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苦手な方はご注意ください。

【異世界恋愛1】関連性のある長編+短編

時の薔薇

作者: 有沢真尋

「侯爵様はお会いになりません」

 銀髪に片眼鏡(モノクル)、お仕着せ姿の家令のにべもない一言に、ディアドラは淑女らしい笑みを浮かべて答えた。


「結構よ、わたくしだってお会いしたいとは思っていませんもの。可能な限り。結婚式当日まで会うことがなくても構わないし、なんだったら、結婚式そのものを欠席してくださってもいいくらいよ。わたくしひとりだけでも、きちんと生涯の愛を誓ってきて差し上げるわ。なにしろわたくしと侯爵様に必要なのは『結婚した』という事実だけなんですもの。心とか、愛情とか、肉体関係だとか、そういったもの、一切期待しておりませんの」

 いささか直接的な表現混じりの啖呵であったが、家令は表情筋のひとつも動かすことなく、まるで聞こえていないかのように佇んでいた。

 フリルに縁どられた若草色のボンネットから、金色の髪をのぞかせたディアドラは、視線を巡らせて高い天井を見上げる。


 美神と天使の入り乱れる宗教画が頭上いっぱいに描かれていた。

 視線を少し下ろしてきて、正面。絨毯が敷かれた長い長い階段。上り切った突き当りには羽の生えた妖精を模した銅像が聳え立っており、背面の壁にはタペストリーがかけられ、柱やそこかしこに蔦草のような細かな装飾が浮き彫りにされている。

 どこもかしこも贅が凝らされ華麗でありながら、下品にはならない計算し尽くされたバランス。訪れた者に、その威容を見せつけるかのような玄関ホール。

 そのくせ、出迎えは家令と従者一人にメイドが二人。当主の婚約者を迎え入れるというイベントが、いかに軽い扱いかがよくわかる。

(構わないわ)

 この程度、予想の範囲内よ、とディアドラは皮肉っぽく笑う。


「わたくしの部屋、『女嫌い』の侯爵様とは別棟と聞いているのだけれど。ありがたいことだわ。もしかしたら、死ぬまで顔を合わせることもないかもしれないわね。そうね、噂通りの『女嫌い』か、たんにわたくしのことが嫌いなだけかは存じ上げないけど、婚約期間も、結婚後も、『女遊び』や『男遊び』なさっても、わたくし一向に気にしません。どうぞそのようにお伝えあそばせ」

 すらすらと淀みなく話してから、柘榴石(ガーネット)のごとく赤い瞳を家令の片眼鏡に向けて、命じた。


「案内して。わたくしの部屋へ。館内を出歩くなと言うのなら出歩かないわ。どうせこの足ですもの」

 手袋に包まれた手が握りしめていたのは、ほっそりとした木の杖。

 すらりと背筋を伸ばして踏み出すも、動きはぎこちなく、足をひきずっている。

「そのおみ足で、この階段は」

 目の前の重厚長大な階段は無理だろうとばかりに言われて、ディアドラはさらに笑みを深めた。ボンネットと揃いで(あつら)えた若草色のドレスの裾を優雅にさばいて歩み、手すりに手をかける。

 一段、二段と上って、見ているだけの使用人たちを振り返った。


「見ての通りよ。わたくし、このくらいのこと、ずうっと一人でなんとかしてきましたの。平気よ。後ろに転げ落ちたりなんかしないから。先に立って、部屋へ案内してくれればそれで十分よ」

 微笑んだその顔立ちは、くっきりとした目鼻立ちに形の良い唇まで、文句なくうつくしい。

 口を開けば何かと棘があるものの、本来なら社交界の話題をさらって注目の的になるにふさわしい美貌であった。


 王国の末の姫、ディアドラ。

 今はただ、厄介者のように偏屈な侯爵の居城に迎え入れられ、互いを無視する結婚生活を開始しようとしていた。


 * * *


 夕食はひとりであった。

 足を引きずって広い食堂に向かってはみたものの、肝心要の『女嫌い』侯爵は顔を見せることもない。

 はじめから、そうなることはわかっていたので、ディアドラも何一つ期待しないようにしていたが、使用人たちの慇懃な態度とあいまって、何もかもが寒々しい印象であった。


 夜、ようやくベッドに入る頃には心身ともに疲弊しきっていた。

 それでいて、頭は妙に冴えて眠れなかった。


 女嫌いのランズバーン侯爵は、御年二十九歳。ディアドラより十一歳も上。

 幼少時に家同士の取り決めで婚約していた令嬢がいたが、相手が国外留学を機に、亡命。その後、異国で伴侶を得たという。なし崩しに婚約は破棄となる。社交界を揺るがしたこのスキャンダルにより、「独り身」として注目を浴びた侯爵には、縁談がそれこそ「土砂降り」レベルに降りそそいだらしいが、そのすべてを一律拒否。

