。
先ほどの夕飯から冷蔵庫にビールを取りに行こうとすると念動力で脳を電子レンジに入れられた卵のように爆発されそうになったので直接行くのは自殺行為である。かと言って超能力を使って中にあるビールを取り出そうとしても念力は息子によって遮断される。
直接的にも能力的にも慧水の状況は「最悪」の後に「無理」が付く状況だった。
だが、それでも慧水は諦めない。諦めればそこで試合終了。どこかの地球人が言っていた偉大な言葉が、窮地に立たされた慧水を突き動かしていた。
|(仕方が無い、こうなれば奥の手だ)
慧水は固く目を閉じると自身の内なる世界、精神世界に存在する円卓に召集を掛けた。
「集まれ、我が内に秘められし歴戦の勇士、暁月の仲間よ!!」
その声にどこからともなく円卓へと戦士のような出で立ちの4人が集まり、円卓を囲んだ椅子へと座った。どの顔も地球人とは異なり、ある者は獅子と同じ顔、ある者は人に近いが額に大きな瞳を持つ顔、機械的なマスクを被った者や獣の耳を持つ者といった異人ばかりだった。
「集まってくれたか、異界の我が友たちよ。今回の問題は途轍もなく苦しい事だ」
空いている円卓の椅子に座ると、慧水はちゃぶ台で取っていたポーズと同じように両手を口元に置いた。
「実はな……」
「「「言っとくが酒を手に入れる為に協力はしないぞ」」」
慧水が話し始めようとした矢先、円卓に座った獣耳の異人以外の全員が口を揃えて慧水に言った。
「な、何故だ我が友らよ!! 異界の侵略を食い止める為に戦った我らの固い絆を忘れたか!?」
慌てふためく慧水を他所に、獅子の顔の異人が顎をしゃくりながら面倒くさそうに話した。
「当たり前だ。わざわざ呼び出すから何の問題かと思いヌシの記憶を遡ってみれば、なんじゃあれは。たかだか酒を手に入れたいだけではないか」
ため息を吐き、呆れたように今度は三つ目の異人が話す。
「まったくです。息子様が呆れるのも無理がありません。慧水、もう少しお酒の量を控えなさい」
機械の腕から幾つものモニターを浮かび上がらせながら、機械の仮面の異人が慧水をスキャンしつつ話す。
「残留アルコール数、体全体の水分の3割に相当……慧水、お前やばいぞ。あと体脂肪率25.8って太り過ぎだ」
異界から呼び出し、自分の精神世界に招いた慧水の友人達は明らかにやる気がなかった。そんな事は露知らず、慧水は声を荒げて仲間達に語りかけた。
「き、聞け我が友ら!! 貴公らは知らんだろうがあの酒は美酒、この世に二つと手に入らん至高の酒なのだ!! だがその美酒は長時間誰にも口付けをされないと泥水のように濁り、朽ち果ててしまうものなのだ!! ああ、いまこうしている間にも、あの美酒は枯れ溶けていくであろう!! だから我が友らよ!! 美しいものを守る為にも知恵を貸してくれ!!」
慧水の言葉に感じる事があったのか、先ほどまで呆れていた三人の異人は腕を組み、硬く瞼を閉じて思案を始めた。すると、獅子の顔の異人を始め、慧水と一人を除く全員が立ち上がった。
「なるほど、承知した。そこまで言うなら」
「他ならぬ仲間の為ですからね」
「しょうがねえなぁ」
異人達は口々にそう言うと、確固たる意思と溢れる自身を瞳に宿して円卓を後にし。
「「「帰る」」」
帰った。
「ふざけんなー!! 15年前に異界侵略戦争を終わらせた英雄の頼み聞かんかーい!!」
駄々っ子のように円卓を叩きながら慧水は一人ジタバタと不満の声を上げた。円卓には獣耳の異人が慧水を心配そうに見ていた。その眼差しに気づいた慧水は異人の手を握り縋る様な眼差しを向けた。
「レナ、お前は俺の味方だよなっ」
「う、うん。そうだよ。レオンハルトもカインも、ギルバートも味方だよ」
獣耳の異人は照れたような顔で慧水を手を握り返すと、先ほど帰った仲間達の愚痴を垂れ流す慧水に向かって話しかけた。
「あのね、ケイスイ。こういうのは正直に話した方がいいと思うんだ。ちゃんとね、誠意を持って言えば、ケイスイの子どもも分かってくれると思うんだ」
いやそれをしても駄目なんだと言おうとした慧水を遮って獣耳の異人は慧水の手を強く握る。
「ふぁいと、だよ。ケイスイ!!」
そうして慧水は自身の精神世界から居間へと帰ってきた。時間にして約5分、しかし居間の針は全く動いていなかった。先ほど話していたのは慧水の昔の友人達であり、特殊な方法で対話を行っていたのだが現在の慧水にはこれっぽっちも関係ないので割愛する。
結局なんの解決策も得られないまま慧水は現実世界である居間に帰ってきてしまった。まるで体力満タンの状態でエリクサーを操作ミスで使ってしまった時のような何とも言いがたい雰囲気が慧水を取り巻いていた。
そんな事を考えていると、毅が洗い物を終えて自分の部屋へと戻ろうとしていた。
千載一遇、逆転大勝利。台所から息子がいなくなるイコールそれは永久凍土雪解けの巻となる訳であり、慧水を阻む障害がいなくなるという事だ。素直に待てば良かったのだがそんな事は慧水の頭には無く、無能で友達がいの無い異界の友人達3名のせいして慧水はハンターの目で毅が離れるのを待った。
毅が水場を布巾で拭く。今か。
その布巾を絞って物干し台に掛ける。今かっ。
手を洗いタオルで拭いて台所から離れようとする。今かっ!!
