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砂漠の夜

作者: ろろ

 

 星の光ではなかった。

 夜空から落ちてくる光の欠片は、まだ幼い少年に過ぎないアーシス・ライネンが、初めて目にする神秘的な何かだった。

 ほろほろと降りそそぐ幾多のひかりの粒子は、うす青くひかる燐の雨のようにも見えたし、夜空をめざして飛翔する蛍の群れが、やがて力尽き、神話で語られた英雄さながらに大地へ堕ちていくさなかであるようにも見えた。

 アーシスはそっと掌をさしだし、闇から降ってくる青い光の一片を受け止めてみた。熱はなかった。光の粒は、アーシスの手のなかで溶けた蝋みたいに崩れて消えてしまった。言いようのない幽かな感触があとに残されただけだった。

 冷たい砂漠の夜だった。夜の底には一面、無慈悲な砂の海が広がっており、それを取り巻くように、漆黒に染められた紗さながらの、夜のとばりが覆っている。そのなかを、淡く青い光が幾つもの軌跡を描き、静かに、ほろほろと降りそそいでいる。慈愛の雨のように。

 ――あれは何?

 アーシスは、訊いた。

 傍らにいる名も知らぬ女に。己を、まだ九つになったばかりのアーシスを街に売りとばそうという女に。女はアーシスの顔を一瞥のみして、再び夜空をみあげて、婉然と笑った。

 ――あれはね、精霊の涙さ。ジプシーどもは、そう云うねえ。砂漠の冷える夜に、南から暖かい風が吹き込むと、夜を司る精霊たちが、一斉に泣くんだと。

 そこまで話して、女は一旦、演技じみた仕草で、大きく鼻を啜った。

 ――で、その涙が、夜の風にあたって青く燃えるのさ。西の街じゃあ、光の雪、とか、精霊の涙、とか呼ばれている現象だよ。

 ――へえ。

 アーシスは、ふうんとばかりに、溜息を漏らした。祖母が聴かせてくれた昔話のどれにも、こんなものは登場してこなかった。特別な関心があったわけではない。ただ、綺麗だな、と思っただけのことだ。

 ――ほら。ぼさっとしていないで、行くよ。陽がのぼったら、この砂漠は灼けるように暑くなっちまうんだからね。

 ――……うん。

 そしてアーシスは、アーシスと女は、歩きだした。

 アーシスの知らない西の街へと。

 この国ホールランドでは魔法先進の地として知られている街、メイリルへと。




 この国では、魔術が使えない者のことを「覇王樹の花」と呼ぶ。

 「覇王樹」とはつまりサボテンのことで、滅多に咲くことのないサボテンの花を、魔力に恵まれなかった無能者にたとえて揶揄っているのである。

 十三歳を迎えたアーシス・ライネンも、そうした「覇王樹の花」のひとりだった。

 もし、アーシスが街の学校に通っていたら、「覇王樹の花」として、同窓生から軽くない誹りを受けていたはずである。だが、彼は学校に通える環境に身をおいていなかった。それが幸いであるのか不幸であるのかは、アーシス自身もよく判らないでいる。

「アーシス。庭木の手入れはまだ終わらないのかい?」

「もう少しで終わります、お師匠様。あとは伸びてしまった下草を刈り込むだけです」

「早くしな。それが終わったら、次は家中の銀器を磨くんだよ」

「はぁい。わかっています」

 こうした会話が、アーシスの一日のおそらく殆どを支配している。

 メイリルの街に来て、高名な魔術師の屋敷に住み込み、小間使いとして働くようになってから、三年の月日が経っていた。明け方、砂漠に曙光がさすのと共に起きて働き、日が沈んでからは、枕元に置いた手燭の灯りを頼りに魔術書を読みふける暮らしが、三年の間ずっと続いている。

(まだ、諦めているわけじゃない……)

