その5
「ばいばーい」
ツインテールを揺らした少女が、母親に手を引かれながら大きく手を振っている。真希もそれに応えて手を振った。やがてその姿が見えなくなると、静かに手を下ろす。
二人は今、警察署の前にいた。先の交通事故の事情聴取のため、つい先ほどまで事の顛末を延々と説明していたのである。
トラックは居眠り運転をしていたらしい。寸前で目が覚め、慌てて急ブレーキをかけてハンドルを切った結果があの横転だったようだ。幸いドライバーの命に別状は無いという。
聴取の間にそれぞれの家に連絡が行き、少女の母親は警察署にすっ飛んできて無事な娘を抱き締めて泣いていた。その後、真希と小太郎に何度も頭を下げてお礼を言い、さっき帰って行ったのだ。
真希と小太郎の方は代表として烏丸の家に連絡が行ったのだが、
「『小太郎さんが一緒なら安心ですので、あまり遅くならないうちに帰して下さいね』だそうです」
電話をかけたという警察の方が、若干顔を引きつらせながらそう言って来た。顔を引きつらせる原因が美春の言葉なのか、それとも小太郎の格好なのかは定かではないが、彼女は迎えに来るつもりは無いらしい。
とにもかくにも聴取は無事終了し、二人はお役御免となった。外はギリギリ夕暮れ時といった時間である。あと三十分と経たずに真っ暗になる事だろう。
「さて、あたしらも帰ろうか」
「……おう」
二人は並んで歩き始める。ここから真希の家まではそう遠くはない。小太郎は真希を送ってから帰ると言うので、並んで帰る事を選択するのに迷いはなかった。
「それにしても、大変な目に遭ったわねー」
あの時少女を助けようとしたのは、ほとんど反射的な行為だった。小太郎がいなければ少女もろとも跳ね飛ばされ、真希は十六年の生涯に幕を下ろしていただろう。
「あんたに助けられたのは二回目よね」
一度目は学校の階段で。転げ落ちそうになった真希を小太郎がその胸に抱き止めて助けてくれた。そして二度目も。頼っているわけではない。けれど、真希が危なくなった時、小太郎は必ず助けてくれた。
「ねえ。さっきはどうやって助けてくれたの? 今度は飛んだわけじゃないみたいだけど?」
下敷きになっていた小太郎の背中に翼はなかった。という事は、一度目のように飛行して届かせたわけではないのだろうというのが真希の推論である。
「……ん? なんじゃ? 何か言うたか?」
小太郎が間の抜けた返事を返した。どうにも警察署を出てから心ここにあらずといった感じである。
「だから、どうやって助けてくれたのかなって」
「ああ、今回はあれじゃ。縮地を使うた」
「縮……?」
聞き慣れない単語に真希は首をかしげる。
「天狗の秘技の一つじゃ。縮地とは文字通り地を縮める技法での。早い話が瞬……なんじゃったか」
「瞬間移動?」
「おう。それじゃそれ」
これはまたとんでもない能力があったものだと、真希は感心してしまう。
「まあ、実際はそんな大それた事ではない。要は踏込の力じゃ。最初の一歩を踏み出す踏込の力で、急激に前進させる技に過ぎん」
おそらく説明してくれたのだという事は分かったが、真希はその内容に関してチンプンカンプンである。
そんな様子を察してか、小太郎が一つの例を挙げる。
「そうじゃのう。歴史にも出てくる牛若丸を知っておるか?」
有名な名前だったので、真希は頷く事が出来た。後の源義経の幼名である。そういえば牛若丸は鞍馬山の鴉天狗に不思議な術を授かったという伝説があったはずだ。
「その牛若丸、義経の逸話の中に八艘飛びと言うものがあったじゃろう。あれは縮地を応用してやったもんじゃ」
せっかく例を出してもらっておいて申し訳ないと思いつつも、真希はやっぱり分からない。だが分からないなりにも現状での認識を述べてみる事にした。
「えっと、つまりものすごく強く地面を蹴るって事?」
「あー、そういう理解でも構わんかのう」
どうやら真希の一言で詳しい説明をする事を放棄したらしい。何となく馬鹿にされた気がする真希だが、むやみに突っかかっても面白くない。
「技ってさ、あたしでも覚えられるものなの?」
「妖力を使う術と違って技は人間でも覚えられん事も無いが、仮に技なんぞ覚えてどうするつもりじゃ?」
「そりゃ、あんたみたいに人助けなんかの時に役に立ちそうじゃない」
