孤独という病、或いは死に至る其れ
きっとお心当たりがありますでしょう。ご愁傷さまでした。
人の愛など不要だと思っていた、若い自分を恥じた。
手遅れになって今更、それを求めても手に入らないことに気がついた。与えられていたことのなんと幸運で幸福なことだったか。
若い頃の自分は気にしいだった。世間体を気にして、周囲からの目線を気にして、流行を気にして、内心おどおどとしながら余裕そうに振る舞う自分が格好いいと思っていた。
だからだろう。異性から想いを打ち明けられることはあってもそれを受け入れたことはなかった。それが格好いいと、「今、目の前の物事に熱中している自分」に酔っていた。
断り方はいつもこうだ。
「ごめん。今はもっと熱中してることがあるんだ」
悪く言えば、それ以外を冷たくあしらう冷酷人間――見た目が良いだけで近づいてはいけないと影で忠告される人間である。
学生時代はずっと“そう”だった。
仕事は何の変哲もないものだった。勿論始めた時は苦痛だった。
「今まで流行の最先端を走っていた自分がなぜこんな仕事を」
と考えていた。
しかし流行を追いかけている、というのは熱しやすく冷めやすい、ということである。
打っても響かないそれは、憧れていた煌びやかな職業にはまるで向かない、流行りと称されるものをただ喉に押し込まれるだけの雛鳥である。
しかし割り切ってしまえば、流行に流されるまま生きてきた自分とこの仕事はよく合った。就職の相談に乗って頂いた先生には感謝しかない。曰く、
「お前が続けられるのは、多分こういう仕事だと思うよ」
なるほど、多くの生徒を見送ってきただけの事はある、と感心したものだ。
そうして働いて三十も過ぎて給料も上がった頃、はたと気付いた。自分には交際経験がなかったと。
機会なら幾らでもあった。過去、想いを打ち明けてくれた何人かの人達。
あの時気が向いていれば。あの時、少しでも相手に興味を持っていれば。
想いをぶつけてきた人の顔が思い出せない。名前は、声は、性格は。
何も思い出せない。思えば激流の如く移り変わる新しいものに目を向けるのに必死で、あの時友人や仲間と呼んでいた人々の顔すら思い出せない。
途端に寂しくなった。気がついてしまった瞬間、心に隙間風が吹いたような気がした。
いいや、気の所為ではない。この穴はずっと空いていたのだ。それが、自分が動いていた所為で気付けなかっただけなのだ。
気付いてからは、この穴を埋めるものを探した。流行りの音楽、漫画、服、本、その他諸々。あの時手に入れられなかったものが、こんなにあっさりと手に入る。なにせ仕事を始めてからこれといった趣味などなかったのだ。あの時足りなかった「金」という資源が今は好きなだけある。
だのに、どうしてこんなにも虚しいのか。欲しいものを欲しいがままに買い揃え、あの時喉から手が出るほど欲しがったものですら手に入った。それでもこの隙間風は止まない。この胸の穴を埋められない。
畳んでなおも部屋の隅にうず高く積み上がった紙箱の影が妙に暗く見えて、それがじわじわと自分を蝕むような気がして慌てて捨てようと外に出た。
集積所に置きに行くだけの道が遠く見えた。大量の紙箱を抱えた自分の姿が滑稽に思えた。薮の影が、街路樹の葉の隙間が、家と家の小さい隙間が、電柱の裏の影が、自分の姿を笑っているような錯覚を見て逃げるように歩く。目的地はいつも通り近かった。
集積所に箱を投げ捨て、一息ついた。落ち着けば、街路樹も薮も、何ということは無いただのいつもの風景だ。安堵して口から出た溜息が、背後から躙り寄る影をまた浮き彫りにした。自分が捨てた箱から、お前のこれまでは空虚だと笑われているように思えた。
「そんなわけ、ないだろ」
振り返って大きい声を出した。ちょうど通りかかった主婦がびくりとこちらを見た。気まずい空気が流れ、曖昧に苦笑いしながらそそくさとその場を去った。
怪しいものを見る目で自分を見るその人の視線が、また至る所から注がれている気がした。藪の中、木の葉の影、電柱の裏。いや、それだけではない。今や側溝の下やマンホールの隙間からですら、この視線が注がれているのだ。
それからはもう無我夢中だった。アニメやゲーム、アイドルなどのサブカルコンテンツから、宗教にまで手を出した。
買い漁り、遊び尽くし、拝み、なんとか目を逸らそうとした。
どれも上手くいかなかった。一瞬ならばいい。どれも強い光と酩酊感で、薄暗い影を忘れさせてくれる。だが、それまでだ。終わってしまえばまた夜の暗闇が自分を襲い、寂寞に苛まれる。朝が来ても、無数に並べられた雑多なグッズの影や部屋の隅から暗いところに引きずり込もうとする手が伸びてくる。
