ラプラスの魔物 第二魔物 5
「…ねぇ。」
りんりん、と鈴の音が響く。
「…ねぇ。」
その声で、黒髪ストレートロング少女、御手洗蓮花は目を覚ました。ぐるりは、くろ。
「…ねぇ。」
その声は、芯のある声だった。
「…ねぇ。」
呼びかけの声が続く。蓮花が声のする方に振り向いた瞬間だった。次はけたたましい鈴の音が響く。
「…ゆ…め?」
掠れた声で蓮花は起き上がった。
「おはよう、母さん、父さん。」
蓮花はベッドの側にある小さな箪笥の上に乗っている写真に声をかけた。立ち上がり、ブラシを取って身支度をする。
今は夏近い、だが初夏よりも遠ざかった日々。白の制服を着て、下に白い短パンを履く。荷物を持って、蓮花は下のリビングへと足を進めた。
「おはよう、梢叔母さん。」
「おはよう、蓮花ちゃん。」
荷物を椅子の側に置いて、用意された朝食を食べる。ベーコンと卵をむしゃむしゃ食べると、食器を流しに入れる。そして歯を磨いた後、蓮花は言った。
「それでは行ってきます!」
元気良く叫ぶと、叔母が返した。
「蓮花ちゃん、今日もまた私、11時くらいに帰るから心配しないでね!ご飯適当に見繕ってね…ごめんね、ご飯作れなくて…。」
「分かった!大丈夫だよ!心配しないでね。」
蓮花の通っている学校、穹窿高校へと足を進める。
しゃりん。しゃりん。
蓮花はくるりと振り返る。
「…鈴の音…?」
しゃん、しゃん。
少しずつ、近付いてくる。
「…ねぇ。」
あの声が聞こえた。
「何ですか、これ!」
蓮花は必死になって走る。追いかけているようで、鈴が音が一定だ。校舎の中へ入ると、音が一瞬だけ収まる。
そしてその間を縫って蓮花はまた駆け出した。自分の教室へと走る。
「はぁ…はぁ…。」
荷物を自分の席のフックへと置くと、思いっ切り座る。
「蓮花、どうしたの?」
「御手洗がそんなに焦ってるって珍しいな。」
数人の生徒が声を上げる。
「え…あ、時計を見間違えてですね、それでもう遅刻しそうだったから走って来たら…まだ時間がありまして…。」
苦笑いしながら蓮花は答えた。
「蓮花が?めっずらっしー!」
途端に響く声があった。
「蓮花ちゃーん!どーして置いて行ったの!」
薄苺の髪を振って苺飴朱が現れた。
「ごめんね。ちょっと色々ありまして…。」
「もー!」
苺飴朱が頬を膨らませながら、蓮花の隣の席へと座る。蓮花はまた苺飴朱に同じ説明をした。そうこうをしている内に、一限のベルが鳴る。挨拶が終わって、席に着く。
「はーい、それでは今日は昨日のプリントの続きをやって行きます。10分後には答え合わせをするので、分からない所があれば質問して下さい。」
現国の教師が淡々と言う。蓮花がペンを取った時だった。
しゃりん。しゃりん。
「…また鈴の音…ですか。」
辺りは真っ暗で、音だけが伝わる。蓮花は『金華』を炎弾砲に変えて構えると、音がするのを待つ。
「…何処だ…何処ですか…。」
「…ねぇ。」
そう聞こえた途端、蓮花は炎弾をぶっぱなつ。しかし、銃口から出た弾丸は、爆発すること無く水の様に溶け、『金華』も溶ける。泡の様に黒い壁も剥げていき、蓮花は何かに押し流される感覚の中、笙の笛の様でありながら、何処か澄んでいてしかし芯のある少女の声を聞いた。
「……貴方はまだ、知らない。」
そして、ふわりと浮いた感覚を受けた時だった。
「御手洗さん!起きなさい!」
蓮花は飛び起きると、周りの生徒が物珍しく此方を見ている。女教師が不思議そうに言った。
「貴女が寝るなんて珍しい事もあるものね。」
「え、ああ…すいません。」
蓮花が苦笑いしながら答えた。
それに、と女教師が続ける。
「余談だけど、貴女少し雰囲気が良くなったわね。優しくなったわ。」
生徒の1人が声を上げる。
「わかるわかる!今までの蓮花ってさ、手から氷でそうだったもん!」
「何ですかそれ…!」
クラス中がくすくすと笑うが、女教師が取り仕切る。
「ほら、続きをしなさい!喋ってないで。」
蓮花はぼんやりとした思考の中、シャーペンを取って問題を解き始めた。
「ねぇ、蓮花ちゃん、今日様子変だよ。」
『ねぇ』という言葉にビクリと肩を震わせた蓮花は、苺飴朱を恨みがましく見た。
