第16話 白い箱庭
これは、きっと夢だ。
漂うように、景色から浮いた視界。
眼下では真っ白な部屋が映し出されていた。
真っ白なベッドから上半身だけを起こしている少年がいる。
眩むような蛍光灯に反射するような、日焼けを知らない――淡く日焼けしていた過去の色すら抜き去るような年月を屋内で過ごした――病的な白い肌。
少年らしいというよりは、緩やかに衰えてゆく腕。
少年は、外の世界を繋ぐたった一つの窓に視線を投げかけて、移ろって行く外の世界を眺めていた。
桃色の花が咲く春の柔らかい日差しを遮断して。緑が眩しい茹る様な夏を排斥して。色鮮やかな紅葉が風に流され行く秋を締め出して。色が抜けた白銀の雪を積もらせる冬の夜を和らげて。
季節は移ろって行く。
はめ殺しの窓を隔て、少年を――僕を置いてゆくように。
「――僕、か」
声が、音を形作らずに溶けて消える。
少年を自分だと認識した途端、引きずられるようにして視界が、感覚が、少年のものと混ざり合った。
身体が重い。かろうじて車椅子でなら動くことも可能だろうが、それをするだけの気力は湧いてこない。
泣くほどの水分も勿体無い。そもそも、泣き喚くだけ寿命が縮む。そんな確信。
何もない世界では、やることなんて本を読むことくらいだった。
最初は、テレビもあった。けれどすぐにつけなくなり、気づけばなくなってしまっていた。
外の情報を耳に入れる価値がない。外とはつまり、僕とはもう関係のない世界のこと。ならば、聞いていても空しくなるだけだと、――に言った記憶がある。
それを聞いたときのあの人は、それはひどい顔をしていたのを覚えている。
怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ一言。「そうか」と言って、テレビを片付けさせたあの子は、吐き気をこらえるような土気色の顔をしていた。
ひどい事を言ったものだと、今更ながらに思ってしまう。
ずっと心配してくれて、ずっとそばにいてくれた。それなのに、僕はそんなことしか、言うことができなくて。
ペラペラと、緩やかにページが捲れる音が心地よかった。
文字に目を落とす。読めない。字が、かすんでいた。
記憶の中の本はそういうもので、でも夢の中の当人はしっかりと読めている気になっているそうだけど。これも同じことなんだろうか。
不意に外が騒がしく感じる。
静けさになれた耳が異音を捉え、それが僕のほうへと近づいてくる。
「■■、起きてるか」
黒々とした髪を乱雑に流した、怜悧な雰囲気を纏った少年だった。
もう少しすれば、青年と呼んで差し支えないだろう年齢に届くその人物の隣に、同い年くらいだろう少年がそわそわした顔でたっていた。
そちらはどちらかといえばやんちゃそうで。病院にいるには不釣り合いなように見える。
「お前が――の弟か。ふ、すべて俺に任せておけ!」
覚えている。
この少年が、僕と……兄との世界を変えてくれた人だ。
うその様に目まぐるしく世界が変わる。
真っ白な世界に持ち込まれた、妙に奇をてらったデザインの機械。
それがあげる奇怪な音に、病院の職員がかけつけては怪訝な顔をする。
僕ら3人は、それに対して平謝りをしながらも、内心では笑っていた。
楽しかった。
楽しかった。
楽しかった。
春が過ぎて夏が来て、汗をたらしながら入ってくるやんちゃな少年ときっと走ってきたのだろう、呆れ顔をしながらも額に汗を滲ませた兄さんを迎えて、また実験。
夏が終わり、秋が来たころには、唐突に焼き芋をしようと言い出して、やんちゃな少年が病院の庭先で火を起こして職員に大目玉を食らって。僕も手伝ってしまっていたけれど、僕だけは怒られなかったり。
冬になれば、かまくらを作ろうと言う彼と、病室に置ける雪ウサギにすべきだという兄が喧嘩をして、どっちにしても雪は菌がいっぱいだから触れないよと諭すと、2人はそろって固まってしまって。
それがどうにも雪像みたいだと僕が笑えば、2人はぎしぎしと軋む音がするんじゃないかってくらいぎこちない動作で笑い、それから本当に笑顔へと変わって、結局3人でゲームをした。
ゲーム。そう、ゲームだった。
彼には夢があった。
僕は、それに協力したかった。
兄さんも手伝ってくれて、3人で。……3人で?
だれか、だれかが。いたような。
……わからない。
ぐるりと、景色が変わる。
それは草原。風ひとつない、なだらかな丘の上。
一本の木が生えただけの、何もない世界。
僕と、兄さん、そして、青年となった彼がいた。
無味乾燥とした世界に、ひとつずつ物が増える。
僕がやってみたかった、雪なしですべるソリ。
僕がたべてみたかった、遠い遠い異国の料理。
僕がきいてみたかった、深い森の奥の音色。
最初はおかしなことばかりで、それがだんだんと形になる。
充実した日が、転げ落ちるように足早に過ぎていった。
再び景色が白い部屋に戻る。
この頃になると、窓はあっても、外を移す事はなくなっていた。
規則正しく動く計器の音と、唯一そこにいる存在の弱弱しい呼吸音。
その二種類の音だけで成り立つ空間だった。
――コンコン、と。音が響く。
それは窓の外。面会用に創られた窓の外に、黒い青年がいた。
何時でも僕の手を握ってくれた兄さんは、すっかり大人と呼べるような青年になっていて。
その隣に立つやんちゃだった少年は、悪戯っぽい雰囲気が垢抜けた青年になっていた。
……僕は、もう腕も上がらない、枯れ枝のように細くなっていた。
会う頻度は変わらない。世間がどんなに大きくにぎわっていても、その中心が目の前の2人だったとしても。
僕と兄さんと彼の関係だけは変わらなかった。
普段はとめられるはずの無菌室に2人が入ってくる。
最後の日だからだ。
兄さん……僕を励ます為に会いに来てくれる、大事な人。
彼……僕の世界を広げてくれた、大事な人。
●●……僕のできなかったことをしようとしてくれた、大事な人。
毎日飽きずに、一日たりとも欠かさずに会いに来る彼らの為だけに、僕は生きていた。
彼らのお陰で、僕はとても満ち足りていた。それでも、僕は願っていた。
「神様。もし……なら。――ように」
擦れたような小さな声が、嗚咽に混じって懇願した。
彼が泣きそうになりながら、必死に何かを言ったのを、どこか遠くになってしまった感覚で、目の端に捉えていた。
「――」
声が、聞こえた。
それは僕の懇願を、聞き届けてくれた声だったように思う。
僕は静かに微笑んで、白んだ天井の、チカチカと瞬く明かりを退けるように目を閉じて……
「これで……なんだ、ね。神様。ありがとう」
隣で、僕の手をとっていた兄さんの声が耳に残る。
「いや、いやだッ……行くな、■■ッ!!!」
遠くなる意識の中。水面へ向かう泡沫の様に軽くなる錯覚に体から力が抜けていく。
――最後に残された泡がはじけて、景色が揺らいで滲み出すと、僕の意識は急速に身体から離れていく。
夢が終わる。そんな確信を抱く中で、僕の抜けた身体が、かすれた最後の言葉を吐き出していた。
「これからは、僕の分まで、好きに生きて……さよなら――兄さん」
まるで謝罪するような、贖罪するかのような声が、耳に残った。