獣の形相(見た目に変化はない)で慧水が冷蔵庫に飛び掛らんとした時、毅が慧水に向かって歩いてきた。しかも何かにこやかだ。突然の事に慧水は面食らってしまい、反射的に触覚を抑えた。
「なにやってんだよ、ほら」
そう言って毅が差し出したのは缶ビール、それもキンキンに冷えたものだった。
「え、でも今日はもう駄目だって」
「言い過ぎたよ、親父は親父なりに今日は頑張ったからな。だからこれは俺からのご褒美」
照れくさいように頬を搔く息子を見て、慧水は目玉から大量の涙を出してオンオンとよく分からない声を上げて泣き出した。見かねたように毅は自分の部屋へと戻ってしまい、慧水は息子から渡された缶ビールを握ってまだ泣いていた。
慧水は泣いた。かなり泣いた。こんなに泣いたのは奥さんが死んだ時以来だろうか。ぶつかってばかりの親子だったが、最近冷たいとばかり思っていた息子が、こんなにも優しさに溢れた人間に育っていたと、慧水は感動に打ち震えていた。
それに比べて自分はどうか。たかだか缶ビールが貰えない事に腹を立てて必死に考えを巡らし、あまつさえ旧来の友人達をも呆れさせる事をした。なんと情けない事だろう。なんとみっともない事だろうか。
働こう。明日から働こう。このままじゃいけない。慧水はそう思った。この酒を最後に、きっぱりと酒を止めて働こう。そう、これが俺の生涯最後の酒だ。慧水はそう思いながら缶ビールを開けて一口飲んだ。まるで水のような喉ごしの酒は慧水の体を潤し、明日への希望を抱かせたのだった。
こうして、慧水は息子の思いを一身に受け、生涯最後の酒とした缶ビールを感慨深く飲んでいたのであった。
ところ変わって毅の自室。先ほどの慧水と同じように毅も自身の精神世界に入っていた。違うのは慧水のような円卓ではなく丸テーブルの炬燵だという事だった。
「息子様も大変ですね。ケイスイのお世話は辛いでしょう」
三つ目の異人、カインがみかんを食べながら毅の苦労をねぎらった。見れば先ほど慧水の精神世界に居た異人達が炬燵に入りながら毅と談笑している。
「本当だよ。親父っていつも酒かガーデニングするかの二択だから家の事なんにもしてくんなくてさ。今回もみんなが脳内線で教えてくれなかったらどうなる事かと思ったよ」
「まぁまぁいいじゃろ。先ほどのカイザーの行動でケイスイもやる気が出たじゃろうに」
「やめてよレオンおじさん。本名嫌いなんだから」
豪快に笑う獅子顔の異人、レオンハルトに対して膨れっ面をしている毅を、機械のマスクを外した隻眼の女性、ギルバートが背中を撫でた。
「しかしさっきのは見事だったじゃねえか毅。ケイスイの奴、コロッと騙されてたぞ。脳内線で覗いてたらなんか勝手な妄想で盛り上がってて気持ち悪かったが」
「発案してくれたのはレナさんだよ。俺は缶ビールの中身を水道水にしただけだよ」
獣耳の異人、レナは気だるそうな顔で煙管を吸いながら髪の毛を搔いた。
「だってあの人、面倒くさいでしょ。たっちゃんの気持ち分かるもん。昔は好きだったけどもう15年経っちゃうと魅力なくなるわぁ」
先ほど慧水に見せていた純朴そうな一面は全く無く、レナは魔法草で作った刻み煙草の葉を煙管に入れて甘い煙を吐いた。
つまり、慧水の目論見は毅には筒抜けだったのだ。
「けどたっちゃん。あれでケイスイまともになると思う?」
「どうかなー。たぶん無理だと思う。」
げんなりとした表情でテーブルに突っ伏す毅を苦笑いしながら、4人の異人は別の回線でまだビールと思っている水を飲みながら号泣している慧水に呆れていたのだった。