人間関係のトラブルを避けるために、気が済むまで家にいることにした
どんなに気を遣っていても、人と関わるとトラブルが起きる場合がある。嫌な気分になる時は、いつも人の存在が近くにある。みんな意思を持っている人間だから、そもそも上手くいく方が珍しいものなのかもしれない。
転職して一週間で、早くも仕事を辞めたくなった私は、人生に絶望していた。生きていくためには、絶対に人と関わらなくてはいけない。結局、今の会社も辞めたら、またどこか新たな働き口を探さなくてはならない。
仕事内容が自分に合っていても、人間関係が上手くいかなければ、会社に行きたくなくなる。
今回の転職先は、工場の事務だった。先輩の立花さんは意地の悪い人だった。
仕事でわからない部分があったから質問したのに「聞く前に自分で考えて」と突っぱねるような人だった。すんなり教えてくれることがなく、呆気に取られてしまった。
仕方ないからと別の先輩に質問したら、幸い、優しく教えてくれた。
しかし、「私に恥をかかせやがって」と言わんばかりに、立花さんは私に露骨に冷たくなった。
きっと嫌われてしまったのだろう。毎朝、挨拶だけは私の方からしようと心がけていても、今日は露骨に無視をされて心が折れた。
私は気付いてしまった。ストレスなく生きるためには、部屋にずっといる生活を送り続ければ良いのではないかと。さすがに一生は無理だけど、幸い今の私には一年無職でも困らない貯金がある。
限界まで、自分の気が済むまで、一人で過ごしてみようと考えた私は、今の会社を辞めることを決意した。体調不良を理由に、会社を辞めたい意思を伝えたら、即日退職が叶った。
その日、私は一週間は外に出なくて良いように、食品を買いだめした。
私の、これから送ろうとする一日のスケジュールはこうだ。
朝の11時に起床。12時前後に、朝昼を兼ねた食事をとり、18時までボーっとする。そこから簡単な家事を済ませて、お腹が空いたら夜ご飯を食べて、24時には寝る。この生活を、自分の気が済むまで続けることにする。
1〜2日目は、スマホを見て時間を潰すことが多かった。しかし、SNSでは常に誰かと誰かが争っていたり、友達のキラキラした投稿を見て具合が悪くなったりした。
人と関わるのが嫌で家にいるのだから、スマホを通じて人と関わるのも無しだと思い、電源を切ることにした。
情報を取り入れない毎日は、新鮮だった。何かを見て動揺することもなく、自分の世界に浸ることができた。
まず、仕事の人間関係のストレスから解放されたのは良かった。
朝は、優雅に起きることができた。チュンチュンとスズメの鳴く音にまで、しっかりと意識を向けられた。
アパートに差し込む太陽が眩しくて、思わず泣いてしまったこともあった。こんなにも、身近には見過ごしていたものが多かったなんて。
1分1分時間が過ぎるのが遅く、贅沢な気分を味わえた。
しかし、それも4日が限界だった。
何も文字を見ない生活は、人間関係のストレスとはまた違う、ストレスが溜まった。カップラーメンの原材料を食い入るように見る自分に気付き、薄ら笑いをした。「メンマパウダー」って何だろうと、10分くらい本気で考えていた。
人と関わらない生活は確かに楽だった。しかし、何も刺激がなくて、上手く息が吸えなくなった。
生活に変化がないと、退屈になる。何もしない状況が続くと、過去の記憶を引っ張り出して、自分が自分に擬似体験させようとしてくる。
人生で起こった嫌な出来事が次々に頭の中に浮かんだ。ある人から自慢されたり、ある人から悪口を言われたり、他者からすると取り留めない出来事だった。しかし、本人からすれば腹が立つ事実だった。
それもすべて終わったことと思えば、幾分気持ちは和らいだ。
驚くことに退屈している状況よりも、何かを考えて怒っている時の方が、人生は充実しているように感じられた。
私は退屈から逃れたかった。今思えば、仕事のストレスこそ、私を楽しませてくれる娯楽の一つだったのかもしれない。そんなことを考えてしまう自分にもゾッとしていた。
私は辛抱たまらず、スマホの電源をオンにした。家族や友達からはLINEが来ていた。内容はなんてことないものだった。
お母さんからは庭で育てている花の写真とともに「きれいです」という日記風のメッセージが届いていた。
友達の夏海からは「前に言ってた、激安の通販サイトのURL送って」というメッセージが届いていた。
さらに、以前職場が一緒だった西村さんからは、ツムツムの招待LINEが届いていた。
私は、人とのコミュニケーションに飢えていた。
お母さんからのLINEも普通であれば鬱陶しいのに、「本当にきれいだね。なんて花?」と質問していた。
夏美のLINEには、通販サイトのURLを送った後、「今週末遊ばない?」とメッセージを送っていた。
西村さんのLINEは既読スルーするのが一番良いのに、何を血迷ったのか、私はスタンプを送っていた。
ストレスフリーの生活を送っていたら、かえって自分を苦しめることになるなんて思わなかった。
遠くの方で暴走族のバイクの音が聞こえた。私の何もない世界をかき乱してくれた気がして嬉しかった。
私はそのうち、きっと働いてしまうだろう。嫌な気持ちになっても、退屈を経て、不思議と何かを始めたいと感じるだろう。
日々のストレスも、見方を変えれば、私を救ってくれている出来事なのかもしれない。
ピコン。LINEの通知が鳴った。確認すると、西村さんがスタンプにスタンプを返してくれていた。
宇宙人が指をこちらに突き立てている、個性的なスタンプだった。もう、このまま既読無視するのが普通なのに、私は相手に合わせてUFOの LINEスタンプを返した。
誰かと話したい。欲求に逆らえず私は、匿名で電話ができるアプリを入れた。プロフィールを適当に作成して、『通話をする』ボタンを押す。
誰かと繋がった瞬間、「こんにちは」と私から声を出していた。
お願い。返事をしてくれますように。お願い。私とコミュニケーションを取ってくれますように。
「えぇ、女?」
ぶっきらぼうな返しをされた。私と同じように高い声である、その「女性」は、私が出たことに驚いているようだ。
そんな悪態すら、退屈な私の世界を輝かせてくれた。