親離れ
遥彼方さま主催『イラストから物語企画』参加作品です。
本文中のイラストは遥彼方さま作です。
序盤に残酷表現あります。
約7000字
放浪の日々だった。
戦を避け、両親とともにたくさんの土地を巡り、やっと落ち着いたところは流行り病で半壊した村。
軒先や牛小屋ではなく、自分の家ができた。
当時十歳の俺は喜んだ。
もう毎日、一日中、歩かなくていいのだと。
疲れた俺を交代で背負い歩いた両親もほっとしていたと思う。
残っていた農具で荒れた畑を耕し、かき集めた種を蒔き、森に入って食べられる物を探す。
残った村人たちとやっと細々と過ごす日々に満ち足りた。
二年後の飢饉までは。
何かないかと各々が家中を探し結局何も食べ物がないなか、村長が古ぼけた巻物を持ってきた。
『十五ノ子ヲ、百年毎ニ山ノ神ヘ捧ゲヨ』
三年後のその当たり年に十五になる、余所者の俺が真っ先に目をつけられた。
もちろん両親は反対した。せっかくの定住を手離すのを躊躇しなかった。
だから。
自分の子を差し出したくなかった村の連中に殴り殺された。
俺は、それを止めることもできず、一緒に死ぬこともできず、生け贄用の掘っ立て小屋から見えた、荼毘の煙を泣きながら見ていた。
舌を噛まないように猿轡をされた。
そんな義理はないと逃げ出す度に強く手足をしばられ続け、いつしか手首と足首から先は腐り落ちた。
作物の実りが悪い、と小石を投げられた。
天気が悪い、と唾を吐き掛けられた。
あったはずの名は、誰にも呼ばれなくなった。
毎日、村人を殺す想像をした。
両親を殺した村人を、一人ずつ、もうない手足で殴り殺す夢をみた。
毎日。毎夜。
食事が水だけになって一週間たったある日、戸板に乗せられて小屋から出た。
常に暗い小屋の中にいたからか、日の光が痛くて目が開けられない。
でも、見えたところで懐かしむものはもう何もない。
山ノ神がどんなものか知らないが、喰われたらその腹を中から喰い破って山ノ神を怒らせて村に呪いをかけてやる。
みんな苦しんで死ね。父さんと母さんよりひどい様になって死ね。
そして、戸板とともにどこかに置かれ、誰もいなくなった。
久しぶりに青空を見た。
涙が溢れた。
目が痛い。
空は青く、雲は白い。
三人で手を繋いで歩いた頃と同じ空に、涙が止まらなかった。
一週間も何も食べなくても死なないなら、毎日食べることに必死にならなくて良かったじゃないか。
涙は耳にも流れ、変な音がした。
濡れた耳が痒くなっても、掻ける指がない。腕を動かすことすらとても億劫だ。
肩でどうにかならないかと動かしてみたが動いた気がしない。
ふと、空が翳った。
『何をしているのだ?』
目の前には見たこともない異形が、とても大きな何かがいた。
蛇?いや、トカゲ……?
気配も物音もしなかった。こんな大きなモノが音を立てずにどう動いたのか、それだけで混乱した。
だが、人の様に二つ並んだ目が、光を反射した草原の様な明るい緑色の目が、きょとんとしているように見えて、少しだけ気が落ち着いた。
「……み、み……か、かゆ……い」
ずっと猿轡を噛まされていたからか、口がうまく動かない。声もガサガサだ。
それでも、異形の問いに答えることに、不思議と忌避はなかった。
『ふむ。人とは難儀だな』
異形が八本指の人に似た形の手を出すと、俺の顔から耳をひと撫でした。蛙の腹のような、トカゲの腹のような感触。
耳の痒みが取れ、目の痛みがなくなった。
『まだ痒いか?』
「いや……!」
声が出た。ガサガサでもない。なぜ……?
