1 日輪町1
天高く馬肥ゆる秋、と人は言う。
しかし彼は夏こそ、天が最も地上から遠ざかる季節であると考えていた。天が高く、太陽の向こう側に隠れてしまっているこの季節だからこそ、日光は一切の容赦なくこの地上に降り注ぐ。
長い時間をかけてじりじりと地上を焦がしていく太陽は到底あらゆる生命の母とは思えない。ライオンは我が子を谷に突き落とすと言うが、長い責め苦によって子を苦しめることはなかっただろう。
そういうわけで、棗高太郎は夏を嫌悪していた。
「あぢい……」
太陽は白く、悠々と地上を睥睨している。これではまるで独裁者だ。彼はあの高空で高笑いしているに違いない。
「あぢい……」
三角形の氷菓がみるみる丸くなる。アスファルトに点々と染みを作り、焼かれて消えていく様子を見ていると、これが酷暑に対する慰めであるという事実すら疑いたくなってくる。人類は自然に対してあまりに無力だ。
「どういう理屈で、こんなに暑いんだ……」
一人嘆く高太郎に、隣を歩く友人が声を返す。
「教えてやろうか?」
「いや……いい……。余計に暑くなる気がする……」
「そんなこと言って、どうせお前の成績じゃ地球の公転運動がどうなってるかもわかっちゃいないんだろ?」
「馬鹿にすんなよオメー。そんなんアレだろ……あ? 暑いのと地球となんか関係あんの?」
この凶行の責任は太陽にあると高太郎の中ではもっぱらの噂だった。
「お前やっぱ期末テスト余裕だったって嘘だろ」
「はあ? 余裕だったし。見ろよこれ、地理と数学と近隣種歴史学以外赤点ナシ。奇跡の所業だ。神は僕に味方した」
「そういや太陽信仰って世界中で多いんだってな」
「はあ!? 許せねえ……僕を弄んだのか!?」
「神も太陽もお前を気にかけちゃいないと思うぜ」
友人の名は仙崎空。思えば忌々しい名前だ。空は自分たちを守る責務を放棄してどこかへ飛び去ってしまったのだ。
「許せねえ……。お前も共犯じゃねえか……」
「なに言ってんだ?」
夏。七月二十八日。一学期の終わり。
先月まであれだけ空を覆っていた雨雲は太陽に抗うことを諦め、曇天とともに逃亡を決め込んだらしい。見上げる頭上には青の色しか無い。
夏。夏休みだった。
「空は僕を見放した。スイカバーは無力だ。僕は誰に縋ればいい?」
「自分で戦ってみたらどうだ?」
「太陽と戦うとか無理だろ……なに言ってんだお前馬鹿か?」
「お前にだけは言われたくねえな……」
高太郎は太陽に挑む役目を地球外縁軌道守備艦隊に任せると、円を通り越してすっかり棒と成り果てた抵抗力をゴミ箱に放る。棒は思い描いた軌道を外れて地面に落ちた。バツが悪い思いをしながら丁寧にゴミ箱へ戻す。ここは高太郎の住む町唯一のコンビニで、無力とは言え今のところ太陽に対抗できる数少ない勢力だった。無下にはできない。
「で、赤点三つってことは夏休みの予定は?」
「もちろん補習でぎっしり。おかしくない? 宿題も増やされたのに補習なんて。宿題やらせる気なくない?」
「一学期中サボりにサボったお前が悪いんじゃねえ?」
「そんな正論は聞きたくない!」
二人してコンビニを離れる。異常なまでに冷却された店内から漏れ出る冷風は名残惜しかったが、いつまでも入り口付近で駄弁っていると生活指導の教諭に相談されかねない。そうなれば高太郎は二度とスイカバーの力を当てにすることもできず、結果太陽との不戦敗が決まってしまう。地球の運命は生活指導の先生にかかっている。
「今日ウチくる? ばあちゃんいないから冷房使い放題だぜ」
「いや、やめとくわ。旅館の空調無駄遣いして潰れられたら親父に顔向けできねえ」
「気にすることないのに」
「親父が気にすんだよ」
「お前んち、ウチが唯一のお得意様だもんな。これって癒着じゃない?」
「百三十年前からの付き合いだぞ。無下にできっかよ」
「だよねえ……」
「それに部活のスケジュールも詰めないとだしな。一応最後の大会だしよ」
空は坂を降りたところにある中学の野球部で主将を任されていた。空などという名前なのにサッカー部じゃないって……という言葉を高太郎はもう二年半飲み込み続けている。いつか同窓会でネタにするためだった。
「そっか……もう僕らも三年か。なんか実感ないね」
「実感ないのはお前が進路調査票出してないせいじゃねえ?」
「しょうがないじゃん……。なんも思いつかないんだし。先生は大学卒業後のことまで考えて書きなさいって言うけど、こっから通える高校なんて南高しかないのにねえ」
「フラフラしてるお前の為を思って言ってんだよ。南高からじゃろくな大学いけねえし、旅館継ぐなら半端な勉強じゃいけねえだろ」
「僕は継ぐつもりなんかないぞあんなボロ旅館!」
「そうは言っても跡継ぎは必要だろ。お前一人っ子だし」
「潰れちゃえばいいんだよあんなとこ」
「お前、生みの親が経営してる旅館に向かって……。ウチはお前んとこに潰れられたら困るんだよ。ウチだけじゃねえ、この田舎の店はみんなお前んとこに泊まりに来る客頼みだ」
「それなら心配いらないでしょ。ユウの旅館があるし」
「あいつんちは東京のなんとかって企業と契約しててこの街の店は誰も卸してねえ。小売業以外の連中からしたら一銭にもなんねんだよ」
「わかっちゃいるけどさ……」
高太郎の生家でもある老舗棗旅館はこの街の経済的な核を担っていた。しかしそれも、六年前麓にできた蒼山荘・桜間によって揺らぎつつある。シャッター商店街の真横に巨大ショッピングモールが建設されるが如く、棗旅館の経営は風前の灯火であった。
「バイパスと寂れた民間鉄道が通ってるだけの田舎に未来があるのかねえ……」
「あってもなくても仕方ねえよ。俺は呉服屋継ぐって決めてるし」
「お前はいいよなあ……やること決まってて」
「お前も決めりゃいいんだよ」
「それができたら苦労しねえよ……」
「明日は?」
「近隣種歴史学の補習」
「何時まで?」
「十二時半」
「部活もその頃には終わってるだろ。終わったらウチ来いよ。ぱっぱと宿題片付けちまおうぜ」
「勉強した後に勉強……。地獄はここにある……」
「ぐだぐだ言ってねえで、教えてやっから」
「写させてくれんの?」
「そりゃ無理だな。桜間も呼んである」
「ユウがそんな不正見逃してくれるわけないじゃん!」
「そのために呼んだんだよ」
「裏切り者……」
「まあそう言うなよ。桜間も普段ぼーっとしたやつだけど、成績じゃトップって噂だ」
「まあそうだろうね……」
「頼みゃあ教えてくれるだろ」
「ぐぬぬ……」
「じゃあ明日。十二時時半に裏門な」
「おー……」
空の家は集落の中にある。対して高太郎の旅館はそこからさらにバイパスを登った山中にあった。ここからは分かれ道。孤独な登山の始まりである。
「高太郎」
ふと、集落への道を歩み始めていた空が振り返った。
「お前にかかってんだ、まじで」
棗旅館の趨勢にこの街の未来がかかっている。そのことを、高太郎は理解しているつもりだった。
高太郎は恨めしげに立ちふさがる山々と太陽を睨んで呟く。
「許せねえ……」