おじいちゃんの誕生日会、スーパーで詰んだ ――小6のすみれが初めて知った、海苔一枚と魚一匹の値段の裏側――
✦おじいちゃんの誕生日会、
スーパーで詰んだ
――小6のすみれが
初めて知った、
海苔一枚と魚一匹の
値段の裏側――
………
誕生日会いうたら、
ケーキがあって、
ごちそうがあって、
みんな笑うもんじゃ
思うとった。
けど二〇二六年の春、
近所のスーパーは、
そんな当たり前を
一個ずつ値札で
壊し始めとった。
………
★目次
■第一章
すみれ、
はじめての買い出し
■第二章
海苔一枚が、
おにぎりを贅沢品にした
■第三章
カップ麺は、
麺より文明でできている
■第四章
豆腐と納豆が、
安い味方をやめる日
■第五章
肉を選ぶ自由が、
少しずつ消えていく
■第六章
魚は海にいても、
店には来ない
■第七章
お好み焼き屋の
灯りが消えた町
■第八章
おじいちゃん、海へ行く
■第九章
釣り糸が切れた日、
すみれは笑った
★あとがき
― ホームズとワトソンの、
やすきよ漫才風 ―
❥Z世代の読者のあなたに
………
■第一章
すみれ、はじめての買い出し
「おじいちゃん、
今年はうちで
誕生日会するけえな」
小六のすみれは、
そう言う時だけ
やけに偉そうじゃった。
わしは六十七歳。
元証券会社勤務。
昔は人の金の流れを見て
飯を食うとった。
今は、自分の晩飯の流れすら
よう読めん。
すみれの家族は五人。
そこへ、
わしとおばあちゃんが呼ばれる。
合計七人分の誕生日会じゃ。
「すみれが、
初めて料理するんよ」
ママがそう言うた時、
わしはちょっと
胸が熱うなった。
ええ年して誕生日なんか
もうどうでもええ。
そう思うとった。
けど、自分のために
小六の孫が生まれて
初めて台所へ立つ、
いうんは
別の話じゃった。
「予算はこれ。
これで上手に買うてきて」
ママがすみれに
封筒を渡した。
中には一万円札が一枚と、
小銭が少し。
昔なら、
七人分の誕生日会いうたら、
まあ何とかなる額じゃった。
けど今は違う。
✲「二〇二六年四月、
日本では
飲食料品の値上げが
二千七百九十八品目。
しかも最大の山は、
肉でも魚でもなく
調味料
千五百十四品目じゃった」
つまり、
主役の皿に乗る前から、
台所の土台が
先に重たくなっとる。
わしは封筒を見た瞬間、
ちょっとだけ
嫌な予感がした。
株の世界でもそうじゃ。
最初に崩れるんは
派手なチャートやない。
「まあ何とかなるじゃろ」
いう空気の方から
崩れるんじゃ。
その日、
すみれと並んで
近所のスーパーへ向かいながら、
わしはまだ
その嫌な予感に
名前をつけられずにおった。
■第二章
海苔一枚が、
おにぎりを贅沢品にした
「おにぎり作ろうかな」
スーパーへ入って最初に、
すみれはそう言うた。
「おじいちゃん、
海苔好きじゃろ」
大好きじゃ。
好きじゃけど、
それを好きなままで
おれるほど、
今の海苔売り場は
優しゅうなかった。
すみれは十枚入りの
焼き海苔を手に取った。
そして値札を見て、
止まった。
「……高っ」
その一言に、
わしは笑うた。
「そうじゃろ。
もう海苔は、
黒い紙みたいな顔して
紙の値段では
済まんのんよ」
海苔いうんは、
ただの黒い紙じゃない。
雨の量と、
川の栄養と、
海の機嫌が、
最後に一枚へ畳まれたもんじゃ。
✲「業者向けの乾のり
平均単価は、
二〇二六年二月末で
一枚十八・九六円。
五年前の
約一・八倍まで上がった」
有明海では少雨や栄養塩不足、
赤潮、色落ちが重なって、
海の不機嫌が
そのまま値札へ出とる。
「十枚しか入っとらんのに、
こんなするん?」
「そうじゃ。
おにぎりは今でも
丸い顔しとるけど、
巻いとる海苔の方は
もう気軽な顔
しとらんのんよ」
おにぎり一個。
昔なら、
やさしい食べ物じゃった。
けど今は違う。
海苔一枚が
高うなるいうんは、
海苔だけの問題やない。
おにぎり。
のり弁。
巻き寿司。
朝ごはん。
全部の気軽さが、
一枚ずつ削られていく
いうことなんじゃ。
すみれは結局、
海苔を一袋だけ
