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【短編集】恋愛色強め

竜人さまは、その運命を愛している

 満月のとても綺麗な夜だった。ノナは誰に伴われることなく、一人膝を抱え、夜空を映した湖を見つめている。



(ここに来られるのも、今夜が最後ね)



 湖の表面で月が、まるで宝石の如く輝いている。風一つ吹かず、悠然とそこに浮かぶ月。手を伸ばせば己のものに出来そうな、そんな気分にさせられる。



(愚かな願いだと分かっているけれど)



 仮に手に入ったとして、それが彼女のものになることは決して無い。

 ノナは眉間に皺を寄せ、小さくため息を吐いた。目を瞑ると、白いウエディングドレス姿の姉が目に浮かぶ。


 姉のベルは、今日結婚式を挙げた――――ノナの元婚約者、フィデルと共に。


 本当ならば、あのドレスを着るのはノナの筈だった。フィデルの隣で微笑むのも、祝福を受けるのも、全てノナの筈だった。けれど、そんな現実は存在しない。


 かわりに明日、ノナは後宮に入内する。

 入内と言うと聞こえは良いが、現皇帝は御年六十を超える上、後宮には既に百を超える妃が存在する。現皇帝が存命中は決して後宮を出ることは出来ないし、崩御後は修道院に送られることが決まっている。

 生まれ育ったこの屋敷に帰ってくることも、この湖を見ることも、二度と叶いはしない。



(家に未練は無いけれど)



 両親はいつも、姉のベルばかりを可愛がっていた。ドレスだろうが宝石だろうが、欲しいものは何でも与え、姉が何度婚約を破棄しても、楽しそうに新しい婚約者を見繕ってくる。

 その反動か、ノナには何も与えなかった。唯一与えられたのが、元婚約者のフィデルで、それだって貴族の体面を保つために仕方なく宛がったというだけだ。



『ノナは俺が幸せにするよ』



 何処からともなくそんな声が聞こえてくる。ノナは哀し気に微笑みつつ、膝をギュッと抱えた。

 フィデルはとても優しい人だった。家族から迫害されているノナに愛情を注ぎ、温かく包み込んでくれた。好きだと――――幸せにすると言ってくれたからこそ、今日まで耐え抜くことが出来たのに。



(考えても仕方がないことね)



 ノナには運命に抗うだけの気概がない。身投げをすることも、ここから逃げ出すことも出来ないのだ。

 ただひたすらに、己に繋がっている運命の糸を紡ぎ続けるだけ。たとえその糸が、彼女自身の幸せに繋がっていなくとも――――。



「――――――ノナ」



 その時だった。聞きなれぬ声がノナの名を呼ぶ。透き通った水のような、清涼で静かな男性の声だった。声はノナの上方――――湖の方から聞こえる。

 顔を上げれば、そこにはこの世のものとは思えない、美しい男性が浮かんでいた。

 白銀の長髪、エメラルドのように神秘的な輝きを秘めた瞳、陶器のような白い肌に、品よく整った目鼻立ち。金糸の刺繍が施された豪奢な衣はゆったりとしているものの、引き締まった身体つきをしているのが分かる。そして、男性の頭のてっぺんには、左右に大きな角が生えていた。



(人間じゃ、ない)



 仮に角が無かったとしても、彼が人間でないことは一目瞭然だった。月明かりを一心に浴びた男性は神々しく、そのあまりの美しさに、ノナは息をすることも忘れて見入ってしまう。

 男性はふわりとノナの側に降りると、彼女に向かってそっと手を差し出した。真剣な眼差し。思わずノナも手を差し出す。



「きゃっ」



 その瞬間、ノナの視界がグンッと大きく揺れ動いた。次いで、大きくて冷やりとした何かが、ノナの瞳を優しく覆う。波間を揺蕩うような浮遊感と、風を切るような爽快感が身体を包む。



「え……?」



 目を開けると、先程までそこにあった筈の湖が無くなっていた。ほんの数秒しか経っていない筈なのに、闇夜に浮かぶ月も、十八年間暮らしてきた屋敷も、何もかも――――そこにある筈のものがない。

