その3
『な、ちょ、阿呆! 前みたく翼はないんじゃぞ!? 落ちたらどうするつもりじゃ!』
真希の行動に驚いた小太郎が、風で運ばなくても聞こえるほど大きな声を上げる。
「だから、何度も、言ったわよね? 溝を埋めて、みせるって。あんたも認めたわ。今のあたしと、あんたの位置関係が、それだって」
言葉を交わしながらも、真希は着々と杉の木を登っていく。
「あたしは、どうしたって人間よ。自分じゃ空は飛べない。だから、あんたと同じ所へ行くには、こうするしかないのよ」
思いの他幹に触れる手が痛い。軍手でもあればよかったかと真希は思うが、感覚が鈍る事を考えれば素手の方がましだと思い直す。
『そんなもん、詭弁じゃ。ここへ来てどうなる言うんじゃ。溝を埋めるゆうんは、同じ位置に立つゆうんのは、そんな意味じゃあない』
小太郎の言うことは正しい。たとえ真希が物理的に同じ場所に行ったとしても、それは同じ場所に立ったとは言えない。だが――
「分かってるわよそんな事。でも、そういう意味でも同じ場所に立てない奴が、本当の意味で同じ場所に立つなんて、出来っこないわ」
真希の言葉に、小太郎は何も言い返せない。真希の言葉もまた、正しかったからだ。空を飛んだ事のない人間は、決して空を行く鳥たちの考えを理解する事は出来ない。どれだけ言葉を並べ、どれだけ論理的に実証されようとも、経験が伴わないそれは片手落ちだ。
「あたしは嫌よ。どっちも傷付いて傷付けられて。馬鹿みたいじゃない。このまま終わりなんて」
『じゃから! もう互いが傷付かんように、終わらせるべきなんじゃ!』
「違うわ。誰かと付き合うっていうのは、そうやって傷付いて傷付けられる事も全部ひっくるめてなのよ。傷付くから、傷付けるから、だから誰とも付き合わないなんて……そんなの臆病なだけじゃない!」
真希の言葉に、今度は小太郎が沸騰する。
『儂は臆病者ではない!』
「だったら! あたしが行くまでそこにいなさい。そうね。ちょうどいいわ。あの時の命令権を、今ここで使わせてもらうわ。だからあたしに付き合って、そして向き合って見せなさいよ!」
真希は真っ向から小太郎の激情を受け止めた。その姿に、小太郎の怒りは急速に勢いを失う。
『……分かった。来れるもんなら来てみい。途中でにっちもさっちも行かなくなって下りられんようになっても、儂は知らんからな』
そう言い捨て、小太郎は完全に黙り込んだ。
「言ったわね? 上等じゃない。すぐに行くから、首を洗って待ってなさい」
望み通りの形に満足した真希は慎重に、しかし体力的な事を考慮して出来得る限り急いで杉の木を登っていく。
最初の方こそ苦戦したが、太い枝が張り出している高さまで登ると、足場の確保は断然楽になった。こんなところでも、祖父に習った武術の経験が生きる。ところどころ小休止を挟みつつ、真希は着実に小太郎の下へ近付いて行った。
そうして、ちょうど目的の三分の二ほど登ったところで、真希はちらりと上の様子をうかがってみた。枝葉が邪魔して見え難いが、小太郎がそっぽを向いたまま動いていないのが見えた。
その事に安堵半分落胆半分といった感情が湧くが、軽く首を振って落ち着ける。登るにしたがって張り出す枝が細くなっていた。それでもまだ十分に余裕はあるが、油断は出来ない。
だが先ほどの感情の揺れが心の隙であった事は間違いなく、今の状況はその一瞬の隙を見逃してはくれなかった。
次の手掛かりを捜そうとして重心を動かした真希の右足は、簡単に枝の上を滑ってバランスを崩させた。
「きゃっ!」
真希は悲鳴を上げる。幸いにも、すぐ近くに張り出していた別の枝を掴む事が出来たために落下する前に身体を支える事が出来た。
「び、びっくりした。いや、うん。ちょびっと死ぬかと思った」
真希は自分を落ち着けるためにわざと声に出す。態勢を立て直し、何度か深呼吸してやっと気分を落ち着けると、最後に大きな溜息を吐いた。
「危ない危ない。気を抜かないよう……に?」
ふと、真希は何か違和感を覚えた。辺りをきょろきょろ見回して、その後で上を見る。誰かと目が合った。
上からこちらの様子をうかがっているのは、さっきまでそっぽを向いていたはずの小太郎だった。若干腰を浮かせて、何か今にも飛び出しそうに見える。
真希がなんとなく手を振って見せると、それと分かるほどに脱力し、慌ててまたそっぽを向いてしまった。
――もしかして、心配してくれた?
