SCENE 4
バイトも終わり、真澄は家路に着こうとしていた。ラストまで残っていたのは真澄と恵子。全ての業務を終えて、店の鍵を恵子が掛けている所だった。
あの後、恵子は丁度休憩時間だった事もあり、少し落ち着いた所でバックヤードに入っていった。書類もマグカップも真澄がきれいに片付けていた為、バックヤードでの出来事を恵子に気取られはしなかった様だ。
「……今日は見っとも無い所見せちゃって、ごめんね」
恵子の言葉に、真澄は軽く首を横に振った。実は、真澄は人の感情を見るのが嫌いでは無い。例え、それが世間一般に見苦しいとされる事だとしても、素直に感情を外に出せるその様が。それは持たざる者が持つ者を羨む、複雑な感情なのかも知れない。
「高杉さん」
吐く息が白くなる程では無いが、それでも身を刺す寒さの中、徐に真澄は口を開いた。
「こんな事言うのは、きっと酷だとは思いますが……余り、店長の事を思い詰めないで下さい」
驚きに恵子の目が見開かれた。彼女は素直に感情を瞳に表すので、その大きな黒い瞳が真澄は好きだった。今はそこに、哀しい様な怒った様な複雑な表情を宿している。
「有体な言葉しか出てこないんですが、きっと高杉さんがそうやってずっと悲しんでると、店長も安心して成仏出来ない気がします」
今度は、恵子の瞳が怒り一色に染め上げられる。こんな時ですら、真澄はその瞳をずっと見続けたいと思ってしまうのだ。けれど、それを表情に登らせる事はない。しないのでは無く、真澄には出来ないのだ。
「…………そんなっ」
何かを言い掛けて、けれど恵子は言葉を止めてしまった。飲み込まれた言葉は『あなたに何が分かるの』だったのだろうか、それとも『何も知らないクセに』だろうか。何にせよ、否定の言葉だったに違いない。
暫くの間、恵子は視線を真澄から逸らしたまま、下唇を噛んでいた。しかし、不意に力を抜いた様に肩を落とし、ゆっくりと真澄へと顔を向ける。
「分かってるの、それは」
今度は決意に似た諦めの表情が、黒の中に現れる。真澄はじっと、それを見詰める。
「こんな風に何時までも、引きずるのって良くないのは」
ぽつり、ぽつりと。恵子は自分に言い聞かせる様に、語り出した。
「最近、特におかしいの、私。ドアが開けば向井てんちょが入ってきた気がするし、勝手に棚メンテナンスがされてれば、向井てんちょがしてくれた気がしてた」
決意を示していた黒が、滲む。それが涙で瞳が潤んでいるからだと気づくのに、真澄は少し時間が掛かった。
「それが、本当に酷くなってきて……今日なんて、出て行く向井てんちょの姿が見えてた」
涙を流す事が見苦しいと思っているのか、恵子はぐっと涙を堪えている。それは泣けば負けだと思い込んでいるかの様だった。
「きっと、私、おかしくなってきてるんだ……」
「居ました」
恵子の様子に耐え切れなくなったのか、真澄は気づけば口を開いていた。
「私も見ました。店長の後ろ姿。ライトグリーンのセーターを着てました」
「え……? 篠藤さん、も……」
真っ直ぐに見詰めてくる瞳を、真澄は確りと見詰め返す。その色を、覚え込もうとするかの様に。
「きっと、高杉さんが心配で、ちょっとだけ様子を見に来てたんです」
「ほん、と、に……?」
恵子の言葉に真澄が強く頷くと、恵子の瞳から堰を切った様に涙が溢れ出た。
「……ぅう、ご……ごめんなさっ……ごめっ……むかっ、てん、ちょぉ……」
泣きながら、何度も恵子は謝った。ひたすら、向井に謝り続ける。
「しんぱっ……かけ、て……ごめっ…………だぃ、じょうぶっ、です……も、だいじょ……」
泣きじゃくりながら、何度も繰り返す。私はもう、大丈夫です。心配しなくていいです。ちゃんと、やっていきます。安心して、成仏してください。嗚咽交じりにそう、恵子は言っていた。咽の奥が涙と声で詰まり、痛みすら上げながらも、それでも何度も何度も繰り返し続ける。
泣きながら、全ての感情を吐露するその姿は、見る者が見れば滑稽であるだろう。けれど、真澄にとっては尊くすらあった。人らしく人の感情を現す、その姿が。