 代わりに柔らかな陽光と、色とりどりの花々がノナを包む。驚きに目を見開けば、男性が頭上で微笑む気配がした。



「あの……ここはどこでしょう?」



 尋ねつつ、ノナは自身が男性の腕に抱かれていることを自覚する。宝物に触れるかの如く丁寧にノナを抱え直すと、男性はゆっくりと歩き始めた。



「これから君が暮らす場所だ」



 どこか淡々とした口調だが、笑顔は柔らかく、温かい。ノナは目を丸くしつつ、ゆっくりと前を向いた。目を凝らせば、霞の中にひっそりと隠れるように、大きくて荘厳な建物が見える。小さな宝石を幾つもちりばめたような白く輝く石造りの柱に、紋様の刻まれたエメラルド。誇りと威厳を塗り固めたような佇まいに、ノナは思わず息を呑む。



「あの……自分で歩きますから」



 途端に気恥ずかしくなって、ノナはそっと身体を捩った。けれど、男性は先程よりも腕に力を込めると、しっかりとノナを抱え直す。



「そう言ってくれるな――――ようやく触れることが出来たのだ」



 そう言って男性はうっとりと目を細める。男性はノナの頬を撫でながら、花が綻ぶような笑みを浮かべた。



(一体、どういうことなのでしょう?)



 どうやらノナは、これまで居た世界とは別の世界に連れて来られたらしい。

 人違いでは?と思ったものの、男性はハッキリとノナの名前を呼んでいる。



(こんな美しい方、一度お会いしたら忘れる筈がございませんのに)



 そうこうしている内に、男性は建物の中へと進んでいった。上品な衣に身を包んだ従者らしき人々が、恭しく頭を垂れて二人のことを出迎える。ノナはほんのりと目を丸くしつつ、彼等のことを覗き見た。



(パッと見た感じは、人間とそこまで変わらないけど)



 姿かたちは同じでも、醸し出すオーラは人間のそれとは違っている。ノナを抱く男性ほどではないが、彼等からも神がかった何かを感じ取っていた。




「ここがノナの部屋だ」



 そう言って男性は、ノナをソファの上へと下ろした。温かな色合いの調度類に囲まれた、とても広い部屋だ。大きな窓からは庭園に咲き誇る花々を楽しむことが出来るし、柔らかな陽光が燦々と降り注ぐ。実家では日の射さない奥まった小さな部屋を宛がわれていたのだから、その差は歴然である。



「あの……わたくしまだ、自分が置かれた状況がよく吞み込めていないのですが…………」



 躊躇いがちに、ノナはそう口にする。

 男性はノナの隣に腰掛けると、彼女の手をゆっくりと包み込んだ。冷たいが、大きな手のひらだ。ノナはひっそりと息を呑みつつ、男性のことをおずおずと見上げる。宝石のような美しい瞳が、真っ直ぐにノナを見つめていた。



「ノナ――――君は私の運命の(ひと)なんだ」



 男性はゆっくりと、噛みしめるようにそう口にする。ノナは思わず数回、目を瞬いた。



(運命……?)



 怪訝な表情のノナに、男性はふっと柔らかな笑みを浮かべる。



「私はエーリヴァーガル。君達の言葉を借りれば『竜』という生き物になる」


「竜……でございますか」



 ノナはほぅと息を呑みつつ、目の前の男性をまじまじと見つめた。

 人外の生き物だろうという予想はしていたが、龍とは思わなかった。神様、という言葉の方が寧ろしっくりと来る。



「どうかエーリと……気軽にそう呼んで欲しい。私は君の、夫になるのだから」



 そう言ってエーリは縋るような表情を浮かべた。ノナは目を丸くしつつ、ほんのりと首を傾げる。



(良いのでしょうか? わたくし、明日には入内する身でしたのに…………)



 言葉にするか迷いつつ、けれど己の胸の内に留めて、ノナは小さく頷いた。



***



「どうぞ楽になさってください、ノナ様」



 それは、こちらに連れてこられてから三日後のこと。ノナは、エーリの同僚の妻から、お茶会へと招待された。



「本日はお招きいただき、ありがとうございます、パロット様」



 女性は名をパロットと言い、真っ白な翼を背中に持つ、小柄な女性だった。美しい金髪も相まって、まるで天使のように見える。



(わたくしもエーリ様のお側に居たら、あんな風に翼が生えてくるのかしら?)



