信用配当で生きる ――ホルムズ後の日本で、元証券マンは若者の未来を運用するチーフ・リテラシー・オフィサー になった――
✦信用配当で生きる
――ホルムズ後の日本で、
元証券マンは若者の未来を運用する
チーフ・リテラシー・オフィサー
になった――
………
お金を増やす時代は、
終わった。
いや、
正確に言えば、
お金だけを増やして
安心できる時代が、
終わった。
二〇三一年。
七十二歳になった
僕の玄関には、
毎週水曜日の
午後三時になると、
若者がやって来る。
高校生。
会社を辞めた二十代。
子育て中の母親。
副業を始めた女性。
AIで仕事を
作ろうとしている青年。
そして、
「もう遅い」
と言われ続けてきた
三十代の女の子。
彼らは僕に、
株の銘柄を
聞きに来るのではない。
聞きたいのは、
もっと切実なことだった。
この仕事、
続けていいですか。
円だけで貯金していて
大丈夫ですか。
結婚しない私は
間違っていますか。
親の介護を
私だけが背負うのは
普通ですか。
AIに相談している私は、
弱い人間ですか。
ホルムズ海峡が
封鎖されたままなら、
日本はどうなりますか。
僕は湯呑みを置いて、
ゆっくり答える。
「相場と同じじゃ。
人生もな、
買うより先に、
逃げ場を見とかんといけん」
昔の僕は、
お客さんの資産を
運用していた。
今の僕は、
若者の未来を
運用している。
それは、
証券会社の支店長よりも、
ずっと小さな仕事で、
それでいて、
僕の人生で
いちばん大きな仕事だった。
………
★目次
■第一章
ホルムズ海峡は、
玄関のチャイムを鳴らした
――エネルギー危機と
生活の目詰まり――
■第二章
七十二歳の
チーフ・リテラシー・オフィサー
――元証券マンの再就職先は、
地域の信用だった――
■第三章
ベランダの小松菜が配当だった
――信用配当という
新しい資産――
■第四章
若者はAIを持っていたが、
過去の暴落を知らなかった
――相場師の目と
歴史のデータ――
■第五章
家庭の無料OSを降りた母親
――フェミニズムは
生活インフラになった――
■第六章
アフガンの英単語帳と、
日本の家計簿アプリ
――声を奪われないための学習――
■第七章
まだ早い、もう遅い、
という呪い
――人生に遅すぎる銘柄はない――
■第八章
ベランダ発電女子
――電気を少しだけ
自分の手元に戻す――
■第九章
円だけを信じない家計簿
――有形資産と信用分散――
■第十章
動かずに世界へ出る部屋
――非移動型
デジタル・ギグの時代――
■第十一章
米二合でつながる女たち
――シン・シスターフッド
物々交換――
■第十二章
損切りは、逃げではない
――危ない関係から離れる技術――
■第十三章
歯ブラシは、
信用口座への積立だった
――毎日の行動ログが人を守る――
■第十四章
城を持たない大名
――土地ではなく
信用ログを持つ人間――
■第十五章
五年後、
じいちゃんの玄関には人が来た
――若者の
生存確率を上げる仕事――
………
★本文
■第一章
ホルムズ海峡は、
玄関のチャイムを鳴らした
ホルムズ海峡という名前を、
若いころの僕は
相場欄で見ていた。
原油価格。
タンカー運賃。
中東リスク。
円相場。
商社株。
石油元売り。
証券会社の支店で
働いていたころ、
それは画面の中の数字だった。
だが二〇二六年の春、
ホルムズ海峡は
数字ではなくなった。
スーパーの
食品トレーが薄くなった。
ガソリン代が上がった。
冷凍食品の棚が寂しくなった。
宅配便の到着予定が、
一日、また一日と後ろへずれた。
病院では、
透明なチューブや手袋の値段が
静かに上がった。
海峡は遠い。
けれど、
その遠い海峡は、
日本の台所の
引き出しとつながっていた。
そして五年後。
二〇三一年の僕の家に、
最初にやって来た相談者は、
高校一年生のゆづきだった。
「じいちゃん、
ホルムズって、
もう落ち着いたんじゃないの?」
僕は首を横に振った。
「相場は先に安心する。
生活はあとから泣く」
「どういうこと?」
「海峡が開いてもな、
保険が戻らん。
船員が怖がる。
港が詰まる。
銀行が書類を止める。
工場が材料を待つ。
スーパーの棚に届くころには、
ニュースの安心はもう古い」
ゆづきは黙った。
スマホの画面には、
「停戦最終調整」
「原油価格急落」