真希としては特に深い意味の無かった言葉。しかしその言葉は、小太郎にとってはそうではなかった。
「……人助け?」
ピタリと足を止め、小太郎は意味が分からないといったような感じで真希を見た。つられて、真希も立ち止まる。
「そう……だけど、あたし何か変なこと言った?」
「技を覚えて、お主は人助けをするのか?」
真希の問いには答えず、どこか感情を失くした声で小太郎が問を投げる。その雰囲気に真希は若干気圧されたが、ぐっと踏み留まった。
「う、うん。だってあたしもその、縮地だっけ? それが使えたら、小太郎に無理させないであの女の子助けられたじゃない」
「……そんな事をして、どうするんじゃ?」
小太郎の雰囲気は変わらない。だが、真希はその物言いに不自然さを覚えた。なんとなく会話が噛み合っていない様な感覚がある。
「別にどうもしないわよ。助けたいと思ったから助けたいだけ。あんただってそうだったから、あの子とあたしを助けてくれたんじゃないの?」
おそらく、これが始まりの一言だった。上手く行っているようで歪み始めていた、いや、元々歪んでいたのに気が付かなかった二人の関係が不穏な音を立て始めたのは。
「ああ、なるほどのう。そういう事じゃったか」
突然、小太郎が一人頷き始めた。ずっと悩んでいた事の解答が出て、ようやく得心がいったという感じだ。
「ずっと変じゃと思っておった。あの時、あの娘が儂に礼を言うた時からずっとな」
「……え?」
「前提として間違っておったわけじゃな。じゃから儂は奇妙な感覚に付き合わされる事になった」
前提が間違っている。それがどういう意味なのか、真希には分からない。けれどその先を、続くであろう言葉を小太郎の口から言わせてはならないという直感めいたものがあった。
――なんで……?
その直感が理解出来ずに真希は迷う。迷ったために、小太郎を止める事が出来なかった。
「真希。儂はさっきの一件で、あの娘を助けた覚えはないぞ?」
放たれた言葉を、真希はすぐには理解出来なかった。それは小太郎の言葉が自分が事実とする事に全くそぐわないものだったからだ。
「儂が助けようとしたのは、あくまでお主だけじゃ。結果的にあの娘も無事じゃったのは、儂ではなくお主のおかげじゃな」
「そ、それってどういう……」
真希の足が若干震えている。疲れたわけではない。得体の知れない恐怖に、震えが止まらないのだ。
「あの瞬間、儂はお主を抱えてあの場を回避した。そん時、あの娘の事はまったく考慮しておらん。お主がしっかり抱いておったけえ、一緒にくっついてきただけじゃ」
それはつまり、真希が少しでも中途半端な抱き方をしていればあの少女はその場に取り残されていたという事になる。取り残された少女がどうなるのか、考えるまでもない。
「じゃからあの娘も、娘の母親も、儂に礼を言う必要なんぞ無かったんじゃ。儂は最初から、あの娘の事を助ける気なんぞ無かったからな」
ズシンと、まるで重力が強さを増したような重みを真希はその身に感じていた。よろけそうになる身体を支えるためになけなしの力を足に込め、
「な……んで? だって、だってあんたは、二回もあたしを助けてくれたじゃない!」
真希は叫んでいた。認めたくないと思ったから。小太郎がこんな事を言っているのが何か性質の冗談だと思いたかったから。
「そんなもの決まっておる。お主とあの娘ではその存在価値が違う。お主は代えなどない一人じゃが、あの娘はそこらに有象無象におる人間の一人でしかない。儂にとっては、全く重要な存在ではないんじゃ」
裏を返せばその言葉は、小太郎にとって真希が重要な存在であるという事。彼女が望んだ、彼にとって必要な存在になるという目標は、すでに達成されていたのだ。
だがその事実に喜びを感じる事なく、真希は瞬間的に沸騰し、頭の中が真っ白になった。直後に、渇いた音が薄暗い闇の中に響く。
「…………何の真似じゃ?」
強制的に首を回された小太郎が、ゆっくりと正面に戻しながら真希を見据えた。お面に隠れず露出している左の頬が、赤味を帯びていた。
その視線を、真希は真っ向から受け止めた。小太郎の頬をはたいた右手がじんじんとした痛みを訴えているが、全く意に介さない。
「その言葉、本気で言ってるの?」
真希は相手の真意を知りたかった。小太郎の言葉は、何もあの場でのみ適用されるものではないだろう。クラスで楽しそうに談笑していたあの場所であっても、彼はおそらく――