カゴに入れた。
その動きが、
まるで宝石でも
扱うみたいに
慎重で、
わしは少しだけ
胸が詰まった。
誕生日会の買い出しで、
黒い一枚を
節約する時代が来るとは
思わんかった。
■第三章
カップ麺は、
麺より文明でできている
「何か簡単なもんも
買うとこうかな。
料理失敗したら困るし」
ええ判断じゃ。
けどカップ麺売り場も、
もう避難所の顔をしとらん。
すみれは
カップ麺を持って値札を見た。
「これもちょっと前より
かなり高い」
「それはな、
もう小麦粉だけの
値段じゃないんよ」
「え?」
「油で揚げて、
カップに詰めて、
ふた貼って、
印刷して、
運んで、
棚に立たせて、
やっと一個の顔しとる。
麺より文明で
できとるんじゃ」
✲「二〇二六年は、
即席麺でも改定が続いた。
日清系では
約百七十品目の価格改定、
明星食品でも
六月出荷分から
**六〜十%**の値上げ」
理由は原材料だけやない。
包装資材、物流、人件費。
つまり、麺より先に
文明の方が高うなっとる。
すみれは、
分かったような
分からんような顔で
カップ麺を見つめとった。
ほんまのことを言えば、
今の世の中で
いちばん怖いんは、
中身より先に
包みの方が高うなることじゃ。
麺があっても、
カップが高い。
ふたが高い。
印刷が高い。
運ぶ燃料も高い。
カップ麺いうんは、
庶民の避難所みたいな
顔をしとる。
けど、
その避難所そのものが
だんだん高台の上へ
逃げていっとる。
「じゃあ、
これも一個だけにする」
「おじいちゃんだけね。
締めに食べてね」
すみれはそう言うて、
特売の札がついとるのを
一つだけ取った。
昔は
「安いから買う」
もんじゃった。
今は
「まだ安い顔をしとるから
選ぶ」
もんになった。
そこが、じわじわ怖い。
■第四章
豆腐と納豆が、
安い味方をやめる日
「豆腐は?」
「いいね。ヘルシーだし」
「納豆は?」
「おじいちゃん好きそう」
好きじゃ。
じゃけど今の豆腐と納豆は、
安い味方の顔をしながら、
裏ではだいぶしんどい。
豆腐は、まだ白い。
白うて、静かで、
安い味方みたいな顔をしとる。
けど、その裏では
大豆が上がり、
電気が上がり、
ガスが上がり、
容器が上がる。
現場の報道では、
原材料や光熱費が約二割上昇、
容器代は約四割上昇。
しかも業者からは
「しょっちゅう
いろんな会社が
豆腐とかを作るのを
辞めたと
聞いてます。」
「新しい取引先探すの
めちゃくちゃ
しんどいんです」
という声…。
豆腐いうんは、
贅沢品が消える話やない。
いちばん安うて、
いちばん毎日のもんから
町が作れんなる話なんじゃ。
納豆はもっと露骨じゃ。
✲「二〇二六年春、
納豆資材では
PSP容器や被膜に
約四割の値上げ圧力」
業界では
「五〜六月に
同時に値上げしないと
耐えられない」
という見方まで出た。
納豆は
豆でできとるように見える。
けど実際には、
容器と被膜とタレ袋と
石油の都合でできとる。
「なんで豆なのに石油なん」
「器がいるじゃろ。
ふたもいる。
運ぶにも燃料がいる。
豆だけあっても、
店には並ばんのんよ」
すみれはほんまに
驚いた顔をしとった。
子どもにとって納豆は豆じゃ。
大人にとっては、
だんだん
石油製品に見えてくる。
そこが、しんどい。
すみれは黙って、
豆腐を一丁、
納豆を一組だけ入れた。
カゴの中身は、
まだ軽かった。
けど、諦めたもんの重さが、
もうかなり入っとった。
■第五章
肉を選ぶ自由が、
少しずつ消えていく
肉売り場へ来た時だけ、
すみれはまた元気になった。
「ハンバーグ!」
子どもらしい、
ええ声じゃった。
けど肉売り場は、
いま順番に
逃げ場が消えとる。
牛は遠い。
豚はその半分みたいな
顔をしとるけど、
じつはだいぶ細ってきとる。
鶏は最後の
受け皿みたいな顔をしとる。
ハムを見ると、
加工したくせに
えらい立派な値段をしとる。
「なんでこんなに違うん」
「牛は高うなって消える。
豚は安い逃げ場じゃ
なくなる。
鶏は最後の受け皿みたいな
顔をしとる。
けど、その全部に
