その1
目が覚めると、真希の視界には白が広がっていた。はっきりしない頭で自分の状態を確認すると、どうも仰向けになって布団を被っているらしい事が分かる。
「んー……?」
状況が理解出来ない。少なくとも、今いる場所が自分の部屋のベッドの上でない事は確かなようだった。真希はゆっくりと身体を起こし、改めてぐるりと首を巡らせてみる。
高くない天井。左手に見えるのは白いカーテン。正面の壁には掛けられたカレンダー。右手には花瓶の置かれた戸棚と、誰かが座っていたのか椅子が一脚。その向こう側には洗面所と鏡もある。
「……ああ」
それらを認識して、真希は漠然と自分のいる場所が病院ではないかと思い至った。隣近所に他のベッドがなく、右斜め前にどこかへ続く角があるという事は、個室なのだろうかとあたりを付ける。
何となく状況を理解して行く真希だが、すればするほど疑問が大きくなった。
――何でこんな所にいるんだっけ?
正面のカレンダーをしっかりと見てみると、バツ印が真希の記憶より一日分後にずれていた。手を伸ばしてカーテンを少し開き、外を見る。太陽はすでに中天を過ぎているようだ。
――丸一日近く分の記憶が無いわね。
それとなく現状は掴めて来たが、今一つ頭がすっきりしない。そこで真希は直近の記憶を穿り返す事にした。
小太郎と喧嘩別れをしてひどく後悔した事は覚えている。その後十和子の発破をもらって、剛錬に会った。剛錬と映心からの情報で一本杉の広場で小太郎を見つけた。小太郎を説得するために杉に登って――
「っ!」
ドクン、と痛いくらいに心臓が脈打つのを感じた。空調が効いているとはいえ、おかしいほどの寒気が真希を襲う。震えて歯がぶつかり合い、ガチガチと耳障りな音を立てていた。
たまらず真希は自分の身体をまさぐる。腕、肩、腰、背中と確認するが、痛みは無い。だが、あの時受けた衝撃は覚えている。一日そこらで跡形もなく消えるようなものではない。最低でも痣程度は残るはずだった。
真希はゆっくりと寝間着のボタンを外して行く。その過程で気がついたが、どうやら下着は下しかつけていないようだ。普段付けている身からすると、かなり恥ずかしい。
しかし幸いな事にここは個室である。人目が無い事もあり、真希は完全に上を脱ぎ捨てて自分の身体を確認する事にした。
腕に異常はない。お腹、脇も異常なし。洗面所の鏡に背中を向け、首だけ振り返って見えないところも確認する。だが、やはり何も無い。
「…………何で?」
痣が残っていない事は歓迎すべき事だが、これではまるで真希が杉の木から落ちたという事実が無かった事になってしまったかのようだ。
真希は眉をひそめつつ、再び自分の身体を突いたり押したりして痛みが無いかを確認する。半ばムキになっており、完全に自分の世界に入ってしまっていた。
「お……」
だから真希はいきなり聞こえてきた誰かの声に驚き、弾けたようにそちらに顔を向ける。
角から現れた周囲の白に負けないくらい白い装束の、黒いお面を被った不審人物と目が合った。間違いなく合った。
「きゃあっ!」
真希は最速の動作で布団を手繰り寄せ、その身――主に胸の辺りを隠した。
「いや、起こしたらいかん思うて、静かに入ってきたんじゃが、の」
そう弁解する小太郎の手には水差しがある。花瓶の水を換えるのに、水の音を立てるのも避けてわざわざ部屋の外で汲んできたのだろう。その辺りの気遣いを真希は嬉しく思うが、今は完全に裏目に出た形だ。
「い、一度ならず二度までも……」
真希はおどろおどろしく息を吐き出した。何か得体の知れないものまで吐き出されている幻影が見える。
「ま、待て真希。今回は完全に事故じゃ。まさか起き取るとは思わんし、あまつ……その、ふ、服をはだけ――」
「思い出すなあああっ!」
照れくさそうにそらされた小太郎の顔面めがけて、真希は戸棚の上の花瓶を投げつけた。
「うおっ!」
若干反応が遅れたものの、小太郎はギリギリでそれを避け、壁に当たった花瓶は音を立てて砕け散る。真希が追撃の品を探している間に、小太郎は角の向こうへと姿を隠した。
「何をするんじゃ! 危ないじゃろうが!」
「乙女の柔肌ただ見して、殺されないだけましだと思いなさい!」
「……そんな見るほどのもんでもないと思うがのう」
本人としてはぼそりと言ったつもりだったのだろうが、真希の耳にははっきりしっかり届いていた。
「こ~た~ろ~」
真希が呪われそうな雰囲気の声を発する。見る人が見れば、真希の後ろに何か見えてはいけないものが見えたかもしれない。
「ぬう」
失言を聞かれたという事実に気付いてか、小太郎が角の向こうで部屋の――音からして引き戸を開けて逃げ出した音が聞こえてきた。
それを確認すると、真希は盛大な溜息を吐き出しつつもとりあえずまた寝間着を着る。
「真希ちゃん!」
そんな事をしてる間に再び誰かの声。顔を上げると、そこには美春と昇治が立っていた。
「あ、お母さんにお父さん――」
どうしたのという言葉は、飛びついてきた美春によって言葉にはならなかった。
突然の事態に真希は疑問符を点灯させるが、強く抱き締めてくる美春の身体がわずかに震えている事に気がついて、やはり自分が木の上から落ちたのは間違いないのだと理解した。また、そのせいで両親にひどく心配を掛けたのだろうという事も。
「お母さんごめんね。心配かけた」
「ううん。いいの。貴方が無事なら、それでいいの」
真希は美春の大きな胸に身を預ける。十和子に抱き締めてもらった時にも母に抱かれているようだと思ったが、やはり本当の母に抱かれている感覚とは全然違う。
――こんな事言ったら、十和子は二度と抱き締めてくれないだろうなー。
そんな事を考えつつ、真希はしばらく美春に抱かれ続けていた。