第3話
わたくしに差し伸べられたカイウス公爵の手は、絶望という名の暗い海から引き上げてくれる、唯一の光に見えた。
けれど、その手を取ることは、わたくしがこれまで生きてきた世界、クライフォルト伯爵令嬢としての全てを捨てることを意味する。
「ま、待て! エリアーヌ! お前、公爵の戯言を本気にするつもりか!」
我に返ったエドワード殿下が、金切り声を上げた。
彼のプライドは、わたくしが他の男を選ぶことなど許さないのだろう。婚約破棄を突きつけた舌の根も乾かぬうちに、その身勝手さには呆れるほかない。
「彼女の行く末は、私が決めることではない。彼女自身の意志が決めることだ」
カイウス公爵は、冷静に言い放つ。
その紫水晶の瞳が、再びわたくしを射抜いた。
『さあ、選べ』と、その目が語りかけている。
すると、群衆をかき分けて、一人の男性がわたくしたちの元へ駆け寄ってきた。
わたくしの実の父、クライフォルト伯爵だ。
「これは一体どういうことですかな、ヴァレンシュタイン公爵! 我が家の『出来損ない』に、何かご用ですかな?」
父の言葉は、氷の矢となってわたくしの胸に突き刺さる。
家族でさえ、わたくしを『お荷物』としか見ていない。
その事実が、ずしりと重くのしかかった。
「出来損ない、か。貴殿の目は節穴らしいな、クライフォルト伯爵。この逸材を前にして、その評価とは」
「なっ……!」
父の顔が怒りで歪む。
しかし、帝国最強の魔術師であるカイウス公爵に、正面から反論できる貴族など存在しない。
もう、迷いはなかった。
わたくしを『無能』と蔑み、価値がないと断じる者たちに囲まれて、これ以上過ごす時間など、一秒たりとも惜しい。
わたくしはゆっくりと顔を上げ、カイウス公爵の大きな手を取った。
軍人らしく、硬く節くれだった指。けれど、その手は不思議なほどに温かかった。
「……お言葉に、甘えさせていただきます。カイウス公爵閣下」
決意を込めて告げると、ホール全体が大きくどよめいた。
エドワード殿下は信じられないといった表情でわたくしを睨みつけ、クリスティーナは扇で口元を隠しながらも、その瞳は勝利の色に輝いている。
父は……わたくしのことなど、もう見ていなかった。
「よかろう。では、行こう」
カイウス公爵はそれだけ言うと、わたくしの手を引いて、人々の間を縫うように歩き始めた。
彼が歩くと、まるでモーゼの奇跡のように、人垣が左右に分かれていく。
誰かが何かを言っている。
嘲笑、憐憫、好奇の囁き。
けれど、もう、どうでもよかった。
繋がれた手の温かさだけが、わたくしの世界の全てだった。
王宮の喧騒を後にし、夜の静寂に包まれた中庭を抜ける。
そこに停められていたのは、ヴァレンシュタイン公爵家の紋章が刻まれた、壮麗な馬車だった。
御者に促され、馬車に乗り込む。
重厚な扉が閉まると、外の世界の音が完全に遮断された。
残されたのは、わたくしたち二人だけの、濃密な沈黙。
やがて、馬車が滑るように走り出す。
その振動に、ようやく自分がとんでもないことをしてしまったのだという実感が湧いてきた。
「あの……公爵閣下。本当に、よろしかったのでしょうか」
「何がだ」
「わたくしのような者を、お城へ招くなど……ご迷惑では」
すると、彼はふっと、初めて口元を緩めた。
それは笑みと呼ぶにはあまりに微かだったが、彼の冷徹な印象を少しだけ和らげるものだった。
「迷惑かどうかは、私が決める。それに、私は嘘をつくのが嫌いでな。貴女の力は本物だ。ただ、誰もその扱い方を知らなかった……それだけのことだ」
その言葉は、乾ききったわたくしの心に、静かに染み渡っていくようだった。




