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堕天使の杜

羊水

作者: kimra

 それはまだ、おれが羊水の中でたゆたっていた頃。



「…………………………」

 何…………? 

何か聞こえる…………。

「早……く生ま……れてきてね。私の赤ちゃん……」

赤ちゃん……。おれ…………? 

 優しい歌声。

 ユラユラと心地好い振動。




「順調だったみたいですね。綾音あやねさん」

 男の声。いつもの……医者の声だ。

「うん。かいもはしゃいじゃって困ってんの」

 空気のように当たり前に存在する、おれの、『母親』の声。

「はは。こないだ会った時も、両手いっぱいベビー用品持ってましたよ。本当、兄さんらしいですね」

 にいさん。おれの『父親』。

「この間なんて、ランドセルまで買おうとしたのよ。さすがに止めさせたわ」

 明るい笑い声。陽だまりの草原のような空間だ。

いつかおれもここに入れるのだろう。

ここで一緒に笑えるだろう。

 そう、きっと。




「今日の検診どうだった? 赤ちゃんは?」

 あ、『父さん』だ。

「もちろん順調よ。きっと元気な男の子だわ」

 うん、おれ、元気だよ。

「俺は女の子がよかったなあ」

「何言ってんの。女の子はお嫁に行っちゃうわよ」

「うーん。どっちにしろ、かわいいに違いないな。俺の子ですから」

………………。

 叩いてる。答えなきゃ。

「あ! 蹴ったよ、今」

「嘘。マジ?」

「ホントホント。この子、きっと元気な優しい子になるわ。親バカかもしれないけど…………、絶対よ」


 波打つ鼓動の音楽。

 みんなの楽しげな笑い声。

 幸せしかここには住めない。

ここは、まるで、【楽園】 だね。


 おれ、元気な優しい子になるよ。

そうあなた達が望むなら。





「どうでした? 調子」

「順調よ。やっとこの子に会えると思うと、もう、予定日が待ち遠しくって。桧ったら、結局ランドセル買っちゃうし。かなりの親バカだわ」

 『母さん』に会える。

 『父さん』に会える。

どんな顔をしてるんだろう。

 おれの中のあなた達はいつも真っ白で、おれを包み守ってくれる、この水のようなもの。

【羊水】みたいだ。

 ここから出たら、この記憶は消えてしまうのだろうか。

もしも、憶えていたなら、たくさんの言葉を伝えたい。

 早くあなた達に会いたい。

そして、同じ【楽園】で笑いたいんだ。




「名前が決まったんですってね。昨日、兄さんから電話がありました」

 知ってる。

『かいと』って言うんだよ。『母さん』の生まれた所の名前なんだって。

「そう、私の故郷の和歌山の地名なの。あの人に任せて良かったのか、よくわからないわ。でも、あの人の性格じゃ、今から変えるのは無理ね」

「そうですねー。かなり張り切ってましたからね」

 あ、また笑った。

普通の、とても普通の温かい幸せ。

だれもが笑う。大切にしている。されている。

 そんな場所におれはもうすぐ生まれ落ちる。

それを信じて疑わなかった。



 おれはこの時、とてもしあわせでした。





 光だ。【楽園】の光。

たくさんの人の声。それから、おれの……、泣き声……。

 おれが生まれた瞬間。



「垣内くん。はじめまして、パパですよー」

 知ってるよ。でも、はじめまして、だね。

 はじめまして、『父さん』。

「見て見て。目元があたしにそっくり。初めまして、垣内」

 はじめまして、『母さん』。

 会いたかったよ。

顔を見て話したかった。笑いたかった。

 でも、今、叶うね。

おれが今、この瞳を開いたなら。


けれど、開いたおれの瞳に映ったのは。

細かい赤と緑の結晶。これは何…………?

『父さん』…………?

『母さん』……………………?



その後たくさんの人が入ってきて、小さな粒になり消えていった。そして、おれは光の届かない部屋へ隔離される。もう、何も聞こえない。

 待ち望んだこの【楽園】に、あなた達の笑顔はありませんでした。

 そう初めて会ったおれの両親は、『砂』だったのです。



         *         *          *




 それから、もう、六年が経った。

 おれは今日『父さん』の弟の医者から、ランドセルをもらった。買って六年も経つそのランドセルは、まるで新品で、おれが羊水にいた頃のままの、【楽園】の匂いがした。そんな気がした。

 あの日から窓もない部屋で、パソコン相手に勉強し、本を読み、ドアの隙間から差し出される食事を食べ、おれは生きていた。

 そして、何度か彼らはおれを殺そうとし、失敗し、死なないおれを化け物と呼び、恐れ、媚びた。



 おれは何をしたのだろう。

普通に生まれて、普通に暮らして、笑って、二人と話したかっただけなのに。

 ただ、あの【楽園】に、行きたかっただけなのに。




 四才の時。

「桧はいい奴だったんだ。なのに、どうして桧のところにお前みたいな化け物が来なきゃならないんだ」

ドア越しの悲痛な声だった。『父さん』の親友の。

 おれには意味がわからないと思ったのか。

 もしくは、わかってもいいと思ったのか。

「桧を殺したのはお前だ! お前なんて生まれてこなきゃよかったのに。この、悪魔が」

 おれには、運悪くすべての言葉が理解できた。

 【羊水】から出るというのは、こういうことなのかもしれない。こうやって傷つけられることも、あるのかもしれない。

 羊水の中から見ていた【楽園】の正体は、実はこうなのかもしれない。



 『父さん』、『母さん』、あなた達がいたら、その答えをおれに教えてくれただろうか。

 誰よりも、あなた達に会いたかった。

失いたくなかった。

殺したくなんて、なかったんだ。

 そう、声しかしらないあなた達を、一番必要としてたのはおれだから。



 【羊水】の中で、

 あたたかい鼓動に揺られながら、

 あなたの優しい歌声を聴きながら、

 顔も知らないあなたたちを、

 誰よりも深く、静かに、






愛していたから。





                                       END

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― 新着の感想 ―
[一言] 『羊水』拝読させて頂きました。 暖かい話だと思いながら読んでいたんですけど、悲しい話になりましたね…… 主人公と両親との間に何が起きたのか? とても気になる今日この頃です。
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