お面のせいで表情は分からなかったが、あの脱力が安心によるものと考えれば納得は行く。
真希の顔に自然と笑みが浮かぶ。本当に、自分の身を案じてくれるほどには嫌われているわけではないと確信出来たからだ。
俄然やる気が湧いてきた真希は、しかし慎重に、一歩一歩小太郎との距離を縮めていく。
ところが、手を伸ばせば届きそうというところまで来て、真希は真面目ににっちもさっちも行かなくなってしまった。手掛かりや足場として耐えられそうな枝がなくなってしまったのだ。
なにせ今立っている枝も幹に密着するくらいに近寄って体重を預けなければ簡単に折れてしまいそうなのだからどうしようもない。よく見てみれば、小太郎が座る枝も人を支えるに足る強度があるようには見えなかった。鴉天狗特有のコツでもあるのかもしれない。
「小太郎。来てやったわよ」
動くに動けない真希は、その場で小太郎に話しかける事を選択した。
「……今一歩足りんけえ。来たとみなしてやるわけにはいかんのう」
わずか一日。しかし真希にとっては久しぶりとも思える、小太郎の生の声。だが彼は真希の方を見ない。相変わらず、そっぽ向いたままである。
そんな姿を見て真希は落ちる振りでもしてやろうかと考えるが、今度こそ本当に落ちそうなのでやめておいた。そうなった時に小太郎が助けてくれる可能性は高そうだが、もし助けてもらったらもう二度と小太郎と話す機会は失われるような気がしたのも断念した要因だ。
「小太郎。ちゃんとこっちを見て」
小太郎は答えない。動きもしない。
「小太郎!」
真希が叫び、そして精一杯右手を伸ばす。だが体重を幹に預けるようにしなくてはならないため、その手はまったく届かない。もう一本分、腕が長ければ届くというのに。
「小太郎!」
二度目の叫び。ややあってから、小太郎が面倒臭そうな動きで真希の方へ顔を向け、急に固まった。
軽く息を呑む音と若干強張った身体から、真希は小太郎が驚いたのだろうと推測した。しかし、何故驚いたのかまではすぐには分からなかった。
この時、小太郎が驚いた理由を真希が知るには鏡が一枚あるだけで事足りた。彼女が自分の姿を鏡で見れば一目瞭然だったからだ。
一本杉を何の装備もなく登ってきた真希は傷だらけだった。制服やスカートは擦れたり引っ掛けたりでぼろぼろになり、直に木に触れ続けた手は擦り傷から血が滲んでいる。他にも尖った葉で切ったと思われる無数の浅い切り傷が、露出している肌や顔にも散在していた。
「なんで、そんな傷だらけになってまで……」
「え?」
小太郎の言葉を聞いて、真希はやっと自分がどんな姿になっているのかに気が付く。擦れて真っ赤になり、血まで滲む自分の手をまじまじと見つめ、またその手を小太郎に向けて伸ばした。
小太郎が避けるように少し身を引こうとするが、
「逃げるの?」
真希の言葉がそれを止めた。
「何じゃと?」
「あたしはあんたとの溝を、ここまで埋めたわ。残念な事に腕一本分足らなかったけど」
自嘲気味に笑い、真希は小太郎を見つめる。相変わらず、腕は伸ばしたまま。
「……ほうじゃな。腕一本分足りん。そしてその一本分が、儂とお主との埋められない溝じゃ」
突き放す言葉だった。しかし、それは悲しさと安堵の入り混じった歪な言葉でもあった。だからこそ――
「違うわ」
はっきりと、真希は小太郎の言葉を否定した。その鋭く、明確な否定に一瞬呆気に取られた小太郎だったが、すぐに反論する。
「何を言っとる。何も違わんじゃろう。現実として、今、お主の目の前にもあるじゃろうが」
「それでも、違うわ」
再びの否定。真希の言葉に、小太郎が怒りの感情を纏ったのが感じられた。
「何が違う? 何が違うと言うんじゃ!?」
小太郎の怒声が響く。同時に空気を打つ音。小太郎の背中に、綺麗な黒い翼が生えていた。