 そんなことを考えながらパロットを見ていると、彼女はノナの考えていることが分かったようだ。ふふ、と小さく笑いながら、ノナの顔を覗き込んだ。



「残念ですが、ノナ様には翼は生えてきませんわ。私は元々、鳥でございますから。この翼はその名残なのです」



 そう言ってパロットは朗らかに笑う。ノナは小さく息を呑みつつ、両手を合わせた。



「鳥……でございますか?」


「ええ。ビックリしましたでしょう? けれど、それが事実なのです」



 本人が言う通り、俄かには信じられない話だ。パロットはノナと同じ言語を話すし、見た目だって翼以外は人間のそれと同じである。パロットの方からノナがどう見えているかは分からないが、何とも不思議な現象であることには変わりなかった。



「私もね? ある日突然、旦那様にこちらの世界へ連れてこられたのです。私は旦那様の『番』だから、ってね」


「番?」



 首を傾げるノナに、パロットはコクリと頷く。



「竜という生き物には、運命に定められた『番』というものが生涯に一人だけ存在するのだそうです。番とは即ち己の半身。それは竜同士であったり、私のように鳥や犬猫と言った獣、魚、ノナ様のような人間であったりと、実に様々で。本能として身体に組み込まれたものですから、相手がどんな生き物、態様であっても、愛さずには居られないそうですよ?」


「そう、なのですね……」



 これまた何とも信じがたい話だ。ノナは大きく目を見開いた。



「私も……初めてお会いした時には、身体がおかしくなったんじゃないかと思いましたわ。この人は私の求めていた御方だって、身体が先に理解したのです。旦那様は私が成人するまでの間、じっと待ってくださっていたそうなのですが、確かにあの衝撃は、子どもの頃には受け入れられなかったのではないかと思いますの」



 ノナはほぅ、とため息を吐きながら、何度も頷く。



(なるほど……そういうことだったのですね)



 エーリはノナをとても大切にしてくれた。優しい言葉、真心のこもった贈り物、温かな笑みで、ノナを包み込んでくれる。それが本能に組み込まれた行為だというのなら、唐突に思えた誘拐劇にも納得が出来る。

 元々、ノナ自身は入内を望んでいたわけではないし、美しく優しいエーリに妻として愛された方がずっと幸せに決まっている。しかも、感情等と言う不安定なものが理由でないなら安心だ。人は簡単に嘘を吐くし、感情というものはいとも簡単に揺らぐ。



『ノナは俺が幸せにするよ』



 かつてノナに向かってそう言った元婚約者は、今や姉の夫だ。もう二度と会うことも無いけれど、ノナが深く傷ついたことには変わりない。



(だけど…………)


「私ね、旦那様に見つけていただけて良かったと、心からそう思うのです」



 その時、パロットが徐にそんなことを言った。ノナは居住まいを正しつつ、彼女のことをまじまじと見つめる。



「竜の寿命は500年。鳥としての私の寿命は長くて10年でございました。

もしもその10年の間に旦那様が私を見つけてくれなかったら――――旦那様は残りの生をたった一人で生きなければならなかったのです。あんなにも愛情深く、寂しがりやな旦那様が、たった一人きりで……そう思うと、運命の女神さまに感謝せねばならないなぁと。良かった、と思うのです」



 パロットはそう言って嬉しそうに手を合わせる。ノナは小さく目を見開きつつ、穏やかに微笑んだ。



***



「こちらでの生活には慣れてきた?」



 それは、その日の夜のこと。仕事を終えて戻って来たエーリが、穏やかな笑みを浮かべてそう尋ねた。



「はい。皆さまとても良くしてくださいますし、楽しいです」



 エーリはノナを手招きすると、自分の隣へと座らせる。そのままギュッと肩を抱き、身体を添わせた。



「――――私との関係は?」



 その瞬間、ノナの心臓がドクンと大きく跳ねた。

 ノナはまだ、正式にエーリの妻となったわけではない。突然異世界に連れてこられ、気持ちの整理が付いていないだろうからと、エーリが配慮をしてくれたのだ。



「どう……なのでしょう?」



 慣れたか慣れていないかで言えば、まだ慣れていないという言葉がしっくりくる。エーリの言葉や行動、ちょっとした触れ合いに、いちいちドキドキしてしまっているからだ。

 けれどノナには、それが愛情から来るものなのか、未だハッキリとは口に出来ない。辛い時に手を差し伸べられ、気持ちが救われたのは確かだが、それを愛と呼ぶのはエーリに対して失礼な気がしていた。