 魔術の師であるルシャ・サレムに、おまえには魔法の才能がない。と断言されても、アーシスは微かな望みを持ち続けた。そうしなくては、日々の忙しさに心が押し潰されるような気がしていたのだ。闇夜に浮かぶ遥かな漁り火を見るような思いで、アーシスは魔術書に刻まれた古代文字を読み解き、諳んじられるようになるまで、ルーンを口ずさみ続けた。

 なぜ、己がそこまで魔術に拘り続けるのか、アーシスにもわからなかった。メイリルでは魔術ができない者は軽んじられる、という理由だけでないのは確かだった。それは幼き日のアーシスの境遇を憐れみ、救ってくれたルシャへの感謝の念から来た気持ちかもしれないし、己の能力を見限った師を、見返してやりたいという反骨心から来るものかもしれなかった。あるいはもっと醜い、昏い感情からくるものかもしれなかった。

 ――おまえは、駄目だねえ。己の内にある醜い部分を、見ないように避ける癖があるよ。

 師匠であるルシャは、時折、アーシスに向かってそんな風に云うのだった。

 ――それは、欺瞞って奴だよ。いいかい、アーシス? 己の悪なる部分から、目を背けちゃいけない。なぜって、魔術の根源っていうのは、そこから力を得るものだからだ。光と影。それらを過不足なく揃えて初めて、魔術というものは完全に働きだすんだよ。

 アーシスは、かぶりを振って、答える。

 ――わからないよ。お師匠様。……僕は、別に、

 ――己の醜い部分から、目を背けちゃいけない。直視するんだよ。……おまえに致命的に欠けているのは、それさ。

 ――わからないよ……。

 アーシスには、わからなかった。

 どうすればいいのかも、わからなかった。

 内なる醜い部分――今、自覚している自分というものに、どうやってそれを取り入れていけばいいのか。己の暗部を引き受けること。それをすれば、今、アーシス自身が知っているはずのアーシスという人格が、軋み、歪んで変質してしまうのではないか? そして、その果てに自分はどんな人間になってしまうのだろう。そんなことを考えて、アーシスは時折、怖くなった。

 目が冴えて眠れない晩、星々が硬い光を煌かせる夜など、アーシスは寝所から抜け出し、庭の植え込みの淵に腰掛けて物思いに耽ることがあった。大抵は人間関係の煩瑣な悩みだったり、魔力がない己の身の上をなげく憐憫の思いだったりするのだが、しばしばルシャに指摘された欠点――己の暗部について真剣に考えてみることがあった。答えは、いつもでなかったが。

 ある晩、アーシスがそんな風に植え込みの淵に座って、ひとり輝く星を見上げていたときのこと。

「何してるんだ、アーシス?」

 背後から、そう掛けられる声があった。

「起きていたのか? エシアン・コズー」

 星明りの下、アーシスと同じく屋敷で下働きをしている少年、エシアンの姿があった。炎を思わす赤髪は、昼間の陽の光の下とは違って夜の闇に溶け込んでしまっているが、その肌の白さと見目の美しさは闇のなかでも際立っていた。陽射しの強いメイリルで、それは魔術の強い干渉があることを物語っている。

「星を見ているのか? ロマンチストな奴だな」

「そんなんじゃない。空を見上げていると、落ち着くんだ」

 エシアンは、足音を立てない歩みでアーシスに歩み寄り、隣に腰をおろした。

「冷えるな! アーシスおまえ、暖を取る魔法も使えないのか?」

 アーシスは、諦めるように肩を竦めてみせた。暖を取る魔法は難度でいえば初級に値するものだが、アーシスには扱うことができない。いや、どんな魔法もアーシスからすれば難しすぎると思えた。