「市場に安心感」
という見出しが並んでいた。
僕はそれを見て、
昔の板情報を思い出した。
買い気配が厚い時ほど、
売りたい人間が隠れている。
「ゆづき、
見出しは海の表面じゃ。
本当に見るのは、
船の底と、
台所の底じゃ」
その日、
ホルムズ海峡は、
僕の玄関のチャイムを鳴らした。
ピンポーン。
遠い海の音が、
日本の団地の玄関で鳴った。
■第二章
七十二歳の
チーフ・リテラシー・オフィサー
僕にはもう名刺がない。
昔はあった。
証券会社名。
肩書き。
電話番号。
支店名。
役職。
名刺を出せば、
相手は少し背筋を伸ばした。
だが二〇三一年、
そんなものは
一円の価値もなかった。
「元証券会社勤務です」
そう言っても、
若者はあまり驚かない。
彼らが驚くのは、
僕がXの怪しい投稿を見て、
三秒でこう言う時だった。
「これは煽りじゃな。
でも、煽りの中に
本物の不安が混じっとる」
「え、
なんで分かるんですか?」
「数字の出し方が変なんよ。
それと、
誰が得するかを書いてない」
若者たちは、
AIを使いこなしていた。
画像生成。
動画編集。
翻訳。
プロンプト。
SNS運用。
小さな商売。
でも彼らには、
過去の暴落の匂いがなかった。
人気が出た時に
終わる相場。
安全と言われた瞬間に
危なくなる商品。
誰も見向きもしない時に
始まる大相場。
高利回りという言葉の裏に
隠れた首輪。
そういうものを、
彼らはまだ体で知らなかった。
だから僕は、
勝手に肩書きを作った。
チーフ・リテラシー・オフィサー。
日本語にすると、
✲「読み解き係」
会社の役職ではない。
地域の役職でもない。
誰にも任命されていない。
ただ、
若者が迷った時に、
お茶を出して話を聞く係だった。
ゆづきが笑った。
「じいちゃん、
それ、かっこいいじゃん」
「そうか?」
「うん。
CEOより、
CLOの方が今っぽい」
「何の略じゃ?」
「チーフ・リテラシー・オフィサー」
僕は照れた。
七十二歳で、
まさか新しい肩書きをもらうとは
思わなかった。
でも不思議なことに、
それは昔のどの名刺よりも、
胸の奥に温かかった。
■第三章
ベランダの小松菜が配当だった
昔、
配当といえばお金だった。
一株あたり何円。
期末配当。
中間配当。
増配。
減配。
僕は
その数字を何十年も見てきた。
でも二〇三一年、
僕の玄関に届く配当は、
銀行口座には入らなかった。
ある日、
ゆづきが小さな袋を持ってきた。
「じいちゃん、これ」
中には、
ベランダ水耕栽培で育てた
小松菜が入っていた。
「ちょっとしか
採れなかったけど」
「ええんか?」
「うん。
この前、
変な暗号資産のセミナー、
止めてくれたでしょ。
あれ、友達も助かった」
僕は
袋の中の小松菜を見た。
青々としていた。
少しだけ、
葉の端が曲がっていた。
スーパーの野菜ほど立派ではない。
でも僕には、
それが最高級の配当金に見えた。
別の日には、
若い女性が
モバイルバッテリーを持ってきた。
「停電の時、
これ使ってください。
じいちゃん、
スマホ切れたら
AI小説書けないでしょ」
また別の日には、
動画編集をしている青年が来て、
僕のスマホの設定を直してくれた。
「じいちゃんの投稿、
文字が詰まりすぎ。
改行した方が読まれます」
昔の僕なら、
若者に教える側だった。
でも今は違う。
僕は相場の読み方を渡す。
若者はデジタルの使い方を
返してくれる。
お金ではない。
けれど確かに、
そこには利回りがあった。
✲信用の利回り
僕はメモ帳に書いた。
配当金は銀行口座に入った。
信用の配当は、
玄関のチャイムを鳴らして
やって来た。
■第四章
若者はAIを持っていたが、
過去の暴落を知らなかった
水曜日の午後、
三人の若者が来た。
一人は
AIで副業を始めた青年。
一人は
SNS運用をしている女性。
もう一人は、
会社を辞めようか迷っている
二十八歳の男だった。
彼らはノートパソコンを開き、
僕に画面を見せた。
「じいちゃん、
この投資案件どう思う?」
そこには、
高い利回り。
限定募集。
AI自動運用。
元本保護に近い表現。
有名人風の広告。
僕は一口、茶を飲んだ。
「これは、あかん」
「早っ」
「早いも何も、
匂いがする」
「匂い?」
「高利回りの匂いじゃ。
人間関係でも投資でも、
