完成された人間
地下施設には、昼も夜も存在しなかった。
古い白色灯に照らされた廊下は無機質で、漂白剤と血液の臭いが染みついている。幾重もの扉の先、その施設の最深部にある研究室で男はカルテを眺めていた。
「今回の被検体が届きました」
助手が差し出した書類を、男は流し見る。
年齢、性別、身長からなる様々な数値エトセトラ。
「孤児院から16名。他が2名です」
「そうか」
男は短く返し、席を立った。
男は人間そのものに期待していなかった。自分のことですら、そうだった。興味もなかった。
感情的で、愚かで、そして肉体的にも脆弱。それでいて自らを理性的だと気取り、本能に支配されている欠陥生物。人間とは、欠陥だらけの未完成品に過ぎない。
だからこそ、その欠陥をなくし、より完成された人間へと近づける。
それが男の研究だった。
地下搬入口には子供たちの入った檻が並べられていた。泣き声、嗚咽、助けを求める声。男はそれらを聞き慣れた雑音として受け流しながら、1人ずつ状態を確認していった。書類との差異がないか、直接自分の目で確かめるためだ。
子供たちはいつも通り、男に怯えるばかりだった。だが、その中に1人だけ妙に静かな子供がいた。
他の子供たちと同じように怯えてはいる。しかし、その鋭い視線だけは絶えず動き、研究員たちの動きや奥へ続く廊下、切れかけた照明まで観察していた。
十歳にしては理性的だった。
「……お前、名前は」
男が問いかけると、その子供はびくりと肩を震わせて一瞬躊躇う様子を見せた。やがて睨み返すように口を開く。
「……ない。どうせ番号とかつけて管理するんだろ。そういうの、本で見たことあるし」
生意気なその言葉に、子供たちの移動を始めた助手が顔をしかめる。
「口の利き方を──」
「466番だ」
男は助手の言葉を遮るように言った。
「お前は今日から466番だ」
466番は、黙ったまま男を睨んでいた。その視線を一瞥し、男はその場を去る。既に466番への興味は薄れていた。
結局この子供も他と同じ、感情に支配された人間に過ぎなかったのだ。
数日後、被験体番号466番は実験室へと連れて行かれた。
脳への情報伝達を制御する薬剤投与、その経過観察。子供に最初に施す、慣れた手順の実験だった。
拘束椅子に固定された466番の顔色は青白く、小刻みに肩を震わせている。しかしそれでも、男のことを睨みつけていた。
「……なんで、こんなことすんだよ」
「そういう研究だ」
「人がたくさん死んでるのに!」
「その程度の生物ということだ。だから、より完成された生物になるようこうして研究している」
466番は歯を食いしばった。拘束具が軋むほど強く拳を握りしめる。
怖かった。しかしそれでも、男から目を逸らせなかった。
男のことは理解できなかったが、そんな考えを持つ人物に出会ったこともなかったからだ。
それ以降、466番は隙を見ては男や助手たちの実験記録を盗み見るようになった。そして会話に耳を傾け、施術方法を学び、薬品名を覚える。
すると、男が目指しているものも見えてきた。
感情の排除、肉体の強化。その果てにあるのは、欠陥のない人間だった。
やがて466番は、実験中の会話へ口を挟むようになった。
「それ、投与量が多すぎたんじゃねぇの」
ある日、隣室の死体を見ながら466番は言った。
「黙れ、ガキが!」
助手が怒鳴る。しかし、466番は動じずに続けた。
「三日前のやつと同じ症状が出てる。内出血の位置も同じだ。死因、臓器破裂…だろ?」
その言葉に、助手は顔色を変えて言葉を詰まらせた。後ろで別の子供の解剖をしていた男は、思わず手を止めて466番の方に視線を向ける。
その指摘は正確だった。
男は器具を置き、466番の真正面に立った。
「……なぜ分かった。孤児院で医療を学んだという記載はなかったはずだが」
「ずっと見てたし、聞いてたらわかる」
その言葉に、男は妙な感覚を覚えた。
怒りでも不快感でもない、理解不能な感覚。
男は答えず、その感覚の正体を考えながら背を向けた。
466番の存在は、確かに男の中で他の子供とは違う存在へと変わっていったのだ。
それからというもの、466番は隙を見ては部屋を抜け出し、研究室に現れるようになった。
当然見つかるたびに助手に連れ戻されていたが、本人はまるで気にした様子もなく、翌日にはまた同じことを繰り返した。