「本気じゃ。儂にとって、大切なのはお主だけじゃ。あとのもんは知らん。排斥するのとは違うがの。いざというときに守るべき対象は、お主だけじゃ」
真希が都合のいい耳を持っていれば、こんな言葉であっても愛の告白のように受け取れたのかもしれない。しかし、怒りと悲しさとがないまぜになってその身を駆け巡っていた状態では、火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「……そう」
だからこそだろう。今この時になって、心の底に沈みこんでいたドロリとした物が浮き上がってきたのは。あの一件の時ですら沈んだままだったそれは、今この時になって溢れ出る。
「あたし、馬鹿だね。何か勘違いしてたんだ。一人で舞い上がって、ちょっと嬉しかったりして」
真希はうつむいて、両手をぎゅっと握り締める。堪えようとしても、目頭が熱くなるのを止められない。
「どうしたんじゃ?」
真希の急変に、小太郎がその震える肩に手を伸ばす。しかしその手は無常にも払われてしまった。同時にうつむいていた真希が顔を上げる。
「っ!」
小太郎が息を呑んだ。真希の黒い瞳は自身の涙に濡れ、しかし激しい怒りにも燃え、背筋が凍りつくほどの美しさを演出していた。
「結局あんたは、妖怪なのよね」
その言葉に、小太郎が気圧されたかのように一歩後ずさる。真希が告げた事は、ただの事実だというのに。
「妖怪にとって見れば、人間なんてどうせその程度でしかないのよ。あたしは何かの間違いで特殊な立場にいるみたいだけど、少しでも運命が違えば轢かれそうになっていたあの子と全く同じなんだわ」
真希の言葉は止まらない。自分でも何を言っているのか分からなくなってきてもなお、止められない。その対極に立つかのように、小太郎はただ無言だった。
「そうよね。あんたたちの居場所を奪ってきたのは人間なんだもの。直接的に関わっていなくても、誰もが間接的に関わっているわ。嫌われて当然なのよ。見捨てられて当然なのよ!」
再びうつむいて、ギリッと歯を噛む。悔しいような、寂しいような、そして何より裏切られたという感情が真希の心を支配する。
「おかしかったのよ。最初から。妖怪と人間が共存する? 馬鹿じゃないの? そんなの、昔話によくある展開にしかならないわ。勝手に妖怪が押しかけてきて、人間とうまく行かなくなって結局全部壊れちゃう」
そして真希は顔を上げ、言ってはいけない最後の一言を小太郎に言ってしまう。
「あたしだけが大切? 何言ってんのよ。そんな一方的な気持ちをもらっても、全然嬉しくない。苦しいだけよ!」
後の言葉はもう嗚咽にしかならなかった。みっともなく泣き叫んで、拭っても拭っても涙が止まらなくて、なんでこんなに辛い気持ちになっているのか理解出来なくて、余計に自分が制御できない。
それでも時間の経過とともに少し落ち着いて、真希はひどい顔のまま目の前の小太郎を見る。彼は変わらずそこにいて、けれどひどく悲しそうな雰囲気を纏っていた。
「あ……」
それを見て、真希は一気に冷めた。ついさっきまで自分がひどく理不尽な言い分を相手にぶつけていた事を思い出す。
ただ感情に流されて、そんな事が言いたかったわけではないのに。
「小太ろ――」
「よく、分かった」
真希の声に被せて小さく、しかし重々しく小太郎が言葉を吐き出した。
「儂の存在は、お主にとって負担でしかなかったんじゃな」
――違う。
真希は声を出せずに首を振る。
「やはり儂らとお主たちでは、そもそも住む世界が違うということかのう」
――そうじゃない。
真希は小太郎のこんな声が、こんな言葉が聞きたかったわけじゃない。
「家まではもうそこじゃの。ここまで来れば、何もなかろう」
ふっと視線を真希から外し、小太郎は空を見上げた。直後、真希の目の前で小太郎の背に漆黒の翼が現れる。
「……さらばじゃ」
「待っ――」
真希の制止の声を羽ばたきでかき消し、小太郎は夜の空へと舞い上がった。その姿はあっという間に見えなくなり、真希だけが地上に残される。
それからしばらくの間、真希は小太郎の飛んで行った夜空を無言で見上げ続けていた。
涙が頬を伝って雫となり、アスファルトの路面に弾けて、消えた。