「『ねぇ』って言わないで下さいよ…。」
「え?私のせい?」
苺飴朱が困惑した顔で、蓮花を見る。今は帰りの時間だ。
「ごめんね。此方の独り言ですから。」
苺飴朱が思い出した様に言った。
「あ、蓮花ちゃん。ごめんね。今日は一人で帰ってくれないかな?委員会関係でちょっとね…。」
苦笑いしている苺飴朱を見て、蓮花が仕方なく笑った。
「委員会関係は忙しいですよね。じゃあ、また明日。」
「うん、ばいばーい!」
意気揚揚と出る苺飴朱とは裏腹に、蓮花は意気消沈として教室を出た。声門から出ると、周りに不思議な物が無いか確認する。その刹那だった。
「大丈夫で……え。」
足元に違和感。目をやると、白い手が足首を掴んでいる。蓮花は叫ばずに『金華』を小型の銃に変えると、躊躇も無く撃った。手は引っ込まったが、銃声が辺りへと響く。
「え…?今の銃声だよね…。」
「逃げろ!」
「でも何処からか分からないだろ…!」
「怖いよ…。」
蓮花が一つため息を付くと、逃げる群衆に紛れて朧古書堂まで全力疾走する。また鈴の音は追いかけているようで、蓮花は何発かの銃を撃った。朧古書堂へと足を踏み入れると、朧が声を出すが。
「あぁ、蓮花ちゃん。こんにちは…って待って。撃たないで。
」
蓮花は弾みで朧に銃口を向ける。ため息を付いて『金華』を元の青い宝玉に戻した。朧が恐る恐る問う。
「あの…蓮花ちゃん、どうしたの?」
「今朝から変なのに追われてまして…地面から足は出るし…鈴の音に追っかけられるし…。」
「…あのね、蓮花ちゃん。そんなので私を怖がらせる事は出来ないよ。」
「その体で言われてもですね…。」
朧が隅で顔を青ざめているのを見る。蓮花が言った。
「そのビビリようは朧さん絡みでは無いんですね。」
朧がそのままの表情で言った。
「…そんなの居たら、私、3日と持たないよ…。」
朧の顔が思考の中に入る。
「ん…?待てよ。『鈴の音』?それ、何時の話?今日の何時?話してくれるかい?」
蓮花が荷物を置いて何時もの椅子を出しながら話す。
「えぇっと…事の発端は夢だったんですけど、何か、夢の中でりんりん、鈴の音がするんですよ。それで、ずっと『ねぇ』って聞いてきたんです。声のする方に振り向いた瞬間、目が覚めちゃって、結局見られなかったんですけど。」
一瞬置いて、蓮花が続ける。
「それで朝、登校した時にまた鈴の音が追いかけてきたんです。怖くて怖くて学校まで全力疾走しました。それで、一時間目の現国に、プリントを解かなくちゃ駄目だったんです。それで、解こうと思ったら、また、一面が黒の夢の世界に引きずり込まれちゃったみたいで…。」
蓮花が椅子に座って、話を続ける。
「で、怖かったから、『金華』で炎弾砲を出して、声のする方に撃ったんです。けど、弾も銃も溶けちゃって。それで、女の子の声を聞いたんです。『貴女まだ知らない』って。綺麗な声でした。」
それで、と蓮花が話を続けた。
「で、寝ていた様で、起こされて。帰るまでは変な事が起こらなかったんですけど、帰りに足を掴まれまして。それでもう銃を創って今に至る訳です。」
朧は今にも笑いそうな声で言った。蓮花が眉を顰めている。
「うふふっ…君、本ッ当に面白いねぇ…!」
「な、何がですか!」
「『神様』に銃ぶっぱなすなんて、そう聞いた事もないよ!」
「え!?」
蓮花が狼狽えた様子で言った。
「わ、私なんて事を…!」
朧が話す。
「まぁそう慌てなさんな。夢で会ったんだろ?それは『莫奇』だよ。」
「ばくき、ですか。」
朧がそのまま続ける。
「『莫奇』なんて呼ぶよりも、『獏』と呼んだ方が良いかな。夢を食べる獏だよ。」
「あ、あの動物の?」
「それそれ。多分、獏が知らないって言ったのは、自分の名前の事だろうね。知らないというか、思い出せないというか。」
朧が少し考え込み始める。
「でも…獏は夢の中で何時もうろうろしてるだけなんだよ。ちょっと夢の世界を管理したり、そんなことばっかりなのに…何気に仕事気に入ってるのかな…?」
「どういう事です?」
蓮花がきょとんとして尋ねた。朧が応える。
