三文の短編 二日目
0519/2021 00:14-02:17
「お義母さんごめんね。太一ったら。今日は大事な日だから送っていくーなんて言ってたのに、急に仕事が入ったって。本当に仕事なら仕方ないけど、ちょっと面倒になっただけなのよ。きっと。あ、ごめんなさい。お義母さんの教育がどうこうって言いたいわけじゃないのよ。ただこっちの苦労も少しはわかってほしいわよねって、あら、もうこんな時間じゃない。私も今日はどうしても外せない仕事があるのよ。先方には日をずらしてほしいってお願いしてみたんだけど……だめね、やっぱり。こちらにも立場というものがある! なんて怒られちゃった。太一が俺に任せろなんて言うからあてにしてたのに。だからもう出なきゃいけないの。お義母さん一人で大丈夫? バス停までは歩けるわよね。最悪タクシー使っても構わないから、あ、領収書は貰っておいてね。どうする? タクシー呼ぶ? あぁもうごめんなさい。時間がないわ。もう出なくちゃ。行ってきます。気を付けてね」
一度も口を挟む隙間もなく、一方的に三回も謝ってから花江さんは出ていった。
息子の妻、つまり私にとっての嫁である花江さんは、いつにも増して慌ただしく駆けずり回っていた。やれ、手袋が見つからない、ブーツがどう、ベルトがない、パワーストーンがどうこう。本当は一緒に行ってあげたいけど、どうしても外せないお仕事なの、というアピールだと受け取ることにする。別に責める気はない。忙しいのは本当だろうし、私が花江さんの立場ならやはり面倒くさいと思ってしまう筈だ。一緒に行ってあげたいというテイでいてくれただけ優しいのだと思う。そう思おう。
「やーね。歳をとると捻くれたことばっかり考えちゃうわ」
本当は年齢など関係ないことは解ってる。それでも歳のせいにしてしまいたい気分だった。
私は、これから一人で老人ホームに行く。
半世紀連れ添ったお爺さんが逝ってしまってからまだ二月。関係各所への連絡、弔問客の相手……まさに転落するような慌ただしさの中、四十九日がやっと終わったところだった。遺品の整理もそこそこに、息子夫婦から言われたのは「老人ホームに行ってくれないか」だった。特に悩みはしなかった。息子が建てた家に住まわせてもらっているのだし、いつまでも邪魔者扱いされるわけにもいかない。
若いころに腰をやられたのがぶり返してずっと、病院のベッドから動けずにいたお爺さんは、いつもあの老人ホームの悪口を言っていた。あんなところに入ったら終わりだ、とか、早く潰してやらなきゃ、なんて何度聞いたかわからない。きっと若いころのように動けなくなってしまった焦りなんかもあったのだと思う。その気持ちが、最近少しわかるようになった。それでも負けるわけにはいかない。
お爺さんと添い遂げることを決めたときから二人で戦ってきたけれど、その思い出はこの街の至る所にあるのだ。だからどんな結末になろうと、たとえ一人きりになってしまったとしても、諦めるわけにはいかない。
「あら、気持ちはまだまだ若いのかしらね」
誰に聞かせるでもない言葉は、一瞬の躊躇いもなく霧散していった。
それは私の人生のようで、愛おしむべきか少し迷って、少しだけ、哀れんでおいた。
さて、そろそろ出発しなければ。相手先に迷惑をかけてはいけない。なんせこれから死ぬまでお世話になるかもしれないのだ。例え私が私を失っても、例え私以外の全部が私を失っても。私が死ぬとしたら、その瞬間に目の前にいるのは、老人ホームの職員なのだ。こちらにも立場というものがある! だっけ。確かにそうね。みんなそう。変な言い訳をしたくもないし、させたくもないものだ。なればこそ、恥ずかしくない行動をとるべきなのだ。
「随分と待たせるではないか」
「ごめんなさいね、ペーパードライバーなものだから、ゆっくり来たの。私が誰かを跳ねちゃまずいじゃない」
「ふん、そうだったな。運転はずっとシルバーの担当だったからな。貴様程度の腕に期待をした私が間違っていたようだ」
「あら、ちゃんと反省もできるのね。だったらもう諦めてくれないかしら。いい加減限界なのよ」
「反省に聞こえたなら随分目出度い耳をしているのだな。皮肉というものを知らんのか」
「わかってて誤魔化してるのに気づいてくださらないかしら」
「……相変わらずよく回る口だ」
「お互い様よね?」
「ふん。半世紀もやり合ったよしみで待っていてやったが、それも今日までと知れ!」
「はぁ、やることはやるのね。いいわ。かかってきなさい秘密結社老人ホーム。シルバーが逝ってしまって二月、ずいぶんと待っててくれたものね。お礼は拳で良くて?」
「早々に次世代に譲れば良いものを……貴様が意地を張るせいで息子夫婦は苦労しているみたいだぞ?」
「あら、家庭の心配までしてくださるの? 最近の悪の組織は随分とお優しいことで」
「言わせておけば……行くぞ、ゴールド! 決着の時だ!」
「ふふ、あと何回その台詞を聞くことになるかしらね?」
【転落】【ペーパードライバー】【老人ホーム】