 それが十年前の出来事で、そのままずっと独り身を貫き通してきた。が、ここにきてついに逃げ切れない縁談を押し付けられることになる。


 ()き遅れの末姫、ディアドラ。幼少時の事故により足を引きずるせいで、ダンスを踊ることもできず、成長した今となっても滅多に人前に姿を現すことすらない。とはいえ、足のことは秘されており、腹違いの姉姫たちが面白おかしく「醜女(ブス)なのよ」と噂を流すせいで、興味本位にその姿を見ようという若君すらいないまま。政略結婚の駒にすら使えない、とまるで存在そのものが恥であるかのように扱われてきた。


 そんな厄介者をなぜランズバーン侯爵が押し付けられることになったのか。

 なんのことはない、ディアドラの兄王子と侯爵が懇意にしており、「このままだと、ずっと年上の貴族の後妻のような形で嫁がせることになるだろうが、王家の姫にそれはあまりではないか」と泣きついたらしい、と聞いている。もともと誰とも結婚する気のなかった侯爵がなぜかこの話にはほだされて、それならばと名目上の結婚に応じたのだとか。

 王宮内の噂話とて、自分の悪評以外は極端に届きにくいディアドラには、真相など知るすべもなく。


(おそらく、わたくしには知り得ない裏があるのでしょうけれど。侯爵がお金に困っていて、王家からたくさんの持参金がもたらされた、だとか)


 厄介払いの「白い結婚」。利点といえば、足のこと。女嫌いの侯爵には都合が良かったのかもしれない。どこにも連れていく必要が無い。妻帯していてさえ、独り身のように身軽に振舞えることだろう。お飾りにすらなれない妻。

 構わない。息を殺して「ただ生きる」ことなど慣れている。


 用意されていた部屋は、趣味の良い調度品が揃えられた居心地の良い空間だった。誰が選んでくれたかはわからないが、今の時期は使うこともない暖炉の上まで飾り棚に見立てて、瀟洒なガラス細工のオルゴールなどが並べられていた。どんな音がするのだろうとは思ったものの、杖を手放すことができない身では、片手で持つこともできず、そばで見るだけであったが。誰かに動かしてくれるよう頼むのも億劫だった。

 ひとと口をきくのがそもそも嫌だ。

(侯爵家の使用人たちは、筋金入りの引きこもり姫の、社交性のなさを思い知ればいいんだわ)

 わがままを言うことすら「面倒」。誰も彼もが聞こえないふりをして、軽んじてくる。それならそうで、心の無い人形として生きようと努めてきた。


 眠れないまま、寝返りを打つ。豪奢な四柱式天蓋付きベッド。暗さに目が慣れてくると、天井部分に絵が描かれていることに気付いた。

 緑なす山や森、古代神殿(テンプル)を模した廃墟(ルーインズ)洞窟(グロットー)、流れる水。理想郷(アルカディア)を描いた風景画。さすがに暗がりでは彩色までよくわからなかったが、花園もあるようだ。

 そういった様式の庭園がずいぶん前から流行りと聞いたことがあるが、肌の色が蝋のように白く透き通るまで屋内に引きこもっていたディアドラには、縁のない光景であった。


 いつか本物の薔薇園の中を、歩いてみたい。茶器を運び込んでお茶会をしたり、バスケットいっぱいに焼菓子やパンやワインを詰めて遊びに出かけてみたい。

 叶うはずのない。

(寝ましょう、無意味な明日のために。わたくしは、死ぬまで生きねばならないの)

 ディアドラは瞼を閉じた。涙が一粒頬を伝って落ちた。


 * * *


「いらっしゃい、お友達」 

 黒髪に黒い瞳の利発そうな少年が、シルバーのティーポットを手に目を見開いていた。口角がきゅっと上がっていて、親し気な笑みを浮かべている。

(「お友達」……?)