「獏はね、物凄く清い者なんだ。だから、外気に触れるだけで体は痛むし、息を吸うだけで毒が体に回る。勿論、外の世界にも清い場所はあるよ。でもそんな場所限られてるし、身動きも取れないような場所だ。だから、真理は獏を夢の世界に押し込めた。」
真理は、朧の先祖。なんやかんやあって、朧は真理の事が大嫌いなのだが、それはまた別の話。そして朧が紅茶を入れ始める。蓮花が興味津々に説明を聞いている。そして蓮花は不思議そうに問うた。
「夢の世界って、そんなに綺麗な場所なんですか?」
んー、と朧が紅茶を入れる手を止めて続ける。
「綺麗、というか、何というか。夢の世界ってさ、意味分からないでしょ?自分が王様になってたり、何故か女優になってたり。」
「有りますね。あ、頂きます。」
朧が蓮花の前に紅茶を置くと、朧がまた続ける。
「うーん…綺麗と言うと違うんだよなぁ…そうだな…『混沌』、とか。」
「ムチャクチャって事ですか。」
「うん。そ〜いう事〜!」
ぼおっとしながら話を続ける。
「ムチャクチャだから、善悪もない。物事の善し悪しも存在しないから、無の世界なんだよね…言い方は難しいけど…。」
蓮花が紅茶を啜って言った。
「何にも無いって事ですね。」
「うん。だから夢の世界は綺麗も汚いもない。故に清い者は夢の世界を移動出来る者が多いんだよね。」
朧が紅茶を金の匙でくるくると回す。
「成程…!よく分かりました。」
また、周りが黒くなる。相手が何処にいるのかも、蓮花はもう分かっていた。ゆっくりと後ろを振り向くと、其処には銀髪の少女が浮いていた。
髪々の裾は、銀髪がきらきらと光り、10歳前後の様で、手首には鈴の腕輪が着いていた。服は装飾の無い白のワンピース。そして金の丸いコインの様な物を沢山つけたベールを纏っていた。
「貴女が、獏様ですね?」
少し浮いている獏は、屈んで蓮花を見た。
「…『獏』、で良い。」
その目は、人間の目と比べて黒々とし。見詰められると何処か気味が悪く感じた。
「それでは、獏。私の夢にどうして出るんですか。」
「『敬語』も、要らない。」
蓮花は苦笑いして言った。
「ごめんなさい。之は癖ですから。これでも大分抜けた方なんですよ?」
「んー……。」
獏は膨れて蓮花を見る。蓮花はその光景がいじらしく思えた。立て続けに蓮花は言った。
「あの…それで、私の夢に出てくる理由は?何か伝えて欲しい事が有るのでしょう?」
獏はつらつらと言った。
「…連れてって欲しい場所があるの。」
「連れて行って欲しい場所?それならいくらでも連れて行きますけど…。何処に行きたいんですか?」
獏は少し俯いて、申し訳なさそうに言った。
「名前、知らない。」
「へ?」
蓮花が拍子抜けした声を出す。
「名前、知らないの。それに…もう、時間。また、今夜。」
またもや水に流される様な感覚を受けると、目を開けた。
「うわっ…いきなり起きてびっくりしたぁ…。」
朧がぼんやりと言った。蓮花が笑ってため息を付く。
「仕方ないじゃないですか。獏が呼んだんですよ。そんなので拗ねないで下さい。」
朧はぶぅ、と口を膨らませると、続けて言った。
「獏はどうだったの。」
「行きたい所があるそうで…。でも、場所が分からんそうです。朧さん、心当たりありますか?」
「私をほっといて寝てた人には教えっませーん!というか知らない!」
「知らないんですか…。まぁまぁ、寝てた事は謝りますから、ほら、何でもしますよ。」
朧がちろりと蓮花を見る。
「…ホントに?」
「本当です。」
「じゃ、ご飯作って!」
「欠片も関係ねぇじゃないですかっ!」
はぁ、とため息を付くと蓮花が言った。
「オムライスでいいですか?」
「オムライスが良いっ!」
朧は犬の様にきゃんきゃんと騒ぐ。
「煩いです。…そう言えば、朧さん、食べ物で苦手な物って何ですか。」
朧は直ぐに答えた。
「え?ピーマンと、ニンジンとか、そんなん。」
「前々から思ってましたけど、朧さんの好みと苦手な物って子供では…?」
「違うもん!」
「…さいですか。まぁ、作ります。あ、冷蔵庫開けますね。」
蓮花は朧の後ろにある部屋を変更するレバーを『リビング』に変えると、冷蔵庫を開ける。卵を取って、油を取って、その他累々を取った。