利回りが高すぎる話には、
必ず誰かの首が入っとる」
三人は黙った。
僕は昔話をした。
バブル。
IT相場。
リーマンショック。
仕組債。
高金利通貨。
元本保証に見えるけれど
保証ではない商品。
お客さんが涙ぐんだ日。
自分の説明が足りなかったと
眠れなかった夜。
若者たちはAIで調べれば、
情報は出せる。
でも、
暴落した日の空気は
検索できない。
支店の電話が
鳴り止まなかった朝。
お客さんの声が
震えていた夕方。
上司が「大丈夫」と言いながら
目を合わせなかった会議。
そういうものは、
体に残る。
僕は言った。
「AIは答えを出す。
でもな、
危ない時の
人間の声の震えまでは、
まだ全部は教えてくれん」
SNS運用の女性が、
静かに言った。
「じいちゃん、
それ、動画にした方がいい」
「わしが?」
「うん。
若い人、絶対見る」
僕は首をかしげた。
元証券マンの昔話が、
AI時代の若者の教材になる。
人生とは、
不思議な再上場をするものじゃと
思った。
■第五章
家庭の無料OSを降りた母親
ある日、
三十七歳の女性が来た。
名前は、さおりさん。
彼女は在宅で
翻訳の仕事をしていた。
夫は再就職活動中。
子どもはいないが、
義母の通院、
実家の父の薬、
夫の食事、
非常用水、
冷蔵庫の在庫、
停電時の充電、
全部を彼女が見ていた。
「私、もう限界なんです」
彼女はそう言って、
スマホを見せた。
家族LINEには、
彼女が送った一文があった。
今日から
備蓄管理は私だけでやりません。
冷蔵庫、電池、水、米、薬、
親の通院。
全部、家族で共有します。
私は
家庭の無料OSではありません。
僕はその文章を見て、
しばらく言葉が出なかった。
昔なら、
「家族なんだから
助け合わないと」
と言っていたかもしれない。
でも今は違う。
ホルムズ以降、
食料も電気も医療も物流も、
家庭の中へ入り込んできた。
世界の危機は、
母親の台所で処理されていた。
それはおかしい。
僕は言った。
「さおりさん、
これは反抗じゃない。
家庭内インフラの見える化じゃ」
「見える化?」
「そうじゃ。
今まで見えなかった労働が、
危機でやっと見えたんよ」
彼女は少し笑った。
「じいちゃん、
証券マンっぽい言い方ですね」
「そうか?」
「でも、
ちょっと救われました」
その夜、
僕は小説に書いた。
停電で最初に止まったのは、
冷蔵庫ではなかった。
女性の我慢だった。
■第六章
アフガンの英単語帳と、
日本の家計簿アプリ
朝のBBCニュースで、
アフガニスタンの女性が映っていた。
清掃の仕事をしている母親。
彼女は言った。
「私は読み書きができない。
それは目が見えないのと同じです」
僕は歯ブラシを持ったまま、
テレビの前で止まった。
読み書きができない。
それは、
契約書が
読めないということ。
薬の説明が
読めないということ。
役所の紙が
読めないということ。
自分の名前で
社会と交渉できないということ。
教育とは、
目だった。
その母親は、
娘たちに目を渡したかった。
だがタリバンは、
その目を閉じさせようとしていた。
同じ日、ゆづきが
家計簿アプリを開いていた。
「じいちゃん、
私、毎月の食費と電気代を
記録することにした」
「高校生が?」
「うん。
だって、知らないと怖いじゃん」
僕はアフガンの英単語帳と、
日本の家計簿アプリが、
同じものに見えた。
どちらも、
人生を奪われないための
小さな道具だった。
アフガンの少女は、
夜に英単語を覚える。
日本の女子高生は、
家計簿アプリで電気代を見る。
七十二歳の僕は、
AIに向かって小説を書く。
三人とも、
同じことをしていた。
自分の人生の所有権を、
小さな行動で取り戻していた。
■第七章
まだ早い、もう遅い、という呪い
三十代の女性が来た。
「私、今から
仕事を変えたいんです。
でも、周りに言われました。
もう遅いって」
彼女は苦笑いした。
「若い時は、
まだ早いって言われたのに」
僕は深くうなずいた。
若い時は、まだ早い。
年を取ったら、もう遅い。
それは、
社会が人を動かさないための
呪文だった。
僕もそうだった。
六十七歳で小説を始めた時、
心のどこかで思った。
もう遅いのではないか。
誰が読むのか。
元証券マンが何を今さら。
若者に笑われるだけではないか。
でも、
