### Section5-3:「やれやれ、また修羅場かね」
ザカリの剣が俺の首筋に向かった、その瞬間だった。
「やれやれ、また修羅場かね」
どこからともなく、懐かしい声がした。
馬車の天井に、ぽっかりと穴が開いている。そこから白い髭を蓄えた老人が、ふわりと降りてきた。
「フィロさん!」
俺とアリシアが同時に叫んだ。
「久しぶりじゃの、みんな。相変わらず騒がしいことで」
フィロさんがにこにこしながら手を振った。星の刺繍が入った緑のローブが馬車の中でひらりと舞っている。
「フィロ・メイズベルグ……」
ザカリが警戒したように剣を構え直した。
「貴様、なぜここに」
「なぜって、君たちの口論が響いておったからじゃ。『正義がどうの』『秩序がこうの』って、えらく熱心じゃないか」
(どれだけ大声だったんだ俺たち)
「鐘突き鳥が逃げ出すくらいには大きかったかな」
フィロさんがくすくす笑った。
ザカリが中腰のまま、フィロさんを睨んだ。
「邪魔をするつもりか」
「邪魔ではない。仲裁じゃ」
フィロさんが手をひらひらと振ると、馬車の中に淡い光が満ちた。みんなの怒りや殺気が、なんとなく和らいでいく。
「すこし頭を冷やして、話をしてみてはどうかね」
「話をする? 何を話すことがある」
ザカリの声が低くなった。
「この異物は世界の敵だ。排除するのが正義だ」
「ほほう、正義ねえ」
フィロさんがアリシアの縄をほどいてくれた。
「で、ザカリ君。君の言う『正義』とは、具体的に何じゃね?」
「秩序を守ることだ。千年間続いてきた平和を維持することだ」
「その秩序とやらは、人を殺すことで成り立っておるのかね?」
ザカリが黙った。その沈黙が、すべてを語っていた。
「答えにくいかな?」
フィロさんが俺の縄もほどいてくれる。
「では、別の質問をしてみよう」
「君は今まで、『オートモノローグ』持ちを何人殺したかね?」
「……二人だ」
ザカリの声が掠れた。
「一人は……まだ十二歳の少女だった」
(子供まで……)
「そうじゃ、子供まで殺したのじゃな」
フィロさんの声が、わずかに重くなった。
「それが君の言う『正義』かね?」
「そうだ」
ザカリが歯を食いしばった。
「それが……俺の正義だ」
「では、その正義が『間違っていた』としたら、どうする?」
「間違っているはずがない」
「ほう、なぜじゃ?」
「俺がやってきたことが間違いなら……」
ザカリの手が震えた。
「俺は……俺は一体何だったんだ」
あ、この人、本当は分かってるんだ。
「本当は分かっている、か」
フィロさんが頷いた。
「ザカリ君も、心の底では疑問に思っておるのじゃな」
「疑問など……」
「では、なぜナユタ君を三日間も生かしておいた?」
ザカリがギクリとした。
「以前の『オートモノローグ』持ちは、発覚と同時に処刑したと聞いておるが?」
「それは……」
「迷ったからじゃろう? 本当にこれで良いのか、と」
アリシアが口を挟んだ。
「ザカリさん、あなたは本当はいい人なのよ」
「いい人? 俺が?」
ザカリが苦笑いした。
「子供を殺した俺が、いい人だと?」
「命令に従っただけでしょう? あなたが好きで殺したわけじゃない」
「だが、結果は同じだ」
「結果は同じでも、気持ちは違うわ」
アリシアが立ち上がった。左肩の傷が痛むはずなのに、しっかりとザカリを見つめている。
「あなたは今も苦しんでるもの。それが証拠よ」
(アリシア、すごいこと言うなあ)
「ナユタだって、あなたのこと分かってる」
「分かっているって……何を?」
「あなたが本当は、人を殺したくないってこと」
ザカリの表情が、わずかに揺らいだ。
「だから迷ってるんでしょう? 『これで本当に正しいのか』って」
「……そんなことはない」
「そんなことあるわよ」
アリシアが手を差し出した。
「あなたの手、震えてる」
確かに、ザカリの手は小刻みに震えていた。剣を握る手も、声も、すべてが震えている。
「これが……俺の正義だ」
「震える正義なんて、正義じゃないわ」
フィロさんが静かに言った。
「ザカリ君、正義とは何だと思う?」
「……秩序を守ることだ」
「では、その秩序が『無実の者を殺すこと』を要求したら?」
「それでも……」
「本当にそれでも、かね?」
ザカリが黙った。
「正義とは、他人から押し付けられるものではない」
フィロさんが窓の外を見た。
「自分の心が『これは正しい』と信じられるもの。それが本当の正義じゃ」
「だが、それでは秩序が……」
「秩序のために無実の者を殺すのと、無実の者を救うために秩序を変えるの」
アリシアが問いかけた。
「どちらが正しいと思う?」
ザカリが答えられずにいる。
(この人も、本当は分かってるんだ。ただスキルを持ってるだけで殺されるのが間違ってるって)
「ナユタ君の言う通りじゃ」
フィロさんがにっこりした。
「ザカリ君も本当は分かっておる。ただ、認める勇気がないだけじゃ」
「勇気って……」
「これまでの自分を否定する勇気じゃよ」
フィロさんがザカリの肩に手を置いた。
「君は二人を殺した。それは事実じゃ。変えることはできん」
「だが、三人目を殺さない選択はできる」
ザカリの剣が、ガタガタと音を立てて震えた。
「それが……正義なのか?」
「君が決めることじゃ」
フィロさんが静かに言った。
「他人の決めた正義に従うのか、自分の心の正義に従うのか」
ミラが震え声で口を開いた。
「あたしも……間違ったことをしました」
「ミラさん……」
「でも、ナユタさんは許してくれた。『仕方なかった』って」
ミラの頬に涙が流れた。
「だから、きっと……間違いを正すことはできるんだと思います」
馬車の中が、静寂に包まれた。
ザカリが剣を下ろした。
「俺は……何をすればいい?」
「君の心に聞いてみることじゃ」
フィロさんが微笑んだ。
「『本当に正しいこと』は何なのか」
ザカリがナユタを見た。次にアリシアを見た。最後にミラを見た。
「俺は……」
長い、長い沈黙の後。
「分からない」
ザカリが膝をついた。
「俺は、もう何が正しいのか分からない」
「分からないのは、悪いことじゃない」
俺が言った。
「分からないから、一緒に考えればいいじゃないですか」
「一緒に?」
「はい。俺だって、正しいことが何なのかよく分からないし」
(でも、少なくともスキルを持ってるだけで殺されるのは間違ってると思う)
「少なくともスキルを持っているだけで殺されるのは間違っている……」
ザカリが呟いた。
「そうだ。それが出発点じゃ」
フィロさんが頷いた。
「そこから始めて、本当の正義を見つけていけばよい」
アリシアが手を差し出した。
「一緒に考えましょう、ザカリさん」
ザカリが、恐る恐るその手を取った。
「俺のような人間でも……許されるのか?」
「許されるかどうかは分からない」
俺が正直に答えた。
「でも、これから正しいことをしようとするなら、それでいいんじゃないですか」
「これから正しいことを……」
ザカリの目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう」
その言葉が、馬車の中に静かに響いた。
正義とは何か。
その答えは、まだ誰にも分からない。
でも、一緒に探していけばいい。
そんな希望が、馬車の中に生まれていた。