プロローグ
それは、誰にも聞こえない音だった。
世界が少しだけ、遅れて呼吸をした。
朝と夜の境目が一瞬だけ入れ替わる。
落ちるはずの雨が、地面に届く前に消える。
開いたはずの扉が、最初から閉じている。
それでも人は、それを異常だとは思わない。
これは現象と呼ばれる。
現象の名を持つ、世界の歪み。
時間がずれる白兎現象。
存在が噛み合わない鏡層。
出口のない帽子屋回廊。
それらはすべて、壊れた世界の断片だ。
かつて世界は、ひとつの形をしていたと言われている。
だが今は違う。
世界はすでに一度、壊れている。
その残骸が、童話の形をして残っているだけだ。
そして、その崩壊を「フェアリーブレイク」と呼ぶ者がいる。
それは災害ではない。
終わりでもない。
ただ、世界が“そういうものとして固定されてしまった状態”。
壊れたものは消えない。
ただ、形を変えて残り続ける。
童話のように。
誰かが言った。
世界はまだ終わっていない、と。
別の誰かが答えた。
終わっていないのではない。
最初から壊れていたのだ、と。
その中で、ただひとつだけ例外がある。
壊れた世界を、壊れたまま見てしまう者たち。
フェノメナを認識する者。
そして、ごく稀に。
壊れた部分に触れてしまう者。
それはまだ、物語ではない。
ただの、異常の記録である。
そして世界は今日も、静かに壊れている。
誰にも気づかれないまま。