(それに…………)


「早くノナを私の妻にしたい」



 そう言ってエーリはノナを後から抱き締める。肩口に唇を寄せられて、ノナの背筋がゾクゾクと震えた。



「そっ……そういえば今日、パロット様に『番』について教えていただきましたの」



 思わずノナはそう口にする。この甘ったるい雰囲気を少しでも和らげようと思ったからだ。



「『番』について?」



 効果はてき面だった。エーリは首を傾げつつ、眉間にそっと皺を寄せる。



「はい。わたくしはエーリ様の番なのでしょう? 初めてお会いした時、わたくしを『運命の女』だと仰っていましたものね」



 そう言ってノナはエーリを仰ぎ見た。エーリはノナをギュッと抱き締めたまま、神妙な面持ちを浮かべている。



「――――この世には本当に、運命が定める恋が存在するのだなぁと、わたくし感心しましたの。ずっとずっと、旦那様がわたくしをここへ連れてきた理由が不思議でしたから」



 ノナはそう言って目を細めた。


 ノナは選ばれなかった子だ。親からも、元婚約者からも、誰からも選ばれず、必要とされなかった。

 それなのに、エーリはノナを攫った。ノナを運命の女だと――――必要だと言って。そのことがノナの心を優しく、激しく揺れ動かす。



「ノナは私の運命の(ひと)だよ」



 そう言ってエーリは、甘えるように頬擦りをする。

 番――――それは、決して切れることのない、運命の糸のようにノナには感じられた。縋っても切れることは無く、少し手を離したところで、またすぐに手繰り寄せられる――――。



(運命なら、お姉さまに奪われることも無い)



 哀し気に微笑みつつ、ノナはゆったりとエーリに身体を預けた。



***



 それから一か月後のこと。

 エーリが仕事で人間界に出ると言うので、ノナも一緒に付き添うことになった。



「ノナが居ないと寂しいし、私のエゴで突然、こちらに連れてきてしまったからね。もしも心残りがあるならば、この間に果たしてしまうと良い」



 そう言ってエーリは優しく笑う。

 けれどノナはここに来て初めて、人間界に未練がないことに気づいた。



(父にも母にも会うわけにはいかない)



 本当ならばノナはエーリに攫われた翌日、後宮に入内をする筈だった。恐らくはノナが急に居なくなったことで、父も母もカンカンに怒っている筈だし、見つかればきっとただでは済まない。仮にそうなったとして、エーリが守ってくれるだろうが――――。



「わたくしは滞在先で、大人しくしています」



 そう言ってノナは穏やかに笑う。エーリは目を細めると、ノナの頭を優しく撫でた。



 二人の滞在先は、山奥にある湖の中だった。そこには、本邸に負けず劣らずの立派な別邸が存在している。本邸が花々に囲まれた華やかな宮であるのに対し、別邸は優美で上品な佇まいだった。

 湖の中でも不思議と呼吸は苦しくなく、視界もハッキリとしている。未だ夫婦になっていなくとも、そういった力はきちんとノナに受け継がれているらしい。



 エーリを仕事へと送り出してから、ノナは大きく息を吐いた。



(まさかもう一度、この世界に戻って来るなんて……)



 元々入内をすれば、二度と外には出られない筈だった。後宮はきっと、エーリ達と暮らしている世界よりも、余程狭い。完全に籠の中の鳥になる筈だったというのに、運命とはどこでどう転がるか分からない。



「ノナ……」



 その時だった。

 懐かしい声音がノナの耳に届いた。ドクンと大きく心臓が跳ねる。



(この声……)



 ノナは大きく目を見開きつつ、そっと頭上――――湖面を見つめる。



「ノナ――――――」



 間違いない。ハッキリと己の名前が呼ばれていた。



(フィデル様……!)