「そう言えば…黎明は?何時も黎明がご飯作ってるんじゃなかったんですか。…兄弟喧嘩でもしました?」
朧がリビングに入って、椅子に座る。
「違うよ。黎明と私は仲良いからね。…黎明、ご飯作るの嫌がって、部屋に篭ってる。」
「それが俗に言う『兄弟喧嘩』なのでは…?」
違うよぉ、と朧が続ける。
「『ご飯を作るのが嫌ですわ!』って言って、部屋篭って、洗濯物してる。」
「ご飯作る以外なら何でも良かったんですね…。」
「なんやかんや言って、あの子は家事好きだからねぇ…。」
蓮花が口を挟む。
「あ、玉ねぎ多めが良いですか。」
「多めが良いでーす!」
「卵は半熟?」
「半熟ー!」
「分かりました。」
それでね、と朧が続ける。
「こういう日は、明日の夕飯が豪華なんだよね。黎明は自覚して無いみたいだけど。」
あ、そうだ!と朧が続ける。
「今日は皆で食べよっか!神無月も誘ってさ!蓮花ちゃん、大丈夫?」
蓮花が7時になりそうな時計を見て言った。
「構いませんよ。今日は叔母も遅いので。」
「うっわー!蓮花ちゃんフリョー!」
「不良じゃありません!というか朧さんが誘ったんじゃないですか。」
「まぁそうだけどぉ…。あ、神無月と黎明呼んでこなくちゃね。一人で大丈夫?」
「…私、高校生なんですけど。」
蓮花が不服そうに言った。朧がにたり笑って返す。
「20歳未満は未成年だからね?子供だからねー!」
朧がそんな事を言いながら去っていくのを見て、蓮花は呆然とした。
「…私これから、4人分作るんですか。」
何処かで朧が、しめしめと笑った気がした。
「やっぱり君は可愛いよ!」
「え?そうですか?嬉しいです。」
ナンパをしていた、瞬間、朧が固まる。ゆっくりと後ろを振り向くと蓮花が居た。
「…いやぁ、奇遇ですねぇ。こんな場所で会うなんて…。」
「あ、いや、蓮花ちゃん?あのね、これは深い訳があって。」
「…面白い事を教えて上げましょうか。今、神無月さんが、刀を砥石で研いでるんですよ。あと、黎明も包丁を研いでるんです。それでね、私は今、フライパンと、その研がれた包丁を持って来てるんですよね。」
「あ、あの。」
蓮花が無表情で言った。
「…黎明と、神無月さんを連れてきたのは褒めて遣わしましょう。」
「なんという上から目線…。」
「何か言いました?」
「滅相も御座いません。」
朧が恐れ戦き蓮花に言う。そして蓮花は口を重く開いた。
「さて、朧さん。朧さんは、今ここでずたずたに引き裂かれて鍋の具材にされるか、神無月さんに裂かれて妖怪の餌にされるのとどちらが宜しいですか。」
「その選択をしないというのは…。」
「黎明の手によって何らかの制裁を加えられます。」
「…取り敢えず、帰る。」
「英断です。」
蓮花は持って来ていたフライパンを首に振り下ろすと、綺麗に朧は倒れる。蓮花はそれの首根っこを掴むと、話していた女に言った。
「…あぁ、申し訳御座いません。この莫迦が面倒をおかけして。それでは。」
唖然としている女に蓮花は言うと、朧をずるずると引き摺って行った。
「姉様!お手柄ですわ!」
「有難う御座います。」
「うぅ…連絡先聞きそびれた…。」
蓮花がそれを聞いて首根っこを持っていた手を離すと、朧はがん、と床に頭を打ち付けた。その途端、携帯の着信音が聞こえる。蓮花の携帯だ。
「あ…失礼します。…はい、もしもし、叔母さん?どうしたの?…え!?あ、いや、別に…分かった。じゃあね!」
蓮花が青ざめて黎明と神無月に言った。
「叔母さんがあと10分程で家に着くそうです。ごめんなさい。帰ります。」
神無月が無言で蓮花の頭を撫でる。
「気をつけてな。」
「勿論です。」
「れぇんかちゃぁぁん…置いてかないで…一緒にご飯食べるって言った…裏切るなんて…ユルサナイ…。」
蓮花は笑いながらため息をついて言った。
「何で最後、ホラゲーチックになってるんですか。ほら、明日来るでしょう?それまで一人で居られますか?」
「…ちょっと無理かもしれない…。」
「じゃあ来ませんよ。」
「ちゃんといい子にしてる。」
朧が蓮花の傍の地べたに座って言った。フローリングがやたら冷たく感じる。
「…朧さん、私の分二つ食べれますよ。」
「ほんと?」
「本当です。」