『お前はここに何をしに来たのだ?』
異形は、やはりきょとんとしてるように見える。
「山ノ神の生け贄に」
声が戻ったところで俺の先行きは変わらない。山ノ神がどんなものか知らないが、喰われてもどうにか傷をつけて怒らせて村を呪うのだ。
その名を出せばこの異形に連れて行ってもらえるかと考えたが、異形は人間が悩む時のような動きをした。顎と思われるところに手をあてたのだ。
『イケニエ……?……生け贄か!?』
眩しい。また視界いっぱいに空が見えた。異形はどこへ消えたのかと目だけで探したら、すぐそこで両手を地面につけて四つん這いになっていた。
『なぜそのような事になったのだ……』
シクシクと聞こえてきそうな雰囲気に戸惑う。なんなのだろうこの異形は。
『口伝ではきちんと伝わらぬからと文字に残したのに……』
大きなヤモリのような、でもヤモリというには皮膚の表面がごつごつしていて青みがかった鱗にも見える。頭頂には牛よりも長い角が二本。鶏冠のようなたてがみのようなものが二本の角の間から尻尾まで続く。四つ足の動物とも違うが、大きな後ろ足で立っているところは、人と似てるようにも見える。
人ではない。家畜や山野の動物とも違う。
だが言葉はわかる。
『ちなみに、何と言われたのだ?』
どこか遠くを見つめたまま異形は訪ねてきた。
「十五の子を百年毎に山ノ神へ捧げよ」
忘れるはずのないその文句を口にすると、異形は今度はぐぬぬと唸った。
『合っている確かに合っている、生け贄とはなっていない。……ぬおおおおおっ!どうすればいいのだ!捧げよが駄目だったのか?!我は世話人が欲しいだけなのにいいいいいっ!』
異形のぬおおお、なのにいいいという咆哮は山を少々震わせた。
恐怖とともになぜか脱力感に襲われる。
しかし、ひとつだけ理解した。
「おまえ、が、山ノ神か……?」
振り返った異形は、ひとつ咳払いをしてまた覗きこんできた。
『……そう呼ばれている』
思っていたほど大きくない。牛よりは遥かに大きいが、下から見上げていてもこの杉山の杉の木の半分もない。それでもチラチラと見える立派な牙を納めている口は大きい。
「丸飲みされないと腹を食い破れない……」
『なんか怖い事言うし!?食べないよ!我は食べ物要らないからね!』
思わず溢してしまった計画は山ノ神に根本から否定された。
頭が真っ白になる。
「食べない……?」
『そう!生き物も生物だったものも食べない。山の気を取り込むのが我の食事だ』
生き物も生物だったものも食べないなんて……じゃあ―――
「じゃあなんで父さんと母さんは死んだんだ!!」
その後は何を叫んだか覚えていない。
口の中から鉄の匂いがしても、また涙が耳に入っても、鼻水で溺れそうになっても、言葉になっていなくても、声が嗄れるまで、叫び続けた。
やっぱりそうだ、父さんと母さんが死んだのは俺のせいだ。
俺がいなければ、あの村に留まらなかった。
俺がいなければ、逃げる必要はなかった。
俺がいたから、惨たらしく死ぬことになった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――
「俺がいなければよかった」
ひゅーひゅーと、息すらも掠れた頃に音にしたそれは、そむけていた真実。
そうだとずっと考えていた。毎日思っていた。
俺がいなければ二人は死ななくてすんだんだ。
それでも口にしなかったのは、村を滅ぼすまで気を持たせるため。
それが。今日まで生きてきた意味が消えた。
『ああ、お前に憑いているのは両親か』
山ノ神が言ったことを理解するまで、しばらくかかった。
泣きすぎて頭がもげそうだ。いっそもげろ。そうしたら両親のところへ逝ける。
なげやりな気に浸っていたら、静かに佇んでいた山ノ神がぽそりと言った。
『見えんか?そこにいるぞ』
何を馬鹿な事を。お前が両親を辱しめるな。そう睨み付けた。
山ノ神だけだった視界に、ぼんやりと白い影が浮かんできた。
涙はまだ枯れていなかった。
薄ぼんやりとした、山ノ神に向かって両腕を広げる父さんと母さんの背中があった。
「とうさん……かあさん……」
嘘だ。幻だ。偽物だ。涙がそう見せるだけだ。
『我は親がいない。そういうものだ。だが、永くひとりでいることに飽いてな、以前、山を吹っ飛ばした』
山ノ神が両親の間から手を伸ばし、俺の額を一本の指で撫でながら、ひっそりと語り出した。
『地形がすっかり変わってしまって、我らを総括する神に怒られた。まあ、昔々の話だが』
撫でられる度に両親の姿がはっきりしてくる。
『今ほど人の営みは上手くなくて、この山にも何人も捨てられたりしていた。まあ、死体は結局動植物の養分になるから放っておいたのだが、たまたま息のある者に会ってな。死ぬまでの間、話し相手になってもらったのだ。そしたらそれが存外と面白くてなぁ……ふふ』