 それは、ノナの元婚約者であり、姉であるベルの夫、フィデルの声だった。ノナは戸惑いつつも、そっと湖面目掛けて浮上する。ゆっくりと波を立てないように――――フィデルからはこちらが見えない位置に佇むと、ふいに大きなため息が聞こえてきた。



「君を幸せにするって約束したのに――――」



 深い悔恨の滲む声音。フィデルの眉間には皺が寄り、今にも涙が零れ落ちそうだ。



「――――あなた、またこんな所に居たの?」



 けれどその時、高く冷ややかな声が響いた。ノナの心臓がまた、大きく跳ねる。顔を見るまでもない。姉のベルだ。



「こんなところで嘆くなんて――――馬鹿みたい! ノナはもう死んだのよ? あなたが裏切ったから――――あなたが私を選んだから、絶望して、湖に身投げしてしまったの」


「違う……違う! 僕はノナを裏切ってなんかいない。僕は……僕の心はノナだけのものだ。両親の手前、君との結婚を断れなかったのは事実だが――――いつかきっと、後宮にノナを迎えに行こうと思っていた。そのために功績を残そうって……」


「はいはい! 口では何とでも言えるわ。その結果がこれよ? ノナは二度と戻ってこないわ。あなたは私の夫なの。私を愛さなければならないの。いい加減現実を見なさい?」



 二人は顔を歪めたまま、言葉の応酬を続ける。



(フィデル様が、今でもわたくしを想ってくれていたなんて)



 けれど、ノナはちっとも嬉しくなかった。どんなに想っていても、行動が伴ってなければ意味はない。

 それに、彼はノナとの婚約が破棄された時、何一つ言葉を掛けてはくれなかった。あの瞬間、フィデルは口先ばかりで、本当はノナのことを愛していなかったのだと思い知ったというのに――――。



(エーリ様)



 ノナは心の中でエーリを呼ぶ。何故だか、無性にエーリに会いたかった。目頭が熱く、酷く息苦しい。

 その時だった。



「きゃっ!」



 悲鳴とも歓声とも取れないベルの声音が聞こえてきた。視線の先を追うと、湖面に誰かの立ち姿が見える。それが誰なのか考えるまでもない。エーリだった。



「フィデル! 何だか身体がおかしいの! 身体中の血液が沸騰したみたいに熱い……! あの方が! あの方が欲しくて堪らないの!」



 そう言ってベルは、はぁはぁと喘ぎ、エーリのことを見つめている。



(お姉さま……? エーリ様は?)



 ノナの心臓がドクンドクンと嫌な音を立てて鳴る。ゆっくり、ゆっくりと湖面から顔を覗かせる。するとどうだろう。エーリの顔は真っ赤に染まり、苦し気に胸を押さえていた。その瞬間、ノナはハッキリと理解した。



(わたくしは、エーリ様の番ではない)



 それだけじゃない。本当はベルこそが、エーリの本能が求める相手だったのだ。



『本当にわたくしは、エーリ様の番なの?』



 パロットから『番』について聞いた時から抱いていた、えもいわれぬ違和感。けれど、言えば自分の居場所が無くなってしまいそうで、ずっと言葉にはしてこなかった。

 エーリからの求婚を未だ受け入れられないのも、これが理由だ。本当は間違って連れてこられただけではないか。自分は選ばれない子なのに、と。



(わたくしはまた、選ばれなかった……)



 運命ならば或いは――――そんなことを考えていた己の愚かさに自嘲してしまう。本当は勘違いで連れてこられただけなのに。愛されて等いないのに……そう思うと、ずっと堪えていた涙が溢れ出した。



「お前の言う通り……ノナは二度と戻らない」



 その時、エーリの声がノナの意識を捉えた。未だ苦し気に喘いでいるが、瞳には理性が宿り、ベルやフィデルのことを貫くように見つめている。



「貴様っ! どうしてノナのことを⁉ 彼女の行方について、何か知っているのか⁉」



 そう叫んだのはフィデルだった。気色ばんだ様子で湖面に向かって身を乗り出している。エーリを恐れているのか、小刻みに身体が震えていた。



「当然だ。――――ノナは私の妻だからな」



 その瞬間、ノナの身体がふわりと宙に浮かび上がった。フィデルとベルが息を呑む音が聞こえる。ノナはそのまま、エーリの腕にしっかりと抱き締められた。



「エーリ様、どうして……? わたくし本当は、あなたの『番』では無いのに」



 ノナは涙を流しつつ、エーリのことをじっと見つめる。エーリはノナを優しく撫でつつ、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。