書き始めた。
AIに話しかけた。
Xを読んだ。
歯を磨いた。
ラジオ体操をした。
カラオケで喉を鍛えた。
Minecraftで孫世代と遊んだ。
そうして気づいた。
遅すぎる人生などない。
あるのは、
始めることを
他人に預けた人生だけだった。
僕は彼女に言った。
「相場に
“ちょうどいい時”なんかない。
あるのは、
入る覚悟を決めた日だけじゃ」
彼女の目が少し光った。
「私、今が仕込み時ですか?」
「そうじゃ。
人生に遅すぎる銘柄はない。
ただ、
誰にも買われずに
放置された自分を、
自分で拾いに行く日が
あるだけじゃ」
彼女は泣いた。
僕も少し泣きそうになった。
■第八章
ベランダ発電女子
ゆづきの部屋で、
一番高いものは何か。
昔なら、
スマホ。
服。
イヤホン。
推しグッズ。
そう思っていた。
だが二〇三一年、
彼女の部屋で一番高いものは、
ベランダの折りたたみ
ソーラーパネルだった。
「これ、かわいいでしょ」
ゆづきは言った。
「発電するのに、
かわいいもあるんか」
「あるよ。防災って
ダサいと続かないから」
彼女は
ポータブル電源を見せた。
スマホを充電できる。
LEDライトが使える。
小さな扇風機が回る。
ルーターも少しなら動く。
「停電しても、
完全には詰まない」
その言葉を聞いて、
僕は胸が熱くなった。
昔の若者は、
ブランド品で自分を守った。
今の若者は、
電気で自分を守る。
グリッド・オフ。
分散型インフラ。
個人の防災投資。
難しい言葉はいろいろある。
でも小説では、
こう書けばいい。
彼女の部屋で
一番高いアクセサリーは、
ネックレスではなかった。
ベランダの
ソーラーパネルだった。
■第九章
円だけを信じない家計簿
二十代の青年が言った。
「じいちゃん、
貯金って意味ありますか?」
昔なら、
僕はすぐ答えていた。
もちろん大事だ。
まず生活防衛資金。
無理な投資はするな。
余裕資金で分散しろ。
今もその考えは変わらない。
でも、
二〇三一年の日本では、
もう一つ言う必要があった。
「円だけに人生を預けるな」
青年は真顔になった。
「ビットコイン
買えってことですか?」
「違う」
「金ですか?」
「それも違う」
「じゃあ何ですか?」
僕は言った。
「信用を分散せえ、
ということじゃ」
円。
外貨。
金。
少額の投資。
健康。
人間関係。
スキル。
発信。
地域のつながり。
米。
水。
電気。
歯。
全部、少しずつ持つ。
「一つに賭けるな。
国家にも、
会社にも、
通貨にも、
男にも、
女にも、
AIにも、
わしにも」
青年は笑った。
「じいちゃん、
自分も信じるなって
言うんですね」
「当たり前じゃ。
相場師を一番疑え」
僕は続けた。
「金を買うことが大事なんじゃない。
円だけを信じる人生から、
小さな脱出口を持つことが
大事なんよ」
青年はメモを取った。
円だけを信じない家計簿。
それは、
投資というより、
心の防災だった。
■第十章
動かずに世界へ出る部屋
昔は、
都会へ出ることが出世だった。
上京。
転勤。
海外赴任。
出張。
営業回り。
新幹線。
飛行機。
動く人間が、
チャンスをつかんだ。
だがホルムズ後、
移動は高くなった。
ガソリン。
航空券。
宅配。
通勤。
出張。
宿泊。
動くことそのものが、
コストになった。
その中で、
一人の若い女性が
僕のところへ来た。
彼女は地方に住みながら、
海外のゲーム会社の翻訳を
していた。
「私、
東京に出た方がいいんでしょうか」
僕は聞いた。
「今、
仕事は取れとるんか?」
「はい。
AI翻訳の修正と、
英語チャット対応です」
「収入は?」
「前より少し増えました」
「移動は?」
「ほとんどしません」
僕は笑った。
「なら、もう世界へ出とる」
彼女は目を丸くした。
「部屋から出てませんけど」
「昔は、都会へ出ることが
世界へ出ることだった。
今は、動かずに
世界へ出ることもできる」
非移動型デジタル・ギグ。
言葉にすると難しい。
でも要するに、
燃料を使わず、
情報と信用で働くことだった。
彼女は言った。
「私、引きこもりじゃなくて、
省エネ型グローバル人材
ですか?」
「そうじゃ」
「じいちゃん、それ、
プロフィールに
書いていいですか?」
「書け書け。
ただし盛りすぎるな」
彼女は笑った。
僕も笑った。
