ボクは風
ぼくは、風。
どこにだって行ける。
空高く上り、街全体を見下ろして。
街を過ぎ、川を渡り、山々を越えてどこまでも。
果てしなく続く海の上を走れば、異国の地にも行けるだろう。
アメリカ。イギリス、フランス。アフリカ。ロシア。中国。インド。どこの国にだって。
黒人、白人、モンゴロイド、色々な人種の人達の中に入って触れ合うことが出来る。
アメリカ大統領の鼻毛にだって触れる。世界的に有名な女優や歌手の胸やお尻もタッチできてしまう。
動物にも。アフリカ象の長い鼻やライオンのたてがみ。シマウマやキリンの長い首。らくだのコブを触るのも面白いかもしれない。ワニの口は、ちょっと怖い。
でも、ぼくはどこにも行かない。
ぼくは優しいそよ風になって、街の中をさまよう。
角の赤い屋根の家で、いつも窓際に座って新聞を読んでいるおじいさん。ぼくに気づいて、顔を上げるかもしれない。
忙しそうに走り回っているラーメン屋の店員が、暫しの間立ち止まってぼくを感じてくれるかもしれない。
畑で働いている麦藁帽子のおばあさんは、ぼくに当たろうと立ち上がるだろう。
幼稚園で遊んでいる子供たちは、ぼくと一緒にかけっこする。ぼくはわざと一人の子供の帽子を取って、くるくる回しながら滑り台の上まで運んであげるのだ。子供は泣くだろうか。
それから、ぼくは大学に行く。
開け放たれた窓から侵入し、学生たちのノートや教科書をパラパラめくり、女子学生たちの髪を吹き上げる。
教壇の上に立つ先生のスカートをひらりとまくってみせる。
四十歳なのに二十八歳と偽っている先生は、赤い顔をするだろうか。
それから廊下に出る。
まっすぐ廊下を走り、突き当りで左に曲がると、階段がある。そこをずっと上がっていけば屋上だ。
女子学生が一人、ポツンといる。
色白で、吹けば飛んでいってしまいそうな、弱々しい女の子。それもそのはず、何年も入院していたのだから。
念願かなって退院し、希望の大学に入れたのに幸せそうな顔をしていない。
ぼくは彼女に寄り添う。
彼女の長い髪を優しく撫で、頬にキスをする。
でも、彼女はぼくに気づかない。
彼女の大きな瞳からこぼれる涙。
どうしたら彼女を笑わせられるのだろう。
ぼくはおどけた声を出して、彼女の周りで踊ってみせる。
でも、彼女はぼくに気づかない。
彼女の目から、涙が止まらない。
ふと、彼女の手に一通の手紙が見える。
結婚招待状。差出人は、田中正太郎。
長い間、彼女の主治医だった先生だ。たしか女性患者に人気があった。
あんな男、君を幸せになんてできないよ。早く忘れてしまえ。
ぼくは吹き荒れる。
彼女の手から、手紙がはなれ、クルクル回って飛んでいく。
あわてて追いかける彼女。
なんで追うの? あんなものいらないじゃないか。
その時、背の低い男子学生が現われた。
彼女に気のある嫌な奴だ。
そいつが手紙を追いかける。
ぼくは、手紙を上へ下へ、左に右に躍らす。
彼女が笑った。
ピエロが手紙をキャッチ。
二人を置いて、ぼくは去る。
ぼくは病室に戻ってくる。
ぼくの体を囲む父と母と弟。
風を感じ、赤い目を上げて不思議そうに三人が見合う。
ごめんね、ジュン。いつも一人ぼっちにさせて。これからは、思いっきり甘えるといい。
お父さん、いつかぼくとお酒を一緒に飲みたい、って言ってたね。とうとう、かなわなかった。ごめんなさい。かわりにジュンが大人になったら一緒に飲んでくれる、きっと。
お母さん、たくさん心配させたね。しわも白髪も増えちゃって。もうこれからは、自分の為に時間を使ってください。
ぼくは、みんなの笑った顔を見ていたい。
だからもう、泣かないで。
みんなの傍にぼくはずっといるよ。
ぼくは風になったのだから。