 なんのことかしら、と不思議に思いつつ、ディアドラは一歩前に踏み出す。やわらかな赤いシューズが城の床とは違う感触を踏みしめて、驚きに目をみはった。

 土くれと草。どう見ても「地面」だ。

 自分のドレスの裾も目に入った。コットンのような生地の、ふんわりとしたスカート。ぐるりと首を回して腕や身頃を確認すると、子どもが着るようなシンプルなエプロンドレスだとわかった。就寝時に身に着けていた絹の寝間着ではない。


「ここは?」

「僕の庭だよ。見て、あそこの薔薇、ちょうど今日が一番綺麗なんだ」

 ティーポットを古ぼけた木のテーブルに置いて、少年はディアドラを両手で手招きをする。ところどころ土に汚れたシャツとズボン。十歳にも満たない幼さに見えるが、庭師(ガーデナー)見習いといったところだろうか。

(僕の庭、と言ったわね。一人前に。薔薇を咲かせるなんて、緑の指(グリーンフィンガー)の持ち主?)

 きらきらと輝く瞳に引き寄せられるように、ディアドラは歩を進める。その瞬間、自分が杖を手にしていないことに気付いて動揺し、「きゃっ」と悲鳴を上げた。

 少年が、素早く駆け寄ってきてディアドラの手を取る。


「どうしたの!? 何もないところで転びかけたの!?」

 ぐいっと手を引かれて、もつれるように少年の胸に飛び込む。

 子どもに見えていた少年と、自分の身長がたいして変わらないことに、そのとき初めて気づいた。

「足が悪いの。何もなくても転ぶのよ!」

 間近で見つめ合ってから、ディアドラは思わず言い返す。


「どっちの足? 痛い?」

 右手でディアドラの左の手首を掴んだまま、少年はディアドラの足元に目を向けた。

「右足。子どもの頃、怪我をして……」

 言いながらディアドラも自分の足を見下ろす。真っ赤なシューズをきちんと履いた爪先が見えた。


「今よりもずっと小さい頃? 掴んでごめんね、君から僕に掴まってくれるかな。支えるから」

 少年がそうっと手を離す。杖が無いのが不安で、その腕に手をのせながら、ディアドラは小さく呟いた。

「六歳の頃。従者の中に変な気を起こした男がいて、人気(ひとけ)のないところに連れ込まれて……。暴れているうちに見つけ出されて、足が変な方向に曲がっていた怪我以上のことはなかったのだけど、わたくしの純潔に関してはそのときから疑いの目が……」

 あまりにも素直に告げてしまってから、ディアドラは少年の目を見ないように顔を背けて、苦笑いを漏らした。


 王家の力をもって、できうる限り隠蔽されたが、「人の口に戸は立てられない」。こんなの、当時自分に近しかったひとは誰でも知っている。政略の駒としてすら、使い物にならないとされた出来事。

(悪いのはわたくしなのですか。身を守り切れなかった……)

 あのとき何をどうすれば良かったというのか、今でもわからない。わからないまま足を引きずり、大人になった。

 

「薔薇を見て欲しくて、焦ってしまって。ゆっくりなら歩けるかな」

「変な話をしてごめんなさい」

 つんと鼻から目の奥まで涙の気配が抜けていき、ディアドラは何度も目を瞬いてから少年を見た。

 ディアドラが顔を上げるのを待っていたように、少年は気づかわし気な瞳で見てきていた。

「変じゃない。全然変じゃない。ごめんね、僕はあまり口がうまくない。だけど、君に謝って欲しいなんて思っていない。僕はこの庭で長いこと君を待っていたんだ。薔薇を見たら美味しいお茶を淹れてあげる。ビスケットやマドレーヌ、ハチミツバターに薔薇のジャム。たくさんあるから、好きなだけ食べていって」

 エスコートするかのような腕に手をのせて、導かれるままにディアドラは地面を踏みしめる。

(……あら?)

