第6話
カイウス公爵の指導のもと、わたくしの訓練は順調に進んでいた。
あれほど恐ろしかった魔力の奔流は、今やわたくしの手足のように、意のままに操れるようになってきている。
城の中庭に、わたくしが咲かせた季節外れの花々が咲き乱れる頃には、カイウス公爵と過ごす穏やかな時間が、何よりもかけがえのないものとなっていた。
「上達したな、エリアーヌ」
訓練の合間に、彼が淹れてくれた温かいハーブティーを飲みながら、そう言って頭を撫でてくれる。
その無愛想な優しさに、胸が高鳴るのを止められない。
この気持ちが恋なのだと、わたくしはもう、とっくに気づいていた。
そんな穏やかな日々は、一羽の鳥によって、唐突に終わりを告げた。
王都から届いた、緊急報を告げる伝令鳥。
そこに記されていたのは、信じがたい凶報だった。
『王都、黒い瘴気に覆われ、崩壊の危機に瀕す』
詳細な報告書を読み上げるカイウス公爵の声は、いつになく険しい。
原因は、エドワード第二王子。
わたくしを捨ててクリスティーナを選んだ彼は、自らの力を誇示するため、王家の宝物庫に眠っていた古代の魔道具『嘆きの聖杯』を持ち出したらしい。
クリスティーナにそそのかされ、儀式を行った結果、聖杯は暴走。
王都一帯に、生命を蝕み、大地を腐らせるという、呪いの瘴気を撒き散らしてしまったのだという。
「……なんて、愚かな」
思わず、呟きが漏れた。
彼らの虚栄心が、国を滅ぼそうとしている。
報告書には、宮廷魔術師団も手が出せず、瘴気に触れた人々が次々と倒れていると書かれていた。
「この瘴気は、通常の浄化魔法では祓えん。むしろ、魔力を糧に増殖する厄介な代物だ。放置すれば、一月も経たずに国土の全てが死に絶えるだろう」
カイウス公爵が、地図を広げながら厳しい口調で告げる。
黒いインクで塗りつぶされていく王都の範囲が、事態の深刻さを物語っていた。
わたくしの胸に、どす黒い感情が渦巻いた。
(自業自得だわ)
わたくしを『無能』と蔑み、嘲笑い、追い出した者たちが、今まさに苦しんでいる。
何の罪もない民まで巻き込んで。
けれど、それはわたくしの知ったことではない。
もう、あの国は、わたくしが帰る場所ではないのだから。
そう、思ったはずだった。
なのに。
脳裏に蘇るのは、王都の街並み。
市場の賑わい、パンの焼ける匂い、花を売る少女の笑顔。
わたくしが、確かに愛した、あの国の風景。
「……エリアーヌ」
カイウス公爵が、わたくしの名を呼ぶ。
見れば、彼はただ静かに、わたくしのことを見つめていた。
その紫水晶の瞳は、全てを見通しているかのようだ。
「君が行きたくないのなら、無理強いはしない。これは、君を捨てた者たちの問題だ。君が彼らを助ける義理など、どこにもない」
彼の言葉は、わたくしの心を代弁してくれているかのようだった。
そうだ、わたくしには、彼らを救う義務なんてない。
「君がどう決断しようと、俺は君の味方だ。この城で、二人で静かに暮らすという選択肢もある。俺は、それでも構わん」
その言葉は、何よりも甘い響きを持っていた。
全てを忘れ、この優しい人と、ここで生きていく。
それは、なんて魅力的な未来だろう。
けれど――。
わたくしは、ぐっと拳を握りしめた。
カイウス公爵に出会って、わたくしは知ったのだ。
この力が、何かを終わらせるためではなく、何かを始めるための力なのだと。
この力を、自分のためだけに使う?
見殺しにできるほど、わたくしは強くも、冷酷にもなれない。
「……行きます」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、はっきりとしていた。
「わたくしは、行きます。カイウス様」
憎しみや、義理ではない。
わたくしが、この力をどう使いたいか。
答えは、もう出ていた。
「わたくしは、もう誰かの評価に怯える『無能』な令嬢ではありません。この力で、救える命があるのなら――救いたいのです」
わたくしの目を見て、カイウス公爵は、ふっと、柔らかく微笑んだ。
それは、わたくしが今まで見た中で、一番優しい笑顔だった。
「……そう言うと、思っていた」
彼は立ち上がると、壁にかけてあった漆黒の外套を羽織った。
「準備をしろ、エリアーヌ。王都へ行くぞ。お前の本当の力を、愚か者たちに見せつけてやれ」
その声には、絶対的な信頼が満ちていた。
もう、わたくしは一人ではない。