三人で旅をしていた頃の服。
『その者を回復させて色々話をした。だが人の寿命は我の力でも百歳までしか延ばすことができなくてなぁ。息のある者を見つけられれば良いが、人の営みも落ち着いたのか誰かが捨てられることもなくなり、またひとりになるものだと思ったのだ』
父さん。
母さん。
『そんな時、成人して家を出たはいいが行き先がなく、さらに道に迷っていた男とばったり会った。一人で都に出られぬ男に我ですら不安を感じたが、本人もそう思ったようでしばらく一緒にいた。我に慣れれば都などおそるるに足らんと言ってな』
父さん、母さん。
『結局はそのまま一緒にいた。男の時代でも一人立ちしたところで食いぶちにあぶれる者もいたようでな、そういう者に来てもらえば良いと考えたのだ』
父さん、母さん。
『人は十五になれば親元を離れてもおかしくない年齢なのだろう?』
父さん。母さん。
『そうして親も子離れするらしいが、ふむ、どうしたものかな』
ふと、父さんと母さんが振り返った。そして、俺を抱きしめてくれた。
生きていた頃の感触は何もない。わかっている。でも。
「と……さん……かあさ……ん」
腕を伸ばした。
『さて、これからどうする?原因は我だからお前の体は元に戻そう。だが死者は戻せない』
ひとしきり泣いた後、山ノ神がそう言ってきた。
このまま両親について逝きたかったが、二人のせつなげな表情から俺への望みが伝わってきた。
『山の麓までは送れるが、その後は己で決めるんだな……はぁ』
ため息をついた山ノ神は、仰向けの俺の額にまた指を伸ばしてきた。
「ここにいれば、父さんと母さんはこのままなのか?」
そうならどこかに行く理由はない。だが、両親はさらにせつなげに微笑んだ。
『心残りが消えればこの世にとどまる力は無くなる。それでもとどまるのなら、命の輪廻から外れて無になるか、この世に害をなすモノになる』
害をなす……!
なら二人は村に復讐ができる。
短絡的にそう思ったが、山ノ神にまたも覆された。
『この世だ。場所は限定できん。言っておくが、飢饉を起こすのはそういうモノだ。その土地の地力がどうこうではないのだよ』
腑に落ちた。納得できない何かがある事を。
戦争の絶えないこの世では、戦場でないところでも、やりきれない理由で誰かが死んでいく。
『ここは巡る力で成り立っている。人とは、それを表す顕著な生き物だ。そうでありながら、戦という破滅的な事もやる。他の動植物にはないその激動がこの世の主流になりつつあり、自然への影響が大きい。……わかるか?』
「よくわからない」
『ふふふ……』
「とりあえず、飢饉や災害は山ノ神などの怒りや呪いではなく、人のせいなんだな……?」
『そうだ。だが、内に入れたモノを慈しむのもまた、人が突出しているものだ。植物は種を飛ばしたら終わり、動物はひとり立ちしたら終わり。人だけだ。子がひとり立ちしても構うのは』
山ノ神は目を細めて両親を見やった。
『ほんの少し、羨ましくはある』
長い間、ひとりとはどんな事だろうか。
と、唐突に過ぎった。
両親がいなくなり小屋に閉じ込められた俺はひとりだった。だが雑だったとはいえ世話人がいた。憎しみは増すばかりだったが。
この山ノ神のように、何とも関わりがないとはどんな事なのだろう。
「俺が山を下りたら、山ノ神はどうするんだ?」
ほんの少しだけ目を丸くした山ノ神は、ふふと言った。
『どうもせんよ。変わらずこの山にいる。まあ、ちと寂しいが、世話人は次の百年を待つか、誰かが迷いこむのを待つかだな』
「山を離れないのか……?」
『離れんよ。それが我の役目だからな』
「役目……」
『そういうものだと思ってくれ。これは何人に説明してもわかってもらえんでな。まあそれが、人の自由さなのだろう。羨ましくはあるが、だからとそうしようは思わない』
またもよくわからないことを言われた。
自由。自由になったら、村人を全員殺すと決めていた。
だが、父さんも母さんもそれを望んではいない。
事の発端の山ノ神にすら、世話人にならず好きにしていいと言われた。
俺は、
「…………どうしたら、いいんだろう……?」
呟きが聞こえたのか、両親は柔らかく微笑んだ。
胸がしめつけられる。名前を呼んでくれる時の表情だ。
父さんと母さんの声は俺には聞こえない。
でももう別れの時だとわかった。
もう会えない。
両親は死んで、俺は生きているから。当たり前のことだ。
それでもそばにいてくれた。
「これからの事は、じっくり考えるよ」
二人は、左右の腕の先端をそれぞれに握ってくれた。感触はない。
「父さん、母さん、ありがとう」
