その4
結局小太郎はシャープペンシル一本と換えの芯のみを購入し、満足げな様子だった。そろそろいい時間だということで、二人は店を出る。
外は学校帰りの児童や学生、会社員などでごった返していた。それに比例するように、交通量も多くなっている。
「あっちゃー。もうちょっと早くに出ればよかったかも」
「この辺りは人間の数が多いのう。少々息苦しい」
不満を言っていても始まらないと、二人はすぐそこの交差点で信号が変わるのを待つ。同じように信号を待つ人は数人ほど。多くの人が真希たちとは直角に交わる方向へ進んでいるらしい。
「人は多いが、儂らと同じ方へ進むもんは少ないようじゃのう」
「そうね。あっちには駅があるから、そっちへ向かっているんじゃないかしら」
人の流れを眺めながら、真希は小太郎に説明してやる。
「駅というと、あの鉄の蛇、電車とか言うたか。あれが人間を腹に収めたり出したりする場所じゃのう」
「また微妙な表現ね。言いたい事は分かるけど」
眺めていた人の流れが速くなった。視線をずらすと、歩行者用の信号が点滅しているところだった。やがて信号が赤へと変わり、流れはぷつりと途切れてしまう。
「そろそろこっちが変わるわ」
「おう」
歩行者用の信号に続き、車両用の信号も黄色、そして赤へと変わる。数秒置いて、真希たちの進行方向側の信号が青へと変わった。
それを見届けて、真希が横断歩道を渡るための一歩を踏み出す――一瞬前、その横を小さな影が通り過ぎた。ちらりと真希が向けた視線の先で、真っ赤なランドセルを背負ったツインテールの女の子が元気よく駆けて行く。
悲鳴が聞こえたのは、まさにその時だった。
悲鳴の主は、真希たちの対岸側で信号を待っていた誰か。悲鳴の理由は、右手から信号を無視して交差点へ侵入しようとしているトラックの存在。真希の前を駆ける少女。迫り来るトラック。気が付いた時にはカバンを放り出し、真希は走り出していた。
「真希!」
背後から小太郎の声がかかる。だが、真希は止まらない。眼前、五歩ほどのところで、突っ込んでくるトラックを見つめて立ち尽くす少女。おそらく恐怖で身体が動かないのだろう。このままでは確実に轢かれてしまう。
三歩進み、残り二歩。わずか二m弱が、絶望的なまでに遠い。
一拍おいて真希が少女の下へ到達。
――間に合った。
その幼い身体を横から抱き締め、真希は勢いのままに前方へ身を投げ出そうとする。
だが運命の神は残酷だった。間に合ったという考えはあくまで真希の主観によるもの。客観的に見れば、少女の下へ辿り着いた事が奇跡とも言えるほど、暴走トラックは目前に迫っていた。
誰もが不運な少女と勇敢な少女の悲惨な光景を覚悟した。遅滞した時間の流れが正常に戻ると同時に、断末魔のようなブレーキ音。トラックは横断歩道の上を通過し、ドライバーが無理にハンドルを切ったせいだろう、そのまま道路に横倒しになってなお滑り続け、ようやく止まった。
一時の間、恐怖を覚えるほどの沈黙が辺りを支配する。
◇
ややあってから、ちょうど真希たちとともに信号待ちをしていたとある会社員は、横転して道を完全に塞いだトラックから視線を外し、横断歩道に残っているであろう無残な死の光景を確認するために正面を向いた。だが、そこには彼の想像した光景はなかった。
トラックが通過する直前まで少女たちが立っていた場所には何もなく、そのわずか先に幼い少女を抱いた真希が倒れており、二人の下敷きになる形で小太郎が仰向けに倒れているだけだった。
周囲が見守る中、路上に倒れる三人がピクリと動き始め、ゆっくりとした動作でそれぞれが自分の足で立ち上がると、一斉に歓声が爆発した。
◇
大音量の歓声を一身に浴びながら、真希はただ戸惑っていた。何故ならば、気がついたら小太郎を下敷きにしていた、というのが嘘偽りのない真希の真実であったためだ。
「うるさいのう。耳が痛くなる」
真希の背後で、小太郎が不満を口にする。きっと顔をしかめているのだろう。
「えと、お姉ちゃん?」
顔の下で舌足らずな声が聞こえた。真希がそちらへ視線を向けると、ツインテールの女の子が不思議そうに真希を見上げている。事そこにいたって、真希は立ち上がった後もその少女を抱き締めたままである事に気が付いた。
「あ、えっと、怪我はない?」
腕の束縛を解きながら、真希は少女の目線に合わせて屈み、その様子を確認する。
「うん。お姉ちゃんが助けてくれたから」
少女がはにかむ。真希の見たところ、確かに少女はかすり傷一つ負ってはいなかった。地面に投げ出された時も小太郎が下敷きになってくれたおかげで、真希もまた傷一つない。
「あー、あたしと言うよりかは」
首を後ろに向けて、小太郎の様子を確認する。彼は服に付いた汚れを手で払っているところだった。
「ん? おう。大丈夫じゃったか?」
その反応はごく普通だった。片方が子どもとはいえ、二人の下敷きになったというのにまったく堪えていない様子である。真希は再び目の前の少女に向き直って、
「あのお面のお兄ちゃんが助けてくれたんだよ。お礼を言ってあげて」
真希に言われて初めはキョトンとしていた少女が、すぐにその意味を理解して小太郎の前に立った。
「む? 何か用か?」
突然目の前に立った少女を訝しんだのか、小太郎が腕を組んで身構る。だが少女はそんな小太郎に臆する事なく、
「助けてくれてありがとう。お面のお兄ちゃん」
しっかりと礼の言葉を述べた。おそらく親のしつけが行き届いているのだろう。
「さ、いつまでもここにいるわけにも行かないし、とにかく歩道まで戻りましょう」
真希は少女の手を取って歩き始める。その背後でお面の頬をぽりぽりとかきながら、小太郎も真希の後に続いた。
ちょうどその時、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。誰かが通報したのだろう。まもなくここに来るはずだ。
「あ、そうそう」
真希は少し立ち止まって、背後を振り返る。
「なんじゃ?」
「あたしからも言わせてよね」
短い言葉。けれど、想いを乗せた大事な言葉。たぶんその時が――
「助けてくれて、ありがとう」
真希のこれまでの人生で、一番の笑顔だった。