「ノナ――――私はね。本能が求める番ではなく、君が欲しいと思った。あの湖で、いつも寂しそうに微笑んでいた君を、堪らなく愛しいと思ったんだ」



 ノナの心の欠けた部分に、エーリの言葉がピタリと嵌まる。まるで初めからそうなると決まっていたかのように、しっくりと馴染んだ。



「待って……! ノナ、そこを退きなさい! その人は私のものよ! 私がその人の妻になるべきなの! 絶対、そうに違いないわ!」



 その時、ベルの金切り声が聞こえてきた。エーリはベルを睨みつつ、ノナを優しく抱え上げる。それから言葉はいらないとばかりに首を横に振ると、ふいと顔を背けた。ベルは弾かれたように目を見開き、顔を真っ赤に染め上げる。

 己の番を認識し、それと離れて暮らすことは辛い。焦燥感と喪失感に苦しめばいいとばかりに、エーリはベルを顧みない。



「ノナ!」



 次いで叫んだのはフィデルだった。顔をクシャクシャに歪め、ノナに向かって必死に手を伸ばす。



「さようなら、フィデル様」



 その瞬間、フィデルには分かった。もう二度と、ノナが戻ってくることは無い。フィデルの手が決して届かない場所へ行き、この美しい竜人の妻として生きるのだろう、と。


 霞がノナ達を闇夜に溶かしていく。フィデルとベルは目を見開いたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。



***



「すまなかったね……やはり君をあちらへ連れて行くべきではなかった」



 涙を流し続けるノナに、エーリは申し訳なさそうに顔を歪める。けれどノナはフルフルと首を横に振った。



「いいえ、エーリ様。これで良かったのです」



 咲き誇る花園の中、二人は互いをきつく抱き締めあう。エーリは恐る恐るといった様子でノナを覗き込むと、縋るような表情を浮かべた。きっと番同士なら、こんな表情をさせることなどない。互いを求めて止まない――――そういうものだからだ。

 けれど、そうと分かっていて、エーリはノナを選んだ。約束されたものが何一つないというのに、それでも感情を――――ノナへの想いを優先したのだ。



「エーリ様。わたくしはあなたの運命の(ひと)ではございません。けれどわたくしは……あなたのお側に居たい」



 ノナから伸びる運命の糸は、初めからエーリへと繋がっていたわけではない。けれど、エーリが二人を結び付けた。たとえ運命に裏付けされていなくとも、二人が強く望むならば、それは強固な絆となり、未来永劫二人を離しはしないだろう。



「側に居てくれ、ノナ。私は君のことが、好きで堪らないんだ」



 美しい瞳に熱情を滲ませて、エーリはノナをまじまじと見つめる。頬を撫で、切なげに眉を寄せたエーリは、先程ベルを求めていたエーリよりも余程、切羽詰まって見える。



「……嬉しいです。運命の(ひと)だと言われた時より、何倍も」



 誰からも選ばれないと思っていた――――そんなノナを、与えられた運命に抗ってまでエーリは選んだ。ノナはそのことが、堪らく嬉しい。

 二人はゆっくりと、愛し気に額を寄せ合う。



「ノナ――――私の妻になってくれるかい?」



 エーリの両手がノナの頬を優しく包み込む。「はい!」と力強く答えつつ、二人は満面の笑みを浮かべるのだった。

 この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。


 もしもこのお話を気に入っていただけた方は、ブクマや評価(下方☆☆☆☆☆)にてお知らせいただけますと、創作活動のモチベーションに繋がります。


 また、本年は私の小説をお読みいただき、誠にありがとうございました!2022年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] いつも番について疑問に思っていました。愛してなくても番であれば本能で必要とするって何かおかしくないかなと。 このお話は番でなかろうと、自ら愛した女性を選んだことが良かったです。
[一言] 運命の番系のお話って、現在、婚約者や夫、妻がいない状況なら楽しく読めるのですが。たまにその出会いのタイミングの悪さに呪いのように感じる事があります。約束した人がいる状況で出会った時って悲惨で…
[一言] 運命の番というと、本能的なもので本人の意思は関係ないのかと、運命の番のお話を読むと、少し疑問を持ってしまうことがままあるのですが、このお話はそれを乗り越えているところが新鮮。
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