飼料と病気と円安と
包みの値段が乗っとる」
✲「二〇二五年末、
スペインではASFで
輸出証明の約三分の一が
止まった時期があった」
日本向けも完全に
平常へ戻ったわけではなく、
輸入の不安は尾を引いた。
牛、豚、鶏、加工肉。
全部に
円安、
海外相場高、
飼料、
包材、
物流。
つまり最後に失うんは、
「今日は何の肉にしようか」
いう自由なんよ。
「牛はやめようか」
すみれが先に言うた。
その言い方が
妙に大人びとって、
かえって切なかった。
「豚にする?」
「豚も前みたいな
逃げ場じゃなくなって
きとる。
じゃけど今日は、
豚と鶏をうまいこと
混ぜていこうや」
ほんまは
ハンバーグ一つにも、
世界の病気と為替と
飼料の値段が混ざっとる。
誕生日会のカゴへ入る前に、
肉はもう立派な
国際情勢なんじゃ。
■第六章
魚は海にいても、
店には来ない
「魚は?」
すみれが聞いた。
「海におる」
「いや、そうじゃなくて」
魚売り場は
いちばん説明が難しい。
肉みたいに
一律で上がるとも言えんし、
野菜みたいに
天気だけのせいにもできん。
魚介類は、
すごう高うなるもん、
まだ何とか並ぶもん、
ただ静かに消えるもんの差が
極端に広がりやすい。
✲「二〇二六年春は、
中東情勢に伴う燃料高で、
日本や韓国の遠洋漁業に
緊急支援要請が出るほど
厳しくなった」
魚の問題は
「獲れるか」より先に
「出られるか」
「冷やして運べるか」
になり始めとる。
「魚って海におるのに、
なんで店にないん」
「海から港へ、
港から市場へ、
市場から店へ来るまでに、
何重にも都合を
くぐらにゃならんのんよ」
漁師が休む。
外国の漁師も休む。
冷凍の船も動きたがらん。
冷蔵倉庫も重い。
輸送の燃料も高い。
魚は海にいても、
店には来ない。
これがいちばん怖い。
値段が高いことそのものより、
今日は何があるんか、
それすら分からんことの方が
よっぽど怖い。
「じゃあ、刺身はやめようか」
「そうしよう」
「焼き魚は?」
「今日は見送ろうか」
そうやって、
海の味は
誕生日会のカゴから
静かに消えた。
■第七章
お好み焼き屋の
灯りが消えた町
帰り道、
近所のお好み焼き屋の
前を通った。
地元じゃ有名な店じゃった。
うまかった。
よう流行っとった。
けど閉まった。
シャッターは、
言い訳もせず降りとった。
お好み焼きいうんは、
小麦粉、キャベツ、卵、
ソース、マヨネーズ、サラダ油、
ガス、電気の集合体じゃ。
しかも…
✲「四月の値上げで、
調味料は千五百十四品目。
味の素はマヨネーズ類を
四月から**約六〜十%上げ、
食用油も日清オイリオが
家庭用を八〜十四%**
改定した」
つまり、
鉄板の上で焼ける音の中に、
原材料と油と光熱費の悲鳴が
全部入っとる。
「ここ、おいしかったん?」
「おいしかった」
「なんで閉まったん」
「安うてうまいを
守ろうとしたら、
しんどかったんじゃろうな」
値上げしたら客が減る。
据え置いたら赤字になる。
お好み焼き屋が
潰れるいうんは、
粉もんの話じゃない。
庶民の逃げ場が一つ消える
いうことなんじゃ。
すみれは
シャッターを見上げて、
しばらく黙っとった。
それから小さく言うた。
「今日、ちゃんと作ろう」
その一言が、
わしにはちょっとだけ
眩しかった。
■第八章
おじいちゃん、海へ行く
誕生日会は、ちゃんと開かれた。
すみれは不器用な手で、
小さい
ハンバーグみたいなもんを
作った。
味は少し濃かった。
けどうまかった。
わしは笑うた。
おばあちゃんも笑うた。
すみれも笑うた。
けど心のどこかで、
わしはずっと思うとった。
この先もっとひどくなったら、
すみれに何を
食べさせられるんじゃろう。
海苔が高い。
魚がない。
肉が逃げる。
油が重い。
何もできんのは、
わしの方じゃ。
そう思うたら、
急に居ても立ってもおれんなった。
翌朝、
わしは自転車にまたがって
海の方へ向かった。
「魚を取りに行く」
そう言うた瞬間に、
自分でもちょっと
笑いそうになった。
魚を取る?
