ラプラスの魔物 第二魔物 1
朧月夜 滄溟は暖かい潮風の当たる浅瀬の海で目を覚ました。其処に己が立っていて、浅い海が永遠に続いている。膝と踝の中間ぐらいの深さで、南国の海の様に透き通っていた。勿論靴は履いていない、
素足の状態だった。朧の片目には『ラプラスの魔物』はおらず、硝子の紫水晶の目。そして、相も変わらず癖毛の紫の髪。遠くに、島がある。建物が無造作に積まれ、申し訳程度に橋がかかっていた。朧はぼんやりと呟く。
「…此処、何処…?それに…。」
遠くから、小舟が近付いてくる。じゃわり、じゃわりと波を押しのけて来る。そして朧の丁度近くで止まった。相手の男は言う。
「乗りな、あんちゃん。」
「あ……はい。」
頭の奥が、ずきずきと痛む。相手の男は、深く麦わら帽子を被っていて、人相が良く分からないが50代前後の装いだった。男が船の端に置いてある物を指指して言った。
「…それ、あんちゃんのもんだろう。長い膝くらいまであるブーツと靴下。」
朧はそれをゆっくりと見ると、思い出した様に履く。ズボンをまくり上げて靴下を履き、膝近くまである編み上げのブーツに足を入れて、手馴れた手つきで紐を掛けていく。その上にズボンの裾を元に戻す。朧はゆっくりと思考を巡らせる。しかしそれは直ぐに絶たれた。男は言った。
「着いたぜ。」
朧は舟から降りる。男は続けた。
「…あんちゃんは海に入っちゃいけねぇ。分かったな。」
「わかりました。…でも、どうして?」
朧はぽつりと尋ねた。相手の男は何も返さない。そして朧はもう一つ尋ねた。
「…あの、私は此処に来るまでの記憶が一切無いのですが…。」
男も舟から降りて言った。
「此処に来る奴は皆そうさ。気にするこたねぇ。」
「そう、ですか。」
朧は海岸の途中からベージュの煉瓦造りの道に向かって歩きはじめた。子供が朧の周りを駆け巡る。女の子が言った。
「お兄ちゃん、新しい人?」
「うん。君は?」
「うちはずっと前から居るの!楽しいよ!」
「そう。」
朧は優しく応えると、脇道の階段を登り始める。一番上まで行くと、アーチが有った。そして、ベランダの様なものが付いている。朧は其処から、小道の様なものの中に入った。細い壁の奥に、一軒の小さな家がある。そこには『Yours』と書かれていた。斜陽が傾き始める。
「…『貴方のもの』か。」
朧は細い道に戻ろうとしたが、先刻と道が変わっている。細い道は壁に飲まれ、周りの道すら残っていない。朧はその家の中へ恐る恐る歩みを進めた。部屋は誰もおらず、玄関から一直線に窓がある。木枠で出来た窓からは、青い海が見えた。
乱雑に書物が置かれ、煙管と着物が散乱している。朧は思い立った様にそれに着替えると、煙草を吸う。黒檀で出来た羅宇には何も刻まれておらず、恐らくは銀で出来た雁首と吸い口が恐ろしく美しい。朧は言った。
「…煙草吸うなんて何年ぶりだっけ。というか私は吸った事が有るのか…?」
紫煙を燻らせてぼんやりと空を見る。
「分かんないなぁ…暫くやめてた気がするんだけど…。確か…誰かに止められて…。」
親密な誰か。煩くて、仕方なくやめたっけ?
「…他にも…何か…止められた気がする……とても…大事な…。」
朧はその考え事をしている間に、金色の陽は地に還る。代わりに生まれたのは白銀の月だった。
「…入れ替わりが早いこと…お腹空いたな…。」
朧は白い浴衣の上に椿の刺繍がされた豪勢な着物を羽織ると、外へ出た。また、道が変わっている。朧は適当に道を選ぶと、欠伸をしながら階段を駆け下りた。石造りのテラス風の橋から下を除くと、夜店が出ている。
「……何でもいいや。」
いざとなれば、盗る事も厭わない。朧はどうでも良さげな思考を回らせると、夜店へ向かった。ほら、と誰かからもつ煮込みを渡される。相手は短く切った紫色の髪の毛を風に靡かせて闇に溶ける。わりかし、量が多い。
鍋レベルで渡された様だ。朧はまた、適当な道を選ぶと、いつの間にか自分の部屋に着いていた。
「此所の道は、自分の家に着くように設定されているんだね。…此所の、道は…?」
朧は自分が言った事を反復する。部屋のど真ん中に土鍋を置くと、添えられていた箸を使って食べ始める。
「美味し…な……でも……おむらいす…が食べたい。」
朧は全て食べると、ゆっくりと目を閉じた。
「え…うわ…寝てた…。」
朧は昨日の記憶を確かめようとした。しかし、外から二胡の音色が響く。女の声で遠くこだましている。朧は少し浴衣を整えると、窓から下を覗いた。
女の周りには、子供や大人が数十人程いる。朧は煙管を持って窓から降りると、近くに居た人に尋ねた。女は白い布切れを被り、顔は見えないが、唇だけが見える。しかし長い黒髪なのは分かった。
「あの…あの方は?」
男は答える。
「二胡の名手なんだよ。時たまこの島にやって来て、弾いては溶けるようにして帰る。」