その様子を見かねた男は、実験の一環のつもりで466番に本を与えた。完成された人間には、知識量も当然必要不可欠だと判断したからだ。
驚く事に、466番は与えた医学書を数日で読み終えた。薬理学や工学も、一度教えればある程度理解した。助手の中でも、その域に達している者はほとんどいなかった。
そしていつからか、男は466番を実験の対象から外すようになっていった。
その理由は、男にもうまく説明はできなかった。
「ドクター」
「なんだ」
「あんた、人間が好きなんだろ?」
深夜の研究室。標本瓶の並ぶ棚の前で、466番は言った。
男の手が止まる。
「人間は嫌いだ。欠陥品だからな。……何を見ればそう思う」
「人間が嫌いだったら……人間に期待してなかったら、こんな研究しないだろ?」
その一言は、男の手を止めるには十分だった。
これまで、男にそんなことを言う人間はいなかったからだ。誰も意見せず、誰も理解しようとしない。男の研究に陶酔して研究室に来た者もいくらかいたが、やがて男に恐怖し去ってしまった。
「な、なんだよ。うーん……悪かったよ。……なんか、踏み込みすぎちゃうんだよな」
男の視線に居心地の悪さを感じたのか、466番は目を逸らしながら謝罪の言葉を口にする。
「……部屋に戻されたくなければ、手を動かせ」
「はーい」
男は次第に、466番を研究室へ呼ぶようになった。466番と話している時間は、いつの間にか男の日常になっていたのだ。
研究の進捗を話し、仮説を議論し、時には内面にまで踏み込まれる。
そんな時間さえ、不快ではなかった。
「……これが、“楽しい”という感覚か」
ある日男が呟くと、466番──レイは吹き出した。
「今さら言う?」
「……はぁ」
男は溜息を吐き、目を瞑る。
「なんかドクターって時々すごく……子供っぽい?よな」
「お前の方が年下だろう」
レイは呆れたように笑い、男の手に触れた。
「早く見てみたいな。ドクターの言う"完成された人間"ってやつ」
楽し気な声が、研究室に響く。
この人間だけは、他とは違うのかもしれない。
男は初めて、はっきりとそう思った。
数年後。
レイは青年へと成長し、今では男の隣で白衣を纏っていた。
研究データを確認し、男に向かって口を開く。
「この結果、このあいだの薬剤を使えば解決しませんか?」
「ああ。丁度そう思っていたところだ」
もはや2人の会話は、誰も口を挟めないものになっていた。
助手たちは2人を恐れ、指示されたものだけを遂行する。
レイがいれば、それだけで男は十分だった。
事故が起きたのは、その日の午後だった。
被検体の少年が拘束具を破壊し、錯乱状態のまま近くにあったメスを掴んで振り回す。
「下がれ!」
悲鳴を上げて逃げ惑う助手たちにレイが声を掛け、男の方を振り向いたその瞬間だった。
銀色の刃が、レイの喉を切り裂いた。
鮮血が宙を舞い、時が止まったかのようにその瞬間は男の目に焼き付いた。
気が付けば、レイの身体は男の足元に崩れ落ちていた。
「……ドクター……逃げ、て……」
掠れた声が落ち、ドクドクと床に血が広がっていく。男の思考は、その光景を理解することを拒絶した。
だが現実だけは、容赦なく目の前に存在している。
顔を上げると、少年がメスを握ったまま後退っていた。
「ち、違……っ」
気づけば男は少年の首を掴んでいた。メスの落ちる金属音を耳にしながら、その身体を壁へと叩きつける。
腕に骨の砕ける感触が伝わる。悲鳴が上がる。それでも腕は止まらない。
もう何をしているのか、自分でも分からなかった。それでも、目の前の子供を殺さずにはいられなかった。
殴り、叩きつけ、潰す。
感情のままに。
初めて知った激情のままに。
やがて少年は動かなくなり、研究室からは音が消えた。
ドサリと肉塊を落とすと、男はゆっくりと振り返った。
レイはそこに倒れたままだった。白衣はすっかり赤く染まり、呼吸はもうなかった。
男はその傍に膝をつき、身体を抱き寄せた。まだ温かいその身体に、目の奥が熱くなる。理由はわからなかった。
「……レイ」
当然返事はない。
男は理解できなかった。
なぜあの子供を殺すことを優先し、レイの治療に当たらなかったのか。
普段の自分であれば、きっとそうしたはずなのに。
長い沈黙の末、男は小さく呟いた。
「……だから、人間は嫌いなんだ」
その声だけが、静まり返った研究室に残された。