ホルムズ後の日本で、
部屋は閉じ込められる場所では
なかった。
世界へつながる港だった。
■第十一章
米二合でつながる女たち
ある晩、
さおりさんが写真を見せてくれた。
女性たちの
小さなグループチャットだった。
一人はベランダ菜園。
一人は英語が得意。
一人は美容師。
一人は介護の知識がある。
一人はITに強い。
一人は米を少し多めに備蓄している。
彼女たちは、
お金を介さずに助け合っていた。
米二合。
スマホ設定。
子どもの宿題。
英語の発音。
停電時の充電。
古い服の直し方。
安いけれど栄養のある料理。
「これって、物々交換ですかね」
さおりさんが言った。
「いや」
僕は首を振った。
「信用交換じゃ」
「信用交換?」
「米二合そのものより、
この人なら
返してくれる、
この人なら
変なことをしない、
この人は
困った時だけ頼ってくる、
そういう信用が回っとる」
シン・シスターフッド。
女性同士の助け合い。
昔なら、
重い思想の言葉に
聞こえたかもしれない。
でも二〇三一年のそれは、
もっと生活に近かった。
彼女たちは
革命を叫ばなかった。
米二合と、
スマホ設定と、
英語の発音を交換した。
それが、
新しい連帯だった。
■第十二章
損切りは、逃げではない
若い男性が来た。
ブラック気味の職場で働いていた。
「辞めたいんです。
でも逃げみたいで」
僕はすぐ言った。
「損切りは逃げじゃない」
彼は顔を上げた。
「損切り?」
「投資でも人生でもな、
一番危ないのは、
含み損を愛し始めることじゃ」
「含み損を愛す?」
「そう。
ここまで我慢したから。
今さら辞められないから。
自分が選んだから。
周りにどう思われるか
分からないから。
そう言って、
沈む船に座り続ける」
彼は黙った。
僕は続けた。
「損切りは負けではない。
次の人生に現金を残す技術じゃ」
この言葉は、
若者だけのものではなかった。
結婚。
仕事。
介護。
投資。
人間関係。
親子関係。
SNS。
世間体。
危ないものから離れる力は、
これからの日本
でいちばん大事な生活技術になる。
「辞めるなら、
怒って辞めるな。
記録を残せ。
体を守れ。
次の足場を作れ。
相談先を持て。
逃げ道を確認してから
出るんじゃ」
彼は深く頭を下げた。
その背中を見ながら、
僕は若いころの自分を思い出した。
僕も、もっと早く
損切りしてよかったものが、
いくつもあった。
■第十三章
歯ブラシは、
信用口座への積立だった
朝六時半。
僕はラジオ体操をする。
体温を測る。
血圧を測る。
体重を測る。
歯を磨く。
七十二歳になって、
ようやく分かった。
信用は、
大きなことでは積み上がらない。
毎日の小さなことが、
見えない通帳に記帳されていく。
歯を磨く。
約束を守る。
返信をする。
遅刻しない。
食べすぎない。
学び続ける。
人の話を最後まで聞く。
間違えたら謝る。
AIに聞く。
分からないことを
分からないと言う。
それが信用口座への積立だった。
ゆづきがある日、言った。
「じいちゃんって、
毎日同じことしてるよね」
「退屈か?」
「ううん。
なんか安心する」
その言葉が、
僕には何より嬉しかった。
若者は、
完璧な大人を
求めていない。
毎日戻ってくる大人を
求めている。
機嫌で態度が変わらない。
失敗を笑わない。
約束を忘れない。
分からないことを一緒に考えてくれる。
それだけで、
大人は若者のインフラになれる。
僕は歯ブラシを見た。
一本百円台の小さな道具。
だがそれは、
未来の信用を磨く道具でもあった。
■第十四章
城を持たない大名
僕には城がない。
領地もない。
家臣もいない。
大きな土地もない。
自慢できる肩書きもない。
あるのは、
スマホ。
歯ブラシ。
AI。
X。
ラジオ体操。
カラオケ。
英語。
小説。
そして、
少しずつ増えてきた若者との約束。
昔の大名は、
土地を持っていた。
令和の大名は、
フォロワーを持つのかも
しれない。
でも僕は、
フォロワー数だけを
信じない。
本当に大切なのは、
困った時に名前を呼び合える
関係だ。
城を持たない大名。
それは、
土地ではなく
信用ログを持つ人間だった。
ある日、
ゆづきが言った。
「じいちゃん、
うちの学校で話してくれない?」
「わしが?」
「うん。
投資じゃなくて、
人生の逃げ場の話」