女は朧を見て演奏を止めた。そして、新しい小唄を弾き始める。
「現し世は変わらぬ空の色
ひらり ひらり 華落つる
流し流れの水の色
変わる事は無しにけれ
華の牡丹も変わらぬと
ひらり ひらりと散りにけれ」
女の声は、清水の如く透き通っていた。途端、朧の頭に警鐘が鳴る。心臓が早鐘を打つ。朧は頭を抑えて蹲るが、誰1人とて気付かない。
「あ…助けて…お、思い出しちゃ駄目だ…嫌だ…。」
その様子を見て女は立ち上がると、朧の手を軽くとる。そして幾つかの通りを通ると、ある筋を指さした。黒髪が風に靡く。そしてその通りは、ベージュの煉瓦造りでは無く『朧古書堂』がある、エレクトローネの通りだった。
女は少しずつ消えていく。いや、紙が燃えていく様に女は消えた。朧は恐る恐るその通りを歩く。金字の明朝体で書かれた『朧古書堂』の扉をゆっくりと開ける。奥には、人が居る。知っている人。朧はそれを見て鼻で笑った。そして透き通っていた目は、曇り硝子の如く曇っていく。
「…『ラプラス』。獣風情が私の真似をするんじゃない。帰るよ。」
途端、朧は元のベージュの道へ戻った。朧は海岸へと足を進める。そして右目には太陽を囲むように鉄の鎖がある、『ラプラスの魔物』の紋章があった。
「我ながら悪趣味な事だ。」
その呟きに応えるように子供が駆け寄る。
「お兄ちゃん、危ないよ。海岸は、危ないよ。」
朧はその子の頭を撫でると言った。
「…君達は危ないかもしれないけど、私は危なくないから。」
砂浜へ着くと、恐る恐る朧は足を入れた。周りの水が赤く染まる。それを見て溜息を付くと、10歩程歩いた所で、朧は言った。
「己が殺した人をこんな所に閉じ込めるなんて、我ながら悪趣味だと思いませんか?…馬借殿。」
朧は一番最初に殺した相手へ向かう。そして相手は言った。
「そうかもしれないな。もう俺は知る術なぞ無いさ。」
「そうですか。」
朧は一つ置くと、そのまま続ける。『ラプラスの魔物』をなぞりながら話す。
「…己の為、妹の朧月夜 黎明の為……そして『ラプラスの魔物』を目覚めさせるが為、人殺しに明け暮れた日々から10年経ちました。何時までもその事実は追いかけてくる……逃げられぬとは理解しても、それでもこの楽園もどきを創る…私は本当に悪趣味だ。」
朧の服はいつの間にか、何時もの茶色いベスト風のスーツに白いワイシャツに変わっていた。朧はふと顔を上げると『楽園もどき』は崩れ落ち、足元には大量の死体や肉片、脳漿などが飛び散っていた。朧は馬借に向き直り、問うた。
「馬借殿、此処は『楽園』でしたか?」
馬借は恨めしそうに朧を見ると、素っ気なく応えた。
「……此処は、『地獄』だ。」
「そうでしたか。『神』が創る物は、何でも『楽園』では無いと…勉強になりました。」
朧は憎たらしい笑顔を見せつけると、瞼を閉じた。
穹窿高校三年生の黒髪ロング学生、御手洗 蓮花は、初夏の暑いエレクトローネの『朧古書堂』へ向かっていた。
「黒髪は夏に弱いですね…もう倒れそう。」
蓮花は『朧古書堂』のバイト。という名の朧の面倒だ。ガチャりと扉を開けて、薄暗い店内へ足を踏み入れた途端だった。
「…何ですかこれ。……水?」
蓮花の足、5、6cm程の浅さの水が古書堂内を覆い尽くしていた。
「…………は?」
朧が何時もいる、古書堂のカウンター席に朧が居ない。その代わりに席の奥の扉が開いており、恐らくは人の腕だろうと思われる物がだらりとたれているのが見える。蓮花はカウンター席にうまく飛び上がると、ベッドの上に寝ている朧に声をかける。
「朧さん、朧さん、死にましたか!?」
「んん…だから老衰と自殺以外で死なないよ…私……そして……まさかの……夢オチ…。」
朧は目を擦りながら蓮花に言った。
「なんで起こしたの…。というか…今何時…?」
蓮花は溜息を付きながら朧を見て言った。
「はぁ。そりゃ店内が水浸し&いつもの場所に居ない上若干半裸で寝てたら起こしますよ。流石に。あと、今は17時です。」
「そんな、寝てたの…。」
蓮花が声をかけた。
「あ、朧さん、お水持ってきた方が良いですか?」
「お願いするよ…。」
「了解しました。」
蓮花は外に出て行くのを見ると、朧は釦が取れていたシャツとベストを整えて、足元に転がっている茶色いボトルを取る。
「…今でも夢の中でも頭が痛いのは此奴のせいか…随分リアルに再現されたものだねぇ…。」
もう半分程しか液体が入っていない『睡眠薬』と書かれた瓶を隠すように置く。朧が呟いた。
「……今日は黎明と白羽が来るね。サプライズとか私は未来が視えるから意味無いのに。」
白羽ーーー神無月 白羽は、エレクトローネの街の近くにある、花霧町の払い屋。朧は蓮花の足音を聞くと、ぼんやりと空を見つめていた。
またまた帰ってきました!ちまちま更新致しますので、宜しくお願いします。