二人の姿が空の色に馴染んでいく。
視界はまた涙でぼやけていく。
山ノ神の指が額に触れる。
「父さん!母さん!ありがとう!」
「空が青いなぁ……」
またひとしきり泣いた後に、当たり前の事が口をついた。
『……そうだな』
山ノ神は静かに同意してくれた。
「無事に極楽についたかな……」
山ノ神に会ってから取り乱してばかりなのを今さらながら恥ずかしくなった。気を紛らわせたくて、両親の事を呟く。
『極楽かは知らんが、輪廻の環には入ったな』
返事はなくてよかったのだが、山ノ神は律儀に教えてくれた。
輪廻の環に入ったということは、両親はいつの日か生まれ変わる。そのことに安堵した。
そうなると、気になる事がひとつ。
「……なぁ」
『うん?』
「なんで、さっきから俺のデコを触ってるんだ?」
『ああ。お前の溜め込んだ狂気を浄化している』
狂気。
「……あー……それは……かたじけない……」
『ぶふぅっ!』
山ノ神は指を離し、体をくねらせながら大笑いした。
……そこまで笑われると不貞腐れるしかないのだが。
『ふはは!子どもがかたじけないと言うのはおかしいな!』
「……一応成人はした……」
『ふっ!ぶははははっ!』
「くっ……」
まあ、さっきまで親に泣きついていたから、笑われるのは仕方ない……のかもしれない……が。
『はぁ、愉快愉快。すまん、笑いすぎたな』
異形のくせに愛嬌がある山ノ神は悪びれずに謝ってきた。本気かどうかはわからないが。
「いや……」
『ふふふ、男はそれくらい矜持がなくてはな。外には七人の敵がいるのだろう?』
「……なんだそれ?」
『ありゃ。間違えたか?』
「さあ。初めて聞いた」
『まあなんだ、家を出るときはそれくらい気を引き締めろという意味らしいぞ』
「ふ〜ん」
七人どころか村ひとつが敵だったが、なんだかもうどうでもいい気分だ。両親に会えたからか、山ノ神のせいか。
これだけ笑われたのを受け入れているのだから、山ノ神の浄化は本物なのだろう。
「山ノ神の世話とはどんな仕事なんだ?……世話を掛けてしまったし、その分を返してから山を下りるのでもいいかと……」
邪魔ならすぐに下りると続けるはずが、山ノ神の嬉しそうな目を見てしまった。きらきらしい。
『そうかそうか!どんな仕事と聞かれたら話し相手だな。ああそうだ、お前の分の食事は我が準備をするからな、野草はともかく肉は任せろ。我は食事は不要だが人はそうはいかん。あ、人用の小屋もあるぞ』
「え、それって世話人なのか?」
『何と呼んだらよいかわからんからそう呼んでいる。さあ!気分の変わらんうちに手足を治すぞ!』
額に触れる山ノ神の指が二本になった。今度は少し温かい、というか熱い。でも気持ちいい。
『不調の出ないようにはするつもりだが、出た時は一旦止めて日数をわける。再生にはお前の肉や骨を使うから、どうしても貧血になりやすい。我はその再生力をあげる方法しか使えんでな』
説明を受けても何を言われているのかさっぱりだ。生返事をしながら、ただ山ノ神の指の熱に集中した。
こんな温かさはいつ以来だろう。
『おい』
「……んあ?」
目を開けると夕暮れの紅い空があった。
さわ、と微かに吹いた風に、口の端から頬にかけてひんやりとする感触に慌ててよだれを拭う。
「わ!」
両手があった。
『体はどうだ?』
少し茜色に染まった山ノ神が覗き込んでくる。手を見て俺の動悸は激しくなったが、目眩や吐き気は感じない。寝転がったままだからかと、体をねじって動かしてみた。
「……うん。平気そうだ」
手をついて、上体を起こす。足も元に戻っていた。足の指を動かす。脛が攣りそうになって笑いが込み上げた。
『不都合はありそうか?』
「いや……」
目眩や吐き気は全く無いが、力が入りにくい。胡座をかいただけでもう倒れそうだ。よくよく見れば腕がさらに細くなっている。
だけど。
手と足が、戻った。
「ありがとう」
『うむ……だが、何故か手はそうなってしまったが』
「ああ……うん、いいんだこれで」
『……ちぐはぐではないか?』
「はは、そうだけど、俺はこれがいい。ありがとう山ノ神」
『……明日で良ければ直すが?』
「ははっ、母さんの右手は誰よりも器用だし、父さんの左手はとても力持ちなんだ」
放浪の日々にはいつも、俺の右手には父さんの左手、俺の左手には母さんの右手が握られていた。
父さんの左手が俺の左手に。
母さんの右手が俺の右手に。
両手を合わせ、左右の大きさの違いに口もとがゆるむ。
山ノ神の言う通りにちぐはぐで、たぶんこの先、俺は親離れができないのだろう。
でもまあいいさ。
『そうか。ふふ、自慢の親か』
なぜか嬉しげな山ノ神に自慢し終わる頃には、俺の手として馴染んでいるだろう。
了