 一呼吸置いてから、エシアンは指を鳴らした。辺りの空気がたちまち暖かくなる。

「優等生のエシアンとは違うよ。僕は……覇王樹の花だから」

「暗いな。自分を卑下したって始まらんだろうに」

「……でも、ほんとうだから」

 エシアンは眉を寄せ、大きな溜息をついた。

「話を変えよう。なぁ、あの話をしてくれないか。ガキの頃に見たっていう精霊の涙の話」

 アーシスは噴き出し、口元をゆっくり綻ばせた。エシアンは昔から、精霊の涙をこの眼で見たいと頻りに零していて、事あるごとに、アーシスにその話をせがむのだ。

「……えっと、そうだな。小さな星が降ってくるようなんだ。星の雨みたい」

「へえ。それから?」

「でも、それは星とは違ってさ。仄かに青い色をしているんだ。ほら、色ガラスってあるだろ? あれの瑠璃色をずっと薄めていって、光を点して空から撒いたみたい。それがゆっくりゆっくり降ってくるんだ。数え切れない程」

「触れるんだよな?」

「ああ。一瞬だけ。でも触れると、すぐ消えてしまう。触った気配だけが幽かに残るんだ」

「いいな。見てみたい」

 嬉しそうに、憧れるようにエシアンは感嘆の息を漏らした。

「俺、いつか絶対に見に行くんだ。一人前になったら。そしたら東に行って、砂漠で精霊の涙を見て。ずっとずっと東に行く。ここより、ずっと緑が多い国にさ。こんな魔法でこしらえた植物じゃなく、本物がたっぷり生えている国に」

「……行けるよ。エシアンなら」

 沈んだ声で、アーシスは云った。エシアンは喜ぶわけでもなく、アーシスの顔を覗き込んだ。

「おまえも、一緒に来ないか?」

「……え?」

 アーシスは、忙しなく瞬いた。エシアンは複雑な顔つきをしており、感情は読み取れなかった。

「一人だけじゃ砂漠を越えるのに苦労する。人手がいる筈なんだ。金を払って知らない奴を何人も雇うより、気心が知れた奴を増やしたい。信頼できる人間をな。おまえなら――」

 アーシスは、理解できないというように、首を振った。

「馬鹿いえ。僕は、初歩の魔法さえ使えない役立たずなんだぜ? 足手纏いになるよ。それに、この国から出るなんて考えたこともない」

「ルシャ様から聞いたことはないか? ここから東の土地へ行けば行くほど、魔法が使えない奴への偏見は少なくなっていくんだ。そこなら、おまえだって普通の暮らしができる。どうだ、利害が一致するだろう?」

「だけど……」

 アーシスは言葉に詰まった。この国から出て行くなど、今まで考えだにしなかった。大地の終わりと思っていた場所で立ち竦んでいる己の目の前に、神の力で新たな地平が切り開かれ、遥かに伸びていく道を提示された心地だった。

「……いや、悪かったな。忘れてくれ。無理を云うつもりはないんだ」

 エシアンは首を振って立ち上がり、尻に付いた草のきれを掌で払った。

「東へは、やっぱり俺ひとりで行く。てめえのケツはてめえで持たなきゃ、な」

 返事はできなかった。アーシスには、ただ己が惨めでならなかった。アーシスはエシアンのことが好きだった。心を許せる友人なのだと、それまで思っていた。だが、己の無力さを呪うにつれて、アーシスの心中には、エシアンへの言い表しようのない昏い感情が渦巻いてくるのだった。

 だが、アーシスは自らのその感情を見てみない振りをした。

 まるで、己の心には憎悪という感情など存在しないのだ、というように。




 月日が流れ、アーシスは十五歳になった。

 メイリルの一般的な子供が、高等学校を卒業する年齢である。エシアンは早熟な才能を発揮して、周囲から一人前の魔術師として認められるようになっていた。だが、アーシスは相変わらず「覇王樹の花」のままだった。

 暦は五月で、若葉が瑞々しく芽吹く季節だった。アーシスは屋敷の、魔術で造られた清流が流れ込む池のほとりを歩いていた。彼は、いまだに己の暗い部分を、人格の一部として引き受けられないでいた。

 あるいはそれは、アーシスという人間の資質であるのかもしれなかった。獣が決して鳥のように飛翔することができないように、鳥が魚のように自在には泳げないように、己の暗部を直視できないというのが、アーシスという人間の宿縁であるのかもしれなかった。

 ――光と影。それらを過不足なく揃えて初めて、魔法というものは働きだすんだよ。

 ルシャに掛けられた言葉は、いつもアーシスの心中を巡っていた。己には人間として致命的な欠損があるのではないか? そうした疑念は、喉元に匕首を突き付けられたような息苦しさをもって常にアーシスを苛んでいた。

 自分はどこへ行くのか?