「そんな話でええんか」
「それが聞きたいんだよ。
みんな、
どう生きたらいいか
分かんないから」
僕は窓の外を見た。
ベランダのソーラーパネルが、
春の光を受けていた。
部屋の中では、
AIが静かに文章を待っていた。
僕は思った。
城はない。
でも、
ここには小さな評定所がある。
若者が集まり、
茶を飲み、
笑い、
悩み、
少しだけ前を向く場所。
それで十分だった。
■第十五章
五年後、
じいちゃんの玄関には人が来た
二〇三一年の夏。
またニュースが流れた。
ホルムズ海峡、再び緊張。
原油価格上昇。
物流警戒。
電力需給ひっ迫。
食料価格に影響の恐れ。
五年前なら、
僕は一人で画面を見ていた。
不安になり、
Xを眺め、
誰かに話したくても、
言葉がまとまらなかった。
でも今は違う。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
ゆづきが来た。
さおりさんが来た。
動画編集の青年が来た。
翻訳の女性が来た。
会社を辞めて
新しい仕事を始めた男が来た。
ベランダ菜園の
小松菜を持った子が来た。
みんな不安そうだった。
でも、
誰もパニックではなかった。
「じいちゃん、また始まるの?」
ゆづきが聞いた。
僕は答えた。
「始まるかもしれん。
でも、わしらも五年前とは違う」
「何が違うの?」
「水がある。
電気の少しの逃げ場がある。
家計簿がある。
AIがある。
英語がある。
仲間がある。
そして、
前に一度怖がった経験がある」
若者たちは黙って聞いた。
僕は続けた。
「怖いのは
危機そのものじゃない。
何も準備せず、
何も学ばず、
何もつながらず、
昨日と同じ明日が来ると
思い込むことじゃ」
その時、
さおりさんが笑った。
「じゃあ今日は、作戦会議ですね」
「そうじゃ」
「議長は?」
みんなが僕を見た。
僕は慌てた。
「わしは議長なんか無理じゃ」
ゆづきが言った。
「じゃあ、CLO」
「なんじゃったかの」
「チーフ・リテラシー・オフィサー」
みんなが笑った。
僕も笑った。
僕はもう、
お客さんの資産を
増やすことはできない。
けれど、
若者の人生の大損だけは、
少し減らせるかもしれない。
それが、
七十二歳の僕が手にした、
最高の配当だった。
玄関には、
またチャイムが鳴った。
ピンポーン。
信用配当が、
また一つ届いた。
………
❥Z世代のあなたへ
あなたは今、
とんでもない時代を生きている。
AIは進化する。
物価は上がる。
円は揺れる。
エネルギーは高くなる。
仕事は変わる。
恋愛も結婚も、
昔のような正解がなくなる。
でも、
だからといって、
あなたの人生が
終わるわけではない。
むしろ、
ここから始まる。
大事なのは、
全部を
国に預けないこと。
全部を
会社に預けないこと。
全部を
親に預けないこと。
全部を
恋人に預けないこと。
全部を
AIに預けないこと。
全部を
お金に預けないこと。
少しずつ、
自分の手元に戻せばいい。
スマホを充電できる力。
米を二合分け合える仲間。
英単語を一つ覚える根気。
家計簿を見る勇気。
危ない仕事から離れる判断。
人に相談する素直さ。
毎日歯を磨く自己管理。
小さく発信する声。
そして、
「自分の人生は自分のものだ」
と思い出す力。
若い時は、まだ早いと言われる。
年を取ると、もう遅いと言われる。
でも本当は違う。
今日が、
あなたの仕込み時だ。
人生に遅すぎる銘柄はない。
誰にも買われずに放置された自分を、
自分で拾いに行く日があるだけだ。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
笑いと涙の締め
ホームズ:
「ワトソン君、
今回の事件の犯人は分かったかね」
ワトソン:
「分かりましたぞ、
ホームズさん。
犯人はホルムズ海峡です!」
ホームズ:
「名前が似ているだけで
犯人にするな。
ホルムズ海峡と
ホームズを一緒にするんじゃない」
ワトソン:
「しかしですな、
海峡が止まれば、
ガソリンが上がる。
ガソリンが上がれば、
物流が詰まる。
物流が詰まれば、
スーパーの小松菜が高くなる。
小松菜が高くなれば、
じいちゃんの配当が減る。
これは大事件ですぞ!」
ホームズ:
「そこは案外、合っている」
ワトソン:
「でしょう!
