SCENE 2
真澄はバックヤードに入ると自分のロッカーに荷物を置き、まずは長い髪を纏める。簡単に三つ編みにして、米噛み付近と耳の近くをピンで留めた。髪の毛の纏め方が見苦しく無いかチェックする為、真澄が後方にある鏡を振り返る。特に気になる点は無いと思った瞬間、予期せずバックヤードと店内を繋ぐドアが開いた。
まず視界に飛び込んできたのは、鮮やかな緑。それは並木道で見た、ライトグリーンのセーターだった。鏡越しに見たそれを、真澄はゆっくりと振り返り確認する。
「…………お疲れ様です、店長」
入ってきたセーターの男性は、この書店の店長だった向井。真澄にとっては面接時や初期指導などでお世話になった、有難い人物だ。接客業の鑑の様な人物で、何時も柔和に笑っている。
「ああ、お疲れ様。いつもご苦労様だね」
真澄の掛けた声に、向井は微笑んで言葉を返してきた。そして室内に備え付けられている机へと着くと、そこの引き出しから書類を取り出し、徐に計算を始める。月末が近いので、何かしらの処理をしているのだろう。
「すまないね、仕事が立て込んでいるもんで……気にせず時間までゆっくりしていいよ」
真澄が立ったままなのを気にしてか、向井はそう言ってまた微笑んだ。真澄は向井の言葉に甘えようかとロッカーの前に移動したものの、少し思案する様に動きを止める。目を閉じて逡巡し、そして決意とも思える様子で瞳を開けた。
「…………」
無言で真澄は部屋の隅にあるポットへと進む。スタッフ同士が共同で購入したコーヒーや紅茶が、そこへは置かれているのだ。その一つ、向井が家から持ってきたハーブティーを手に取る。クリーム色のその紅茶の缶からは、微かにマスカットに似た香りがした。
ポットの脇に置かれた一番奥のマグカップを取り、それにその紅茶を淹れる。湿気を含んだ暖かな空気が、寒い部屋に潤いを与えた気がした。
「どうぞ」
言いながら、真澄はそっと今し方淹れた紅茶を向井の横に置く。湯気に乗って飛ぶ甘い香りに、真剣過ぎる程真剣に書類を睨み付けていた向井の表情が少し和らいだ。
「ありがとう……」
そう言うと、向井はしみじみとマグカップを見詰め、温まったマグカップに手を添える。そのまま、まるで悴んだ手を温める子供の様にずっとマグカップに手を添え続けていた。
「……この紅茶はね、妻が旅行のお土産にと買ってきてくれたんだ」
ぽつり、言葉が漏れた。向井の視線は登る湯気に留められたまま。
「風邪を引いた時に飲むんだそうだよ。僕はよく、風邪を引くから、と」
じっと湯気を見続ける向井の目は虚ろで、言葉は淡々と続けられていた。
「このセーターもね、手編みで。去年のクリスマスに貰ったんだよ」
気の所為か、顔色が悪く見える。いや、青白く、透き通ってさえ思えた。
「……思えば、その頃からかな。仕事が忙しくなってね」
「…………」
向井の言葉を、真澄は無言で聞いていた。確か、向井がこの店の店長となったのは、去年の年末前と聞いている。その頃から、仕事も忙しくなったのだろう。
「帰るのは夜遅く、出掛けるのは朝早く。休日なんて、有って無い物だった」
向井の表情は一層虚ろに、言葉は最早真澄に言っているのかも怪しかった。
「家に居る時間は減っていって、まるで僕はここが家の様になっていたよ。この間、とうとう子供に『おじさん』と呼ばれた……」
それは、悲しい話であっただろう。だが、それを語る向井の表情に変化は無い。淡々と。唯、淡々と語っていた。それを受ける真澄も、また無表情だった。淡々としていると言うよりは、冷淡と言った方が合う程の無表情。
「……春には、二人目が産まれる。その為にもと頑張れば頑張るほど……僕の居場所は家でなくなるんだ」
その言葉を最後に、向井は無言となった。じっと湯気を見詰め、手を温め続ける。真澄はほんの少し目を伏せ、そうして口を開いた。
「……もう、いいんではないでしょうか」
部屋が少し肌寒いからか、真澄は両手で自分を抱き締める様にして言った。
「店長は頑張られました。それはここのスタッフ、みんな知っていますよ。いえ、スタッフだけではなく、お客様や奥様も。きっとお子さんも、解ってくれます」
真澄の言葉にも、向井は湯気を見詰めたまま返す。その様は、壊れた機械を思わせた。
「そうか……そうなのかな? ああ、でも仕事が……」
責任が、肩に圧し掛かっているのか、向井は深く項垂れる。
「だから、もういいんですよ。覚えていませんか? 店長は、長い休みを貰ったでしょう?」
ゆっくりと、向井が顔を上げた。それでもまだ、後ろ髪を引かれる様に、視線が広げられた書類へと移る。経費、予算、人件費、売上目標、今月売上、達成率……様々な言葉が書かれた、けれども真澄にとっては意味の解らない紙切れの束に。
「……けれど、家に帰れるだろうか?」
「帰れますよ。この間、お宅にお邪魔した時に、まだ椅子はありましたから」
言葉にしながら、真澄は思い出していた。ダイニングキッチンに置かれたテーブル。置いてある椅子は四つ。一つは妻、一つは長男、一つはまだ産まれてない子供、最後の一つは……
「そうかぁ…………」
漸く、向井の顔に変化があった。何と言えば良いのだろうか……破顔とも言えるが、真澄には泣きそうな顔にも見える。
「……奥様、待っておられますよ」
真澄の言葉を待っていたかの様に、向井はゆっくりと立ち上がった。書類も紅茶もそのままに、ドアへと向かっていく。その後姿を、真澄は矢張り無表情で見送っていた