「儂は鴉天狗じゃ。妖怪じゃ。お主のような人間とは、違うんじゃ。妖怪と人間、その間にある溝は絶対に埋ま――っ!」
そこまで言ったところで、小太郎が言葉に詰まった。真希のまっすぐな二つの瞳が、小太郎を見据えていたからだ。
「小太郎。手を、伸ばして」
「なん……じゃと?」
「埋まらないはずがないわ。だって、あと腕一本分なのよ?」
小太郎は真希の言わんとしている事をすぐに理解したようだった。両者の間にある溝を埋めるのは、どちらか片方だけではない。両者で埋め合えばいいという、真希の考えを。
「あたしは言ったわよ。このまま終わるのは絶対に嫌だって。あんたは? 小太郎」
「儂……は……」
小太郎が自らの手をじっと見つめている。その手は、かすかに震えていた。まるで、真希の提案を受け入れたいと望む心と、また傷付くのを恐れる心との間で揺れている、そんな状態を表しているようだった。
「小太郎……」
真希は手を下ろさない。木登りで無理を強いたため、すでに腕の疲労は限界だった。しかし下ろさない。きっと、この手を取ってくれると信じているから。
「儂は……」
ゆっくりと、小太郎が手を伸ばす。少しずつ、少しずつ、互いの距離が近くなってゆく。もどかしいほどに遅く流れる時間。わずか数秒が無限の時間にさえ感じられる。
そうして、互いの指先が触れるか否かというまさにその時だった。
「「え?」」
互いの耳に届く無情な音。今まさに触れ合おうとしていた指先は遠近感を狂わされたかのように行き違い、取り合えるはずだった手は空を掴む。
ほんのわずか、本人でも気がつかないほどに微細な変化だった。伸ばされた手に一刻も早く触れたいと願う心の衝動から、真希は幹に預けていた体重をわずかにその足に移動させてしまった。
結果、危ういバランスの上で保たれていた均衡が崩れ、真希の足場としていた枝はそれがあらかじめ決まっていた事であるかのように、折れたのだ。
届いたはずの手が届かず、真希は自分でも驚くほどゆっくりと重力に囚われようとしていた。
――落ちる。
真希がそう理解した時、彼女は一度目の衝撃をその身に感じ、次いで二度三度と同様の衝撃を肩に腰にと受ける。そうして七度目の衝撃の後、刹那の落下による浮遊感を経て、最後の衝撃が真希の全身を襲った。
「……か……」
仰向けに地面に転がった状態で、真希は吐き出してしまった息を吸おうとするが、あまり深く吸う事が出来ない。体を動かそうにも、まるで自分のものではないかのように指一本すら動かす事は出来なかった。
背中と後頭部に、何かぬるりとした感触。それがじわじわと広がって行く度に、彼女は自分の中から何かが抜けていくような錯覚に陥った。
「ま……き……?」
近くで小太郎の声がした。どうやら耳はおかしくなっていないらしいと、少しだけほっとする。
「真希!」
仰向けのまま動けず、空と一本杉しか見えなくなっていた真希の世界にあのお面がやってくる。どうしたって表情は見えないはずなのに、真希はそこに今にも泣きそうな子どもの姿を連想した。
――ああ、また泣かせちゃった。
「真希、真希! しっかりせえ! 真希!」
小太郎の手が真希に触れる。けれど、それは触れれば壊れてしまう泡に触れようとする様に優しく、そして怯える様な手付きだった。
「こ……」
安心させるために名前を呼ぼうとするが、真希の声は言葉にならない。
「真希……儂は……儂はっ!」
小太郎の声が苦痛に耐えるようにひび割れる。その理由を、真希はすぐに理解した。
それは真希に対しての心の痛みを耐える声だった。その事がとても嬉しくて、でもそんな声を聞くのが嫌だったから、真希はしゃべる事の出来ない自分に出来る精一杯の事をしようと決めた。