塞ぎ込むとよくないと分かっていても、そうしないと入り込む隙間風に心が凍えてしまいそうになる。
今の自分こそ滑稽だと、もう錆び付いてしまったボルトに嵌め込むナットを探しているのだと嘲笑する自分がいた。
生き急ぎ、しかし心のどこかでは分かっていた。これを埋めるものは人間なのだと。自分を愛してくれる人なのだと。
若い頃に鼻で笑って爪弾きにした愛とやらが、今更になってたまらなく恋しくて仕方がなかった。そうして求めようと手を伸ばしかけ、ふと過去の自分のプライドが顔を出す。
「あの時大丈夫だったんだ。これからだっていらないだろ」
強がりだ。分かっている。それなのにあの時告げられた想いを笑って振った自分の像が拭いきれない。捨てたのに求めるのは格好悪い、と格好付けた自分がヘラヘラと薄ら笑いを浮かべて言う。
そうして結局、変えられないままだった。
きっかけは、祖父の葬式。往生した祖父の安らかな死に顔を棺に見た時、祖母がぽつりとこぼした言葉。
「じいちゃんね、あなたががちゃんと人付き合いできてるかずっと気にしていたんよ。自分に似て強情なとこあるからって」
優しく撫でていったその言葉に、錆ついた胸の穴がジャリジャリとうずく。
「急かしたりするのもよくないって思ってたんだけど、仕事一筋じゃ人間壊れちまうよ」
様々なものでごった返した自分の部屋が頭をよぎる。ああ、そうか。そうだったのか。
「ばあちゃん。……ごめん」
「……? 分からないけど、いいんだよ」
よく分かっていない祖母を置いて、親は親戚たちの近くにいたため何も言わずに離れた。
そのまま式場を後にする。最寄りの駅までどうやって歩いたのか覚えていない。
――人身事故の影響により、列車に遅れが――
茫然自失な自分の耳に飛び込んでくる暗いアナウンス。自宅までは数駅だったので歩くことにした。
街中を歩くと飛び込んでくるチカチカとした街頭広告。ギラギラとしたパチスロ店。扉が開くと漏れてくるガヤガヤとした声の出処はゲームセンターだろうか。
スマホが鳴り、見てみると親からの電話だったが無視して帰路を歩いていく。
ダイエット、ゲーム、クレジットカード、クリニック、ファストフード。喧しい広告がどれもこれもビカビカと喚いている。
車のクラクションと、カンカンと踏切の鳴る音。電車が動き出したようだ。ガタゴトと音を立てて通り過ぎる電車を無感情に見つめ、踏切を渡る。
しばらく歩き、ドアノブに手をかけてドアを開ける。薄暗い暗闇が足元へ流れ出してくる。引き寄せられるように中へ入り、バタンとドアを閉めた。
途端に静寂が訪れ、忙しない街の喧騒が遠い昔のように感じられた。部屋は外より3度も4度も低く、シンクの洗っていない食器に落ちる水滴がただ響くだけだった。
ノロノロと靴を脱ぎ、揃えもせずに部屋に入った。出迎える煌びやかなフィギュアやCDや、宗教やアイドルのよく分からないグッズたち。
もうたくさんだ。
天井に吊り下げられたライトを外し、ダンボールをまとめていたプラスチックの帯をかける。
縛り方など知らなかったため、ひっきりなしに着信が来るスマホで調べながら結びつけた。
そうして椅子に立って、なんの躊躇もなく首に掛ける。
勢いを付けた方がいいんだっけ。
無感情にそんなことを考えたら、手足が震えていることに気が付いてしまった。
怖い。怖いさ。怖いとも。だけど、このまま不安を抱えて生きていくのはもっと怖い。孤独になってしまったことに気付いたまま生きていくことがたまらなく怖い。病んで錆び付いてしまった自分を、誰も助けてくれないという事実が何よりも怖い。
並べられたフィギュアの目線が、積まれたCDの影が、祭壇の写真が、本棚の隙間が、パソコンの真っ暗なモニターが背中を押す。
早く行け、早く、早く、早く、早く、早く、早く。
焦る気持ちが呼吸を早くする。急かす気持ちが足を踏み外させる。
震える足が椅子の端に追い詰められ、靴下を履いたままの足が滑る。
勢いが付けられず気道が締まる。もがいても首は括られたまま、天井がギシギシと音を立てるだけ。
「た、だす、け゛」
無様に藻掻き、今更口から出た情けない懇願。
「……。」
勿論、それに応える声などあるはずはなかった。
連載中の作品を放置していて申し訳ございません。仕事が多忙でなかなか続きもののキャラが動かず、こうして短編の書き溜めのみが溜まっていく状況にございます。
放棄した訳ではございませんので、更新した暁にはまた見ていただけると幸いに存じます。
また、この作品は別名義・別サイトにて一度投稿したものとなります。