その1
見慣れた部屋で目が覚める。時計を確認すると、朝の七時だった。欠伸をしながらぐーっと身体を伸ばし、赤白チェックの寝間着姿の真希はベッドから降りた。
真希は寝ぼけ眼で周りを見回す。女の子にしては物が少ないと言われた、簡素、ともすれば殺風景ともとれる部屋の中。机とベッドとタンスにクローゼット。あとは大きな姿見が一枚だけ。
この部屋の中で最も目を引くであろう物は、机が接する壁に掲げられた彼女の祖父が書いた『天翔』の色紙だろうか。かなり達筆で、読むのに苦労する。だが、真希のお気に入りの一品だ。つい先日文字通りの体験もしている。
あの後家に帰ると、小太郎は剛錬にこっぴどく怒られた。どうも真希の背中に勝手に翼を生やした事が原因らしい。
理由を聞くと、人里で不用意に妖怪の力を使う事は好ましくないとのことだった。
なるほどと真希は納得したが、それでも誘ってくれた小太郎への感謝も含めて剛錬には一緒に謝った。
――二度と飛べなくなるのはあたしも嫌だしね。
ちなみに競争の結果は、なんと真希の勝利に終わっている。
速く飛ぶ事には小太郎に一日の長があり、当然のごとく彼女は途中で追い抜かれてしまったのだが、先に行った小太郎はどこからか飛んできた一羽の鳥にぶつかりそうになり、それを避けようとして思いっきり横へそれてしまったのだ。
その隙に真希がゴールの一本杉に到達し、競争に勝ったというわけである。
結果について不服そうな小太郎に対し、真希は運も実力のうちと言ってやった。手にした命令権は現在のところ保留にしてある。
「さってと」
真希は壁掛けに吊るされた制服を手に取り、ベッドの上に放り投げた。するすると寝間着を脱いで下着だけの姿になる。そのまま制服に手を伸ばそうとして、真希はピタリと止まった。しばし考えて、その格好のままで姿見の前に立つ。
肌の色は普通だと思っている。腰のくびれ加減や比較的安産型のお尻にはそれなりの自負がある。全体の肉付きも無駄はない。ただ問題は――
「……んー」
ぺたぺたと下着の上から自分の胸を触る真希は、思わず眉をひそめた。美乳型といえば聞こえはいいが、やはり大きさの面で物足りないと考えてしまうのだ。母である美春が大きいので彼女にもその血が流れているはずなのだが、こう、一向に大きくならない。
――祖父ちゃんに言わせれば、大きいと邪魔って事だけど。
こんな時にいつも脳裏をよぎるのは、自分よりも小柄で細身なのに明らかに二ランクは上の十和子である。妬ましい。
「っと」
気が付くと、時計は七時一五分を示していた。せっかく早く起きたのにこのまま時間を無駄にしては意味がない。急いで制服に袖を通し指定のスカートも身に付けると、真希は二階の部屋を出て一階の居間に向かった。
「おはようお母さん」
台所で料理をしている美春に声をかける。
「あら、おはよう真希ちゃん。今日はちょっと早いのね」
美春がくるりと振り返ると、エプロンの裾がふわっと浮かび、なんだか面白い。
「目が覚めちゃったの。せっかくだからのんびり行こうかなって」
「そっちの方がいいわね。急いでいると危ないことも多いし。早起きは三つの得って言うから、今日は何か良い事があるかもしれないわね」
話しつつ、美春は真希の前に朝食を並べていく。ご飯に味噌汁に銀鮭とおひたし。あと忘れてはいけない出汁巻き玉子。完全無欠な和食だった。
「それって、三文の得じゃなかった?」
「そうよ。でも三文なんて今は使ってないから、三つの方が楽しいと思わない?」
美春の言葉に、真希は内心納得した。それに、三文より三つの方がお得な気もする。
「まあ、そうかもね。それじゃいただきまーす」
真希が美春の朝食に舌鼓を打ち、洗面所で身だしなみを整え終わった頃には時刻は三十五分を回っていた。
「それじゃ行って来まーす」
「車に気を付けるのよー」
「大丈夫大丈夫」
玄関のドアを開け、キラキラと輝く朝日に身を浸す。この時間ではまだ爽やかとも言える陽気だった。
これは一つ得なところかもしれない。ちょっぴりウキウキしながら、真希は学校へ続く道を歩いて行く。
真希の家から学校へ行くためには、一度大通りに出てから直進する手もあるが、住宅街を通るちょっと狭い道を使えば大幅に時間を短縮する事が可能だった。
のんびりとそんな道を行く真希の背後から、突然エンジン音が聞こえて来る。
「おっとと」
真希は他人の家の塀に身を寄せ、後ろから来る車をやり過ごす。横切られる際、風でスカートが舞い上がりそうになるのを押さえねばならなかった。
狭い道だというのに、あまり減速をしない性質の悪いドライバーである。
「ふう」
ぱっぱと服に付いた埃を払い、真希はきょろきょろと前後を見る。先の一台以外に車の影はない。
――ここって狭いけど、車も裏道として使うから結構危ないんだよね。
軽く溜息を吐きながら一歩足を踏み出す。すると、靴のつま先が何かを蹴っ飛ばし、高い金属音とともに大きめの円形な物体がコロコロと転がって倒れた。
「わお」
真希は思わず顔をにやけさせる。転がった物体は五百円玉だった。塀のそばに落ちていたものをたまたま蹴ったのだろう。車を避けなければ見逃していた。