 あるいは、どこへも行けないのではないか?

 始まりは些細な煩悶でも、絶え間なく落ちる雨垂れがやがて岩を穿つように、アーシスの悩みは時を重ねるにつれて揺ぎ無く強固なものに遷移していった。アーシスはやがて、己の心が真綿で首を絞めるようにじわじわと追い詰められていく錯覚に陥っていった。

 もう時間がないのだ。

 雲間から降る日差しは限りなく清浄なものに思われた。池は澄み、空を映して瑠璃を湛える水の清冽さはアーシスの昏い心を却って苦しめた。その池畔を、アーシスは追われるように歩いていく。風に踊る下生えも、水面に波紋を広げる透明な池も、すべては魔術で造られた仮初めのものだ。

 この街では、命の芽吹きすら人が創りあげてしまうのだ。それは果たして、正しいことなのか?

 ――正しさ?

 不意に、アーシスは声を上げて笑い始めた。

 ――今更、俺は何をいってるんだ。ルシャ様に散々、云われてきたことじゃないか。善に逃げるな。善を装うな、って。

 ふらつく足取りで、アーシスは池のほとりに群生する柔らかな緑の茂みに倒れ臥した。喉元が引きつれるように笑い声は漏れ、止まらなくなった。アーシスは声を上げて笑い続けた。笑って笑って、一頻り笑ってから初めて、今、己の心を満たす静かに燃える感情が、憎しみであることに気が付いた。

 それは、己以外のあらゆるものへの烈しい憎悪に違いなかった。黒々と燃える慟哭の火であり、きわめて私見と私意に彩られた歪んだ他者への怒りでもあった。

 ――俺は九つで親に売られ、世界に見捨てられ、虐げられて生きてきたのだ。そんな俺に世界は何をした? 魔術の資質すら奪い、未来を亡きものにしただけじゃないか。俺以外の他人には――例えばエシアンには――多くのものが与えられ、しかし俺には何ひとつ与えられないのか?

 身中に怒りと憎悪の炎が満ち満ち、体内に邪悪な力が漲るかのようだった。アーシスは己の力ですべてのものを滅ぼせるかのような錯覚に陥った。

 やがて緩やかに、アーシスの臥せる草叢に変化が兆し始めた。新緑の草々が次々と萎びだし、生命を吸い取られたかのように褐色になり縮んでいった。そこから侵食されるように枯れ草の泉が広がっていく。広汎な山林を舐める炎の舌さながらに、それは尽きることを知らず、豊かな庭の緑を舐め尽し、褪せた枯れ草原へと変えていった。その黒々とした何かは、池に入り込み、浄い透明な水を邪な色に染めていった。

 アーシスは草原からゆっくりと起き上がった。その挙措にもはや迷いはなく、うす青い瞳には、かつてのおどおどした自信のなさは失われていた。

 ――俺から奪っていったものの代価を、世界に支払わせてやる。

 確信めいた予感があった。自分はすべてを呑み込む悪辣たる炎になり、憎悪によって打たれた黒金の心で己の復讐を遂げるだろう。

 歩き始めた足取りには己への信頼が溢れていた。全身に魔力が漲り、液体が気化するときのように限度なく膨張していくのが感じられた。俺はすべてを舐め尽す邪悪な炎なのだ、そうアーシスは思った。憎悪によって駆動され、怒りによって世界を壊すのだ。

 どこへ行くのか?

 その問いにもはや答えは必要なかった。

 かつて「覇王樹の花」だった少年、アーシス・ライネンは、静かな決意を湛え、暗澹として歪んだ未来を見据えて己の道を歩き始めた。

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