誰が?
この、
ミミズも触れん
六十七歳のおじいちゃんが?
わしのふるさとには
朝市みたいな、
まだ魚が見える場所がある。
けど、あれも漁に出られて、
港へ戻れて、
朝市まで運べる前提で
成り立っとる。
魚がおるかどうかやない。
そこへ辿り着ける暮らしを、
みんながまだ持っとるか
どうかなんじゃ。
■第九章
釣り糸が切れた日、
すみれは笑った
海は遠かった。
自転車で一時間以上。
着いた時にはもう、
釣る前から少し負けとった。
昔はできた。
小学校の頃はミミズも触れた。
ちょん切って針につけるのも
平気じゃった。
川魚もよう釣った。
けど今は違う。
餌を見ただけで、
ちょっと鳥肌が立つ。
情けない。
魚が高うなったら
釣ればええ。
みんな簡単にそう言う。
けど、ミミズを触れん
人間はどうする。
釣り針すら
買うてない人間はどうする。
海まで一時間かかる
おじいちゃんはどうする。
ほんまに失うんは魚やない。
自分で取りに行く
力の方なんじゃ。
わしは安い仕掛けを
ようやく結んで、
ぎこちなく投げた。
一回目。
だめ。
二回目。
重りが変なとこへ行った。
三回目。
ちょっとだけ希望が出た。
四回目。
糸が切れた。
「……ああ」
それだけじゃった。
相場は読めても、
魚の顔色は読めんかった。
海は、
わしの覚悟に感動もせんし、
年寄りの気合にも同情せん。
ただ、よう切れた。
家へ戻ると、
すみれが玄関で待っとった。
「釣れた?」
「糸が切れた」
すみれは一瞬きょとんとして、
それから笑った。
「おじいちゃんらしいなあ」
その言い方が、
優しいんか残酷なんか、
よう分からんかった。
わしも笑うた。
笑うしかなかった。
けどその時、
わしは確かに思うた。
食料危機いうんは、
物がなくなることだけじゃない。
分かっとるのに
動けん人間の情けなさまで、
いっしょに棚へ
並べてくるんじゃな、
と。
それでも。
それでも、
すみれにだけは
何も捨てられんと思うた。
たとえ糸が切れても、
来週また行こうかと、
ほんの少しだけ思えたけえじゃ。
………
★あとがき
― ホームズとワトソンの、
やすきよ漫才風 ―
✲ホームズ
ワトソン君、
今回の事件は実に妙だったよ。
誕生日会の買い出しに
出ただけなのに、
日本の食卓の裏側が
全部出てきた。
✲ワトソン
妙も何も、
普通にしんどいわ。
海苔は一枚で
考えにゃならんし、
納豆は豆より器が高いし、
魚は海におっても店に来ん。
これ、事件いうより
生活やないか。
しかも四月だけで値上げ
二千七百九十八品目やぞ。
もうスーパー全体が
犯行現場や。
✲ホームズ
そこなんだよ。
犯人が一人じゃない。
海も悪い。
円安も悪い。
燃料も悪い。
包材も悪い。
しかもみんな、
自分だけでは
大したことない顔を
して寄ってくる。
✲ワトソン
やかましいわ。
共犯多すぎて
取り調べできんがな。
警察行って
「犯人は文明です」
いうたら
追い返されるわ。
✲ホームズ
だが感動したよ。
あの小六のすみれ君は偉い。
大人が相場や戦争や
物流で言い訳しとる間に、
ちゃんと料理を作った。
そこが今回の救いだ。
✲ワトソン
ほんで六十七歳の
元証券マンは何しとった?