「わーい!」
「5歳児…。」
黎明が呟いた。そしてまた蓮花は時計を見た。
「うわ…取り敢えず帰りますね。朧さんの後処理任せました。」
「任せろ。」
神無月が笑う。蓮花は荷物を持って走り出す。曲がって曲がって、その時だった。獏の声が聞こえる。
『…ねぇ、逃げて。』
「獏!?」
『早く…!』
家が見えた時に蓮花は鍵を取り出した。
『そのまま駆けて…!』
蓮花は足を止めることなくドアを閉める。制限時間はあと2分程だ。荷物をほおり投げ、家着に着替えて息を着くと、蓮花は獏に問うた。
「あの…どうして、走れと?」
何処かから声が聞こえる。
『…外、見て。』
蓮花が窓から外を覗くと、黒々として、どろどろした物が空中を浮遊している。それは、街全体を覆っているようで、夜空の喰っているように見えた。
「な…何ですか、あれ。」
『知らない。けど…あれは、良くないもの。』
どろどろは、空を舞い、何かを探しているように見える。目が一つぎょろりと付いて、地を這ったり空を舞ったりしている。
「追ってこないんですね。見えている筈なのに。」
『…少し前の貴女じゃ、気付かなかった。』
「それは、どういう?」
『少し、力が強くなってる、筈。追ってこないのは、家には、結界が、あるから。』
「結界…?魔物から逃げたり身を隠したりするものですよね。そんなのが私の家に?」
獏が言った。
『…違う。各々の家に、ある。暖かい、力。それが、結界。人を守れる。強いもの。』
「蓮花ちゃーん、ただ今ー!」
『…じゃあ、また、今夜。』
続けて叔母の声が聞こえる。
「ご飯どうしたの?食べてないの?」
蓮花は部屋の中から声を出す。
「なんか、叔母さんが帰ってくる様な感じがして、食べてないの。」
「そう…なら、何食べたい?」
蓮花は直ぐに返事した。
「オムライス!」
蓮花は眠りにつくと、獏が居た。昼間とは違い、毛先には金の飾りが付いている。蓮花は問うた。
「あの…それは?その、金の飾り。」
獏は無表情のまま言った。
「…私、飽き性だから。姿も変えるの。」
「夢だからなんでもありって事ですか。」
「そう。」
蓮花には獏が、少しだけはにかんだように見えた。そして獏は続ける。
「あのね、連れてって欲しい場所、だけど。」
少し思案している。
「鳴る、らしいの。大きい、鈴みたいな。」
「…大きい鈴、ですか。」
「それはこの街にあるらしいの。確か…川の近くだと、あの人が。」
「あの人?」
蓮花が訝しげに尋ねる。直ぐに獏は返事を寄越した。
「真理。朧月夜、真理。」
「真理!?真理って…一体どういう…?昔に、聞いたんですか!」
獏は表情も変えぬまま、蓮花を見つめる。
「…真理が…まだ生きていると…?」
「ねぇ。」
獏がどろどろした目を蓮花に向ける。そして言った。
「何故、貴女が、真理を呼び捨てにしてるの?」
「え、あ、すみませ、」
蓮花が謝ろうとした時だった。違うと、獏が言う。
「…違う、私は、怒ってるんじゃなくて、何故?貴女は、初対面の人には必ず敬称を付ける。だのに、何故?」
蓮花が返答に困っているのを見て、獏が更に続ける。
「…貴女は、礼儀正しい。許可が無いと呼び捨てか、愛称で呼ばない。滅多に口調は崩さないし、口調を崩すのは、心を許した時、だけ。」
「……。」
蓮花が一言止める。困惑して蓮花が言った。
「わ…分かりません…。」
獏は少し考えて言った。
「あ…ごめんなさい。無理、言った。ごめんなさい。大きい鈴、探して。川の、近くだから。」
蓮花はまた押し出されるような感覚を受けると、夢から覚める。
「…大きな鈴、か。」
蓮花が起き上がると、もうあと数秒で目覚ましが鳴るところだった。止めて、支度を始める。服を着て、ご飯を食べて、叔母の仕事の時間を聞いて、学校へ向かって、途中で苺飴朱と会って、授業を受ける。そんな普通の日々だ。少し前に貰った朧の言葉が頭に回る。元の世界に戻れと。けれど。
「御手洗さん。この箇所を読んでくれるかしら。」
「はい。」
両足を魔法使いの世界に足を突っ込んでいる生徒なんて、居ないだろう。
「『大きな鈴』…。」