周囲を見回し、真希はさも自分が落としたかのようにして五百円玉を手中に収めた。早起きで二つ目の得である。
ここまで来ると三つ目もついつい期待してしまう。そんなほどよくご機嫌な心持で歩いて行くと、角を曲がった所で後ろから声をかけられた。
「あ、真希ー」
ひょいと振り返ると、そこには朝日に輝く金髪を揺らした小柄な少女、十和子の姿があった。
十和子はトトトっと小走りで真希の傍に来ると、その金色の瞳で真希を捉え、満面の笑みで挨拶をしてきた。
「おはよう真希。今日もいい天気だねー」
「おはよ。人の事言えないけど、今日は早いのね」
「なんか目が覚めちゃってねー。せっかくだから朝の町を満喫しようかなーって」
にはーっと幼い子どもの様に笑う姿は小柄な十和子によく合っている。抱き締めたい衝動を抑えるため、真希は自分を抱き締めて自らの動きを封じた。
「えっと、真希ってたまに突然自分を抱き締めるけど、それって何かのおまじない?」
人さし指を顎に当て、首を傾かしげる十和子。いちいち仕草が可愛い。そして自分の危険性についての認識が無さ過ぎる。
真希は突き上げる衝動にぐっと耐え、ややあってから体の力を抜いて束縛を解いた。
「ちょっとした自己防衛反応よ。気にしないで」
何とか平静を保って返事をすると、十和子は「そう?」と特にそれ以上気にした様子もなく、真希に一緒に歩こうと促してきた。
「そうそう。今日クラスに編入生が来るらしいよ」
一緒に歩き始めてすぐに、十和子がそんな話を切り出して来た。彼女の手にはいつの間にかペンとメモ帳が握られている。
「編入生?」
真希が怪訝な表情を作る。今は六月も半ば過ぎ。期末も近くなってきたこの時期に編入生とは珍しかった。
「うん。何かね、家の事情で義務教育期間は学校じゃないところで勉強してたらしいよ。だから色んなところで入学断られて、パパの所に回ってきたんだって」
メモ帳をパラパラめくりながら十和子が説明する。相変わらず情報が早い。しかも個人情報の部分にまで手が及んでいる辺りが恐ろしかった。
「義務教育期間を学校に行ってないって、それ学力的に大丈夫なの?」
「それがねー。当然編入試験があったんだけど、国・数・理・社のテストが百点だったらしいよ」
へえ、と感心しかけて、真希は十和子の言った科目に一つ足りないものがある事に気が付く。
「あれ? 英語は?」
「あ~……」
突然十和子が口ごもった。そして顔に苦笑いを浮かべ、
「英語だけは〇点なんだよね実は」
見事なほど弱点が見え見えの編入生のようである。
「えっと、いくら他の点数がよくてもさすがに英語〇点はまずくない?」
真希が率直な疑問を口にする。せめて二十点でも取っていれば何とでもなりそうなものだが。
「私もそう思ったんだけど、パパが言うにはうちの高校の編入試験って『五教科合計』で三百五十点以上が条件だから、各教科の点数はどうでもいいんだってー」
結構いい加減だよねー、と真希に同意を求める十和子。真希はそれに賛同せざるをえなかった。
とはいえ、まさか一つの教科を他四つで完全に補おうとする者がいるなど想定していなかったのだろう。真希にしてもそんな事は絶対に考えない。
「まあ成績の方はいいわ。十和子の事だから、相手方のデータは一通り揃えているんでしょう?」
真希の言葉に、しかし十和子は残念そうに首を振る。
「ううん。実はこれ以上はさっぱり。準備はしたんだけど、今回は盗聴器とかカメラとか、全部回収されちゃったの。だから今話した事は別ルートで仕入れた情報だよ」
さらりと問題発言をする十和子。ぎょっとする真希だが、それは十和子の発言に含まれる怪しい物品によるものではない。十和子が口にした言葉の意味そのものに驚いたのだ。
「珍しい。何か失敗したの?」
十和子が再びふるふると首を振る。メモ帳とペンをしまいこみ、彼女は悔しそうに顔をゆがめた。
「正確に言うと、声はちょっとだけ拾えたの。パパが理事長室にその編入生とお父様を案内して来たんだけど、編入生のお父様がすごい勘が働く人みたいで、まだ部屋に入ってないのにカメラと盗聴器の位置全部言い当ててパパが回収しちゃった」
「……それはまた、ずいぶんと凄そうな人ね」
真希には十和子の悔しさの度合いは分からないが、件の編入生の父親が並みの人物ではない事は理解した。編入試験の結果も合わせると、編入生自身も只者ではない可能性は高い。
「やっぱり多少問題でも、廊下にもセットしておくべきだったなぁ。別の何かが映っても他の何かに使えたかもしれないし」
「こらこら」
真希は危うい発想に浸る友人をたしなめるため、おでこを軽く指で弾いておく。
「はうっ」
両手でおでこを押さえ、十和子は追撃をガードした。その姿もやはり、可愛らしい。
「まあ結局は謎ってことだけど、今日これから会う事になるんだし、楽しみにさせてもらおうじゃない」
三つ目がまだだしね、と続けた真希の言葉に十和子は首を傾げていたが、真希はそれには構わず空を見上げる。一羽のカラスが、頭上を横切って行った。