 違和感。いつもの不安定さがない。試しに強く踏み込む。ぐっと。


「足大丈夫?」

 少年に声をかけられ、ディアドラはちらりとその黒い瞳をのぞきこんだ。

「大丈夫、みたい。歩けるかもしれない」

「無理していない?」

「してないわ」

 不思議。

 自分の体に何が起きているのだろうと思いながら、少年に掴まったまま、数歩進む。歩ける。

 ディアドラはぱっと顔を輝かせて少年を見つめた。

「歩けるみたい。わからないわ、どうしてかしら。でもこの奇跡、いつまで続くかもわからないし、早く行きましょう。あなたの薔薇を見せて。見てみたいわ」

 注意深いまなざしで足元を見てから、少年は頷いて「わかった、こっちに」と進む。最初はゆっくり、次第に駆け足で、顔を見合わせて笑いながら。


 緑の生垣に開かれた緑の門をくぐる。古代神殿(テンプル)を模した廃墟(ルーインズ)洞窟(グロットー)、枯れた噴水が目に飛び込んできた。

 空には、朝とも夕とも知れぬ光に満ちている。

 まるで理想郷(アルカディア)の風景画のような空間。


 ――……夢。


 きっと、寝る前に見た絵の景色が目の裏に焼き付いていて、こんな夢を見ているのだ。

 自由に走り回れる足で、行ってみたいと願った薔薇の咲き乱れる庭を訪れる。

 ひとしきり散策してから元の場所に戻ると、少年は熱々のお茶に焼菓子を添えてもてなしてくれた。

 二人で他愛のない話をいつまでもしているうちに意識が遠のいて、気が付いたら侯爵の城のベッドの上。

 朝の光の中で、足はいつも通りうまく動かないままだった。


 * * *


「ライラ、いらっしゃい」

 夢の中で少年に会うのが日課になった。

 二晩目に同じ庭に行けたときは奇跡だと思った。三回目の夜はとにかく「行けますように、行けますように」と全身全霊をかけて祈って眠りに落ちた。少年は、最初の夜と同じくあの庭で待っていた。

 以来、一日も欠かさずにディアドラは庭に通い詰めている。

 名前を聞かれた。ライラと、偽名を告げた。

 少年はレイと名乗った。


「ライラは貴族とか、そういう生まれのひとに見える。婚約者はいるの?」

 ある日、藪から棒に聞かれて、ディアドラはふきだした。クランベリーパイを飲み込んだ後で良かった。

「わたくし、ここでは元気に振舞っているけれど、言ったでしょう。何かと問題ありなの。一生結婚することなんてないと思うわ。ただただお屋敷の奥で年を取って死んでいくだけの身の上よ」

 言ってしまってから、違う、と思い直した。侯爵と婚約をしたのだった。だがその結婚生活が世間並のものになる予定もないのであれば、「結婚することなんてない」もあながち嘘ではないはず。

 常ならば瞳に煌きを浮かべて次々と話題を変えていくレイが、このときはめずらしく表情をくもらせていた。

「僕がもしこの庭以外でライラと会うことができたなら……。ねえ、もっとあなたのことが知りたい。ここは僕とあなたの夢の世界。僕はここであなたとどれだけ話しても、どうしてもあなたのことを覚えていることができない。あなたと会ったことだけが胸に残って、恋しさだけが募って……」


 二人で、この庭の秘密については随分と意見交換してきた。その結果、おそらくは夢なのだろうという結論が出ていた。そしてその夢は、いつか終わる。

 レイは焦り始めている。

 この庭に通い始めてから、ディアドラの容姿は変わり続けていた。出会ったときは同い年くらいの少年少女だったのに、今では現実の年齢に近づきつつある。ディアドラだけが。

 鏡はないが、わかった。今日はもう、ほとんど現実の自分と変わらない姿であろうことが。

 その証のように、見覚えのある若草色のドレスを着ていた。フリルレースのついた緑のボンネットまで、あの日この城に来たときと同じ。

 この時間は終わりを告げる。

 薔薇の描かれたティーカップを古ぼけた木のテーブルに置いて、ディアドラは最後の挨拶を口にした。


「楽しかったわ。本当に楽しかった。六歳で足を痛めて以来、この歳まで引きこもっていて、お友達もいなかったし、外を歩き回ることもなかったの。今までできなかったことが、ここで全部出来た気がする。ありがとう。この思い出だけでわたくし、この先もずっと生きていけそうよ」

「ライラ、そんなこと言わないで。僕はまたあなたに会いたい。ずっとこんな風に一緒に過ごしたい。あなたの笑顔が見たい。僕のことを忘れてもいいから、今度は僕があなたを忘れないでいられるように願って、ライラ。絶対に迎えに行くから。ライラ……」


 レイの声が遠くなる。

 少年の、高く澄んで涼し気な声。きっともう聞けない。

(ごめんなさいね、レイ。わたくしあなたに嘘を言ったわ。本当の名前はディアドラというの。もしあなたがわたくしのことを覚えていられたとしても、決して見つけられないわ。でもきっとその方が幸せになれる)

 あなたに似合いの素敵な女性と出会って、一緒に薔薇を植えたらいかが?