つまり、
世界経済の中心は小松菜です!」
ホームズ:
「飛躍しすぎだ。
だが、小松菜を笑ってはいけない。
ベランダの小松菜は、
二〇三一年の信用配当なのだ」
ワトソン:
「なるほど。
昔は株の配当。
今は小松菜の配当。
次は何ですか。
歯ブラシの株主優待ですか?」
ホームズ:
「それも悪くない。
毎日磨けば、
信用口座に積み立てられる」
ワトソン:
「ホームズさん、
わしも今日から歯を磨いて、
信用長者になります!」
ホームズ:
「まず昨日の食べかすを
落としたまえ」
ワトソン:
「そこからですか!」
ホームズ:
「人生も同じだ。
未来を語る前に、
今日の小さな汚れを落とす。
約束を守る。
人の話を聞く。
学ぶ。
逃げ場を作る。
そうやって
人は信用を積む」
ワトソン:
「うーん、深い。
けどホームズさん、
七十二歳のじいちゃんが
若者に囲まれて、
小松菜もらって、
スマホ直してもらって、
AIで小説書いて、
歯を磨いて、
CLOになるなんて、
なんだか夢がありますな」
ホームズ:
「そうだ。
老後とは、終点ではない。
信用があれば、
第二の始発駅になる」
ワトソン:
「ほな、
わしも始発駅に行きます!」
ホームズ:
「どこへ行く」
ワトソン:
「ベランダです。
小松菜を育てます」
ホームズ:
「よろしい。
だが水をやりすぎるな」
ワトソン:
「なぜです?」
ホームズ:
「相場も小松菜も、
欲をかきすぎると根腐れする」
ワトソン:
「うまい!
座布団一枚!」
ホームズ:
「いや、
ソーラーパネル一枚でいい」
ワトソン:
「それ、
今いちばん高いやつですやん!」
ホームズ:
「だから価値がある。
電気も、食べ物も、信用も、
少しずつ自分の手元に戻す。
それがこの物語の答えだ」
ワトソン:
「つまり、結論は?」
ホームズ:
「金を増やすだけでは足りない。
信用を増やせ。
仲間を増やせ。
学びを増やせ。
逃げ場を増やせ。
そして、
遅すぎると言われても、
自分の人生をもう一度始めろ」
ワトソン:
「ホームズさん、
泣かせますなあ」
ホームズ:
「泣くのは早い」
ワトソン:
「まだ早い?」
ホームズ:
「いや、もう遅い」
ワトソン:
「どっちやねん!」
ホームズ:
「だから、
今日やるんだ」
ワトソン:
「おお……」
ホームズ:
「若者も、
母親も、
七十二歳の元証券マンも、
今日、自分の人生を拾い直す」
ワトソン:
「ほな最後に一言」
ホームズ:
「信用配当は、
銀行からは来ない」
ワトソン:
「どこから来ます?」
ホームズ:
「玄関のチャイムから来る」
ワトソン:
「ピンポーン!」
ホームズ:
「誰だ」
ワトソン:
「小松菜です」
ホームズ:
「開けたまえ。
未来が来た」