蓮花は少し呟く。時計は残り5分を指している。が、この時間が身を焦がすように長い。恋愛で身を焦がすのと、時間で身を焦がすのは余りにも差があり過ぎる。何せ楽しくないのだから。
「…早く…鳴って…。ベル、鳴らないかな…。」
蓮花は聞こえるか聞こえない程度の音で、手をトントンさせていた。そして、時計が5分の所に来た瞬間だった。ベルが鳴る。
「はい、それで終わります。号令を…。」
「起立!」
がらがらと椅子を引いて、全員が立つ。適当に礼をして、6時間目が終わる。
「やったぁー!家に帰れるね!」
「そうですね、苺飴朱さん。」
「今日も疲れたよ〜!」
苺飴朱は机にグダリと倒れると、足をバタバタさせている。苺飴朱が蓮花の顔を覗き込んで言った。
「…どうしたの?何か考えてるみたいだけど…?」
蓮花は直ぐに答えた。
「…え?…ああ、ちょっと考え事を。知人が、『大きな鈴』の音が聞きたいと言ってまして。どうやら川の傍にあるそうなんですよね。」
「大きな鈴、かぁ……でも、鈴の定義ってあんまり良くわかんないけど、鳴るもの、だよね?丸っこい器に入って、中に玉が入ってる。それで川の傍?……それってさぁ…『時計台』、の事じゃない?」
蓮花がキョトンとして苺飴朱を見る。苺飴朱はその視線に応じる様に言った。
「ほら、この街は運河が多いでしょ?雰囲気が良いからって、時計台も多いんだよね。鐘がある時計台は…。」
蓮花が叫ぶ。
「アミャ通りの傍、ですね!」
「そうだよ。1時間に1回しか鳴らないから、次は…30分後だね。5時が最後だから、急いだ方がいいよ!」
苺飴朱が意気込んで言った。蓮花は荷物を引っ張ると、走りながら言った。
「ごめんなさい、苺飴朱さん!明日一緒に帰りましょう!」
「勿論だよ!頑張ってね!」
恐らく、苺飴朱が何処か勘違いしているのを、蓮花は知らない。
「朧さん!」
からからとドアにかかっているベルが、忙しなく揺れる。
「…蓮花ちゃんだ。そんなに急いでどうしたの?」
「行きましょう!」
「…何処に?」
「時計台に。」
「……この夏真っ盛りの、クソ暑い時に?」
「わりかし人格変わったかって言うぐらいには気だるそうにしてますけど、まだ7月ですよ!」
朧が少し顔を上げて蓮花に言った。
「…それが、獏の望むものなの?」
「えぇ!」
蓮花は明朗快活に答えた。朧はそんな蓮花を見ると、ため息をついて言った。
「分かったよ。時計台行くから…って、でももう時間無いじゃ無いかと思うでしょ?それがね、間に合うんだなぁ。」
朧は嬉しそうにぱちんと指を鳴らすと、蓮花と朧は空中に居た。
「…え…う、うわぁぁぁぁぁ!」
「うわー!すっずしいー!」
「んな問題じゃないでしょう!」
びゅうびゅうと、耳元で風が鳴る。身体中に重力がかかり、夏というのに風が冷たい。
「本当はね、『御者くん、目的地まで5分で着いたら金貨を上げるよ』ごっこしたかったんだけどね……。」
「しなくていいです!というか、朧さんは名探偵じゃないでしょう!」
「まぁ別に事件の真実なんか、直ぐに視えるから何でもいいんだけど。」
朧は素っ気なく答えた。蓮花がげんなりして言った。
「…良いんですか。此処は運河の街ですから、運河の街の名探偵ですね。」
「割とノリノリで考えてるじゃないか。じゃ、君は助手ね。」
「事件を1個1個小説書いてたら、R-18Gで売らなくちゃ駄目じゃないですか。医学博士の免許も取らなきゃいけないなんて…。」
「困った時は武力で解決!」
「そんな名探偵嫌ですよ!」
朧が下を覗く。そして言った。
「あ、もうそろそろ着きそうだよ?」
蓮花が下を見ると、エレクトローネ随一を誇る、アミャ通りの時計台が見えて来る。朧が懐中時計を見ると、呟いた。
「…あと3分か。なかなか涼しかったね。」
「寿命縮まるかと思いましたけど…。」
「そういうのも、人生には必要だよー!」
蓮花が朧を呆れて見ているのを他所に、朧は蓮花の手を引いて川べりの木の傍へと下ろす。
「にしても……どうして時計台なんか望んだんだろ。思い当たる節が無いんだけど。」
「…獏が望んでいるものですから、何かしら理由があると思うんです…けど、よく分かんないですよね。」
「そうだね…あ、鳴るよ。」