 * * *


「侯爵様は、まだお着きではないのです。急用でお出になられていて、姫様をお出迎えできないことをそれはそれは気にされていましたが」

 初夏の澄んだ陽射しの下、石造りの城館の正面には、おそらく手すきの使用人たちが一堂に集められていてざわざわと賑わっていた。

 その騒がしさを恥じるかのように気にしつつ、家令が切々と言う。


「それほど頑張って出迎えてくれなくても……」

 若草色のドレスの裾をさばきながら、ディアドラは慎重に歩き出す。手には杖。

 女嫌いと噂の侯爵殿と突然婚約がまとまり、どうにでもしてという気持ちのまま訪れたら、思いがけない歓迎を受けて戸惑っている真っ最中。

 自分は王家の厄介者なのだ。それなのに。


 ふと、遠くから雷鳴のような足音を轟かせて近づいてくる騎影が見えた。

 振り返って、ボンネットの影から見ていると、その姿がすぐにくっきりと見えてくる。

 乗馬向きではなさそうな裾の長いジャケットを羽織った青年が、黒髪を振り乱しながら馬を飛ばし、近づいてきていた。

 前庭に走り込んできてから、駆け寄った馬丁をみとめて急停止し、ひらりと飛び降りて早足でディアドラの元まで近づいてくる。


 ここまで相当飛ばしてきたのだろう、髪も服装も乱れており、額やこめかみに汗まで浮かべている。

(そこまでしなくても……)

 ハンカチで拭いてさしあげたい、と思っているディアドラの前で、青年は黒い瞳に炯々とした光を浮かべ、胸に手を当てた。

「ライラ、会いたかった……。ようやく見つけた」  

 名前。

 間違えていますけど?

 一瞬悩んでから、はっきりとそれを口にした。


「ディアドラです。女嫌いと噂の侯爵様は、どこの思い人と勘違いされているのかしら。もちろん、わたくしだってこの結婚に愛情なんか求めていませんし、思い人の一人や二人いても構わないのですけれど」

 ランズバーン侯爵が、その年齢まで独り身でいた理由。それはおそらく「ライラ」のせいなのだ。

 あまりにも甘やかに微笑まれた瞬間、理解してしまった。

 同時に、それは自分へ向けられたものではないのだと……。


 つんとすましたディアドラのつれない態度など意に介した様子もなく、侯爵はさらに距離を詰めると、唐突にディアドラを抱き上げる。

「!?」

「手がかりが少なくて。最後の決め手になったのはあなたの足のことだった。あなたの兄君が酔って漏らさなければ、一生出会えなかったかもしれない」

 間近で、親し気に微笑まれる。

「人違いではなくて?」

 どなたかを探していたのだとしても、わたくしの名前は「ライラ」ではないですよ。

 喉元まできたその言葉を、飲み込む。

 侯爵が、あまりにも嬉しそうな表情をしていたから。

 

「まったく、その意地悪のおかげで本当に苦労した。ずっと近くにいたのに気づかないし。という恨み言はここまで。いま、良い季節ですよ。あのときあなたにお見せした薔薇がちょうど今日見頃なんです。行きましょう。お茶の準備も整っています」

「あのとき?」


 確信を持って語られる内容。わかりそうでわからない。

 わかりたい。

 その思いから尋ねると、ディアドラを軽々と抱き直して、侯爵は低い笑い声を響かせた。


「レイですよ。この年まで独り身で、趣味は庭いじりです。毎年見事な薔薇を咲かせると評判の庭師で、侯爵は副業。お久しぶりです、ディアドラ」


 なぜか初めて会った気がしないほどの、ありったけの親しみを込めて、名を呼ばれた。


★お読みいただきありがとうございます!

 ブクマや評価を頂けると励みになります(๑•̀ㅂ•́)و✧




【2021.3.26 追記】


★「時の薔薇」に関してのお問合せに答えて、活動報告に記載した内容です。

(作者の意図・気になる方だけどうぞ)


 おそらく二万字くらいで丁寧に書いた方が良かった作品だと思うのですが、私の考えとしては「ループものの、ループが外れたところ」というイメージで書いています。


 侯爵家にきて、夢の中でのやりとりを経て、侯爵が現実に記憶を引き継げたことによって、その時点からの現実がいくつか書き換わっていったという。

 たとえば書き換わった内容では、ディアドラの足の怪我じたいは残りますが、原因が変わっています。なので、「侯爵は女嫌いと言われながら結婚をかわして誰かを探している」「ディアドラは足が悪い」など、元の内容が残りながらも、「足が悪くて人前に姿を現していなかったのは変わらないけれど、周りとはそこまで軋轢もなく生きてきていて、作品冒頭のディアドラほど世の中に対して諦めていない」など、ディアドラの性格が少し変わっていたりします。


 以上


★「月夜に香る薔薇」


https://ncode.syosetu.com/n4354gw/

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