海行って、
釣り糸切っとった
だけやないか。
希望みたいな
顔して出ていって、
結果が「糸切れました」て、
お前、昭和のコントか。
✲ホームズ
人間味だよ。
✲ワトソン
人間味で
晩飯は食えんのじゃ。
けど、まあ、分かる。
頭では分かっとる。
備えた方がええ。
道具も買うた方がええ。
動いた方がええ。
でも、よう動かん。
そこがいちばん
痛いんやろな。
✲ホームズ
そう。
今回いちばん
切なかったのは、
値上げそのものじゃない。
「何かしてやりたい」
と思いながら、
うまく何もできない
大人の姿だよ。
海苔も、肉も、魚も、
最後はみんなそこへ
集まってくる。
✲ワトソン
くっさ。
めちゃくちゃええこと
言うやないか。
腹立つわ。
でもまあ、ほんまの話、
最後まで残るんは
「誰のために作るか」
かもしれんな。
すみれがおらなんだら、
この話ただの
値上げ一覧表で
終わっとる。
✲ホームズ
その通り。
国がやせても、
町がしぼんでも、
最後まで残るのは、
誰かのために
台所へ立つ気持ち
かもしれないね。
✲ワトソン
……ほんで最後は
ええ話で締めるんやな。
けど来年は
ちゃんとしとけよ。
✲ホームズ
何をだい?
✲ワトソン
釣り道具ぐらい
先に買うとけ、いう話や!
✲ホームズ
それは名推理だ。
✲ワトソン
推理やのうて、ただの段取りや!
………
❥Z世代の読者のあなたに
ここまで読んでくれて、
ありがとう。
たぶんあなたは、
このおじいちゃんを見て、
少し笑うたかもしれん。
相場は読めるのに、
魚は釣れん。
危機は分かっとるのに、
釣り道具ひとつ買うてない。
ミミズも触れん。
糸まで切れる。
なんと情けない
おじいちゃんじゃろう、
と思うても無理はない。
けどな。
お釈迦様がこの姿を見たら、
たぶん最初に
笑わんのんじゃ。
「なんと愚かな人間じゃ」
とも、
たぶん言わん。
お釈迦様はきっと、
こう見るんじゃないかと思う。
“人間いうんは、
分かっとっても
すぐには動けん
生き物なんじゃな”
と。
そしてもう一つ、
こうも見るはずじゃ。
“それでも、
このおじいちゃんは
誰かのために動こうとした”
と。
そこなんよ。
魚が釣れたかどうかは、
たしかに大事じゃ。
けどもっと大事なんは、
六十七歳になって、
情けない自分を知りながらも、
「すみれに何か食べさせたい」
と思うたことなんじゃ。
仏教では、
人間は強いから
救われるんじゃない。
賢いから
救われるんでもない。
弱いまま、
情けないまま、
迷うたまま、
それでも誰かを思う心がある。
そこに、
道の入口があるんじゃと思う。
もし今のあなたが、
分かっとるのに動けん、
不安やけど先送りしとる、
備えた方がええのに何もできん、
そんな自分を
ちょっとだけ情けないと
思うとるなら、
このおじいちゃんと
あまり変わらん。
そして、
それでええんじゃ。
大事なんは、
完璧に生き延びることやない。
全部わかって、
全部準備して、
全部正しく動くことでもない。
今日、何を一つだけ選ぶか。
誰のために、
何を残そうとするか。
そこからしか、
人間は始まらんのじゃと思う。
お釈迦様がもし、
釣り糸の切れた
おじいちゃんを見て
何か一言だけ言うとしたら、
たぶんこんな言葉じゃろう。
「遅うてもええ。
不器用でもええ。
情けのうてもええ。
けど、誰かを思うて
動いたその一歩は、
もう捨てんでええ」
日本の夏は、
もしかしたら本当に
しんどい夏になるかもしれん。
食べ物も、
お金も、
気持ちの余裕も、
少しずつ細うなるかもしれん。
けど最後まで残るもんは、
きっとある。
それは、
海苔でも、
肉でも、
魚でもない。
誰かのために
台所へ立とうとする気持ち。
誰かのために
もう一回だけ
やってみようと思う心。
それが残るうちは、
人間はまだ、
完全には負けとらんのんじゃ。