その途端、がらん、がらん、と鐘が鳴る。数羽の鳩が飛び、周りの鐘も共鳴している。
「うわぁ…凄いですね…こんなに近くで見た事ありませんでした。」
「そうだねぇ…偶には来てみるか?」
朧は少し自問自答気味に言う。蓮花の耳の側で声が聞こえた。
「…ありがとう。」
夢の中でも、この世界でもぼやけていた獏の声が、今はっきりと聞こえた。蓮花の周りから銀光の粒が起こり、その粒がベールの様に鐘を巻く。朧が慌てふためいて言った。
「ば、獏様。こんな所に居ては、身が汚れてしまいますよ?」
獏は少し微笑んで言った。
「獏で構わない。それに、今なら大丈夫だから。」
蓮花が不思議そうに問う。
「どうして、鐘の音を聞きたかったんですか?」
獏は直ぐに答えた。ふわふわと浮いている。
「…鈴には、浄化の力がある。だから、鐘にも力がある。だから、身を綺麗にしたの。」
「そう、だったんですか。」
獏がゆっくりと向こう側を指さした。橋の反対の方向だ。
「…ねえ、蓮花。彼処に神楽鈴がある。いっぱい、鈴が着いた、巫女様が持っているもの。取ってきてほしい。」
「分かりました!」
蓮花は直ぐに承諾すると、朧を見据えた。
「…なかなか上手い話のごまかしようですね、獏。」
「貴方こそ、そうでしょう。真理に怒られるのが嫌だから、嫌々敬語を使っているもの。」
朧はくすりと笑うと言った。
「まさか。……あれは面倒臭い存在ですが。」
「…貴方は真理の息子なのに、似ても似つかないのね。優しさはあの人に似ているけれど、それもほんの少しだわ。強いて言うなら貴方のお父上、滄助に良く似ているのね。」
「……彼処まで性根を腐らせていませんよ。私はね。」
「そういう所よ、滄溟。」
朧は話を切り返す。
「そう言えば…貴女なら知っているんじゃありませんか。真理の行方を。死因を。全てを。」
獏は答える。
「…死因は知らないわ。死んでいる所なんて、見た事がないけれど…滄助が、あの人の魂を受け継いで、自分の所有物にしたあたり、あの人は死んでいるようね。その他は、全く知らない。旅を少ししていただけ。」
ねぇ、と獏が続ける。
「貴方こそ何か知ってるんじゃないかしら。貴方は、滄助が生きている可能性を見出しているのではないのかしら?何かきっかけになる様な」
「獏。」
朧は獏の話を遮る。そして無表情に言った。
「…余計な詮索はしない事だ。私はあの人が父親では無い事を知っている。ただ、とてつもなく似た人だ。転生して前の魂の記憶を持っていたとしても、只の霊魂だったとしても、今幸せに私が生きている事に変わりはない。」
その雰囲気にゾッとして、獏は後ずさりした。
「そんな反応するから、真理に付け込まれるんですよ。別に真理は貴女の事を好きだった訳じゃない。何時までそんなしょうむない幻想を見ているんです?」
獏は狼狽えながら言った。
「ち、違う。私は、そんなんじゃ。」
「所詮は半妖の輩ですね。慌てふためいて、人間の様だ。」
朧はくすくすと笑う。普段表情の出さない獏に、焦りが出ている。朧はすっとぼけて言った。
「ああ、それとも…それ程に怨恨が有りますか?父親に。自分の最愛の人の魂を、所有物にされて。もう1度会えると思っていたら、知識に貪欲な少年がいた事を。40年前、父親がまだ少年だった頃に、貴女の大切な物が、持ち物になってしまっていた事がそれ程までに悔しいですか。」
獏は耳を塞いでいる。
「やめて…やめて…それ以上、言わないで!」
「そして、貴女は私の事が大嫌いだ。………全く、面倒臭い事極まりない…。」
朧はぼんやりとしながら爪を噛むと、ばき、と音がする。無慈悲にも爪が割れ、掌に血の筋がたらたらと流れる。
「…あ。」
朧は声を上げる。獏が朧を見下して言った。
「…大人になってそんなの、みっともないわ。」
朧は割れた爪を見て笑う。
「いやぁ、ねぇ。考え事すると爪を噛むくせが未だに治らなくて。気が付いたら手がぼろぼろですよ。」
朧は笑って手を見せる。爪は所々割れて、指は擦り傷が沢山いっている。朧は呟き始めた。
「ただ、考える事は美しい。自分の小宇宙に身を潜め、孤高の存在として生ける。脳味噌が崩れ落ちるまで思考を纏め、周りの事など意図もせず、体の中身を溶かすように。まるで羽化する蝶の様に体を溶かす事は、世界で何よりも美しい。汚れも、清浄も、全てを混ぜたその存在は、誰にも理解されぬまま。ただひたすらに自分の中で、自分以外の事を無視して考える事は、真に真に美しい。天上天下見受けられぬ、人に与えられた最大の贈り物。それこそが、『考える』という事。」
獏はその様子を見て、吐き捨てる様に言った。
「滄助も、昔そんな事を言ってたわ。あの人は考え過ぎて頭を痛めていたけれど。」
「…あの人ならありがちなお話ですねぇ。」
朧はくすくす笑う。
「まぁでも、あの人と同じというのは…何処か癪に障りますが。」
そうだ、と獏が思い付いた様に言う。
「これを貴方に。返しておくわ。」
獏は手をお椀の様にすると、其処には銀のバレッタがあった。彫刻が施してあり、月と太陽が刻印されている。朧はそれに手を伸ばしたが、途中で手を止めた。
「……私は、これに触れる事は出来ません。貴女がそれを大切にしているのなら、尚更。」
その瞬間、獏の目が潤んでいく。直ぐに、滝の様に涙が溢れて、声を震わせながら言った。
「……そう、なのね……それだ……け、過ぎて、しまったの……っ……あの人が……最後に……与えてくれたもの、なのにね……ちゃんりの、バレッタ……。」
朧は苦しそうに尋ねた。
「そこまで真理を愛する理由はなんです?私には理解できません。彼奴は余りにも平和ボケし過ぎた。それ故、私以外の皆に迷惑をかけて、そんな奴の一体何処が良いんです。父も、真理も、皆同じだ…。」
その様子を見た獏は、目を細めて言った。
「…この思いは、きっと真理には届かない。私を愛していたわけでは無いものね。それでも、愛というものは、何処までもその人に甘く、厳しくあるものなのよ。」
きっと、と獏は言った。
「……貴方にも、理解出来る日が来るわ。」
あぁ、そうだ。と朧は付け加えた。蓮花が来るのを横目で見て。
「そのたどたどしい感じ、特に可愛くも無いですよ。真理に言われたみたいですけど。」
獏はつん、とそっぽを向いた。そして向こう側から声が聞こえる。
「獏ー!朧さーん!」
蓮花は鈴を持ってぱたぱたと走ってくる。
「獏!見つけましたよ!これでしょう?」
「………ぁ。」
獏は小さく小さく声を上げた。朧は必死に笑いを堪えている。
「ふふっ…っ…ふふふっ…。」
「へ?」
蓮花が何かも分からない感じで、ぼんやりとしている。朧は呵呵大笑した。
「ふふっ…あっはっはっは!蓮花ちゃん、君は最高だよ!最っ高の人間だ!」
獏は朧を睨む。
「…滄溟。貴方…。」
朧は笑い過ぎて出た涙を拭いながら言った。
「そうですよ……あははっ……本来それは、常人が手に入るものでは無い……!だって、国宝だもの!」
くつくつと朧は笑う。獏はそれをただひたすら睨む。
「……能力、解放したの?」
朧は返事もせずただひたすら笑い転げて居る。蓮花が冷や汗をかいて言った。
「と、と言う事は…!」
途端、サイレンが鳴る。
「警察が…来るんですか…?」
「ご明察!そういう訳で…!」
朧は獏に向き直って愉しそうに言った。
「とんずらさせて頂きますよ。それでは、獏。」
朧は恭しく礼をすると、蓮花の手を引いて逃げる。蓮花の去り際に獏が神楽鈴を手から取る。
「有難う。また助けがいるなら呼んで。」
獏は優しく笑うと、蓮花を朧の方へと背中を押す。朧は驚いて獏を見ると、仕方なさげに獏は笑った。朧は呟くように言う。
「…またいつか、莫奇。……蓮花ちゃん、行くよ!流石に神様が国宝盗めと言ってサツに捕まるなんて笑えない!全宗教徒に悪い!」
「朧さんの素行から基本的に悪いです!」
朧は走りながら言った。
「10年前、教会行って『私が神様でーす!』って言ったら精神科に行く事を促された!」
「普通そうでしょうね!」
「…腹立ったから後で全員ボコったけど。」
「何か言いました?……て、早くしないと本当に捕まりますよ!」
「いやぁ、一生に一度体験出来るかどうかだよ?身に染みて覚えておかないと、ねぇ?」
「それで捕まったら洒落になんないですからね!」
続くサイレンの音と、陽気に逃げる神と人。その笑い声は、天に谺した。
よろしくですー!