その3
「小太郎君のあれ、もう完全に日常の一部になってるねー」
十和子の言葉を受け、真希がちらりと隣へ視線を向けた先――小太郎の周りには今日も何人かの生徒が集まってきていた。授業後に行われる小太郎の簡易授業解説会である。
「真希はさっきの数学の公式分かったー?」
「まあ、何とかね。あれ以上複雑になるとちょっと自信ないけど」
そもそも真希はそこまで勉強に興味がない。ことに数学など義務教育過程で学んだ知識で十分社会生活は営めるのだ。専門分野に進むのでもなければ、無理に覚える必要は無い。
「しっかし、あいついったいどうやってそんなに勉強したのかしら」
そもそも、妖怪なのに人間の勉強が出来るのは少し不自然ではないだろうか。ついでに英語なんかの横文字が苦手なのに、数学の成績がいいのも真希としては納得がいかない。
「基本的に独学らしいよー。お父様のお知り合いの先生に習いに行ってた事もあるみたいだけど。それと、数学関係の知識はある種記号として捉えてるみたいだねー。サインとかコサインとか、真希だって言葉の意味は良く覚えてないで使ってるでしょ?」
真希の疑問に十和子がさらりと答えた。何故かやけに詳しい様子である。
「十和子。あんたなんでそんな事知ってるの?」
「本人に聞いたからだよー。って、あれ? 真希はそういう事何も聞いてないの?」
言われて、真希は特別小太郎について本人に尋ねた覚えが無い事に気が付いた。初めてまともに名乗り合ったのも空の上であったし、一つの機会だったお呼ばれはあんな事になってしまって、結局その辺りの普通にすべき事を実はあまりやっていない。
真希としてはそれなりに小太郎の事を知っているつもりだが、よくよく考えてみればあまり知らないとも言える状態だった。
――小太郎の事、か。
真希の視線の先で小太郎が鉛筆をノートに走らせ、書いたものを周りに示した。クラスメイトから小さな歓声が上がる。男子だけでなく数人ばかり女子が混ざっており、何となく小太郎の視線がそちらに行っているような気がして面白くない。
「真希。――もしかして妬いてる?」
「ふぇっ!?」
いつの間にか意識外に置いていた十和子の言葉に、真希は変な声を上げてしまった。
「な、何? 妬くって、なんで?」
「えと、小太郎君がクラスの女の子に目を向けると真希がちょっと怒った様な感じになるの。だから、もしかしたらって」
言われて、反射的に真希はペチペチと自分の顔に触れてみた。鏡がないので分からないが、特に強張っている様子はない。
どういう事だろうかと十和子に視線を向けると、何故か彼女は口元を押さえてニヤニヤと真希を観察していた。その様子に一瞬首を傾げて、真希はすぐに十和子の言葉が引っかけだった事に気が付いた。
「謀ったわね?」
「えー? 何の事ー? 分かんなーい」
おどける十和子を一睨みした後、真希は大きな溜息をついた。
視線は再び小太郎へと戻される。彼が女子のノートを指して何か説明をしている。ノートの子は何度か頷いた後、あ、と口を開いてすぐに笑顔になった。
――勉強が出来ると女の子にもてるのかしらね。
漠然とそんな事を考え、真希は何かむかむかした物が湧き上がってくるのを感じた。
「やっぱり妬いてる」
十和子に指摘され、真希はぱたりと机にうつぶせになる。
「真希ー?」
十和子の不思議そうな声が聞こえるが、真希の頭の中はぐるぐると回転し、ちょっとした混乱状態にあった。あの馬鹿のせいだ、と真希は心中で小太郎を非難しておく。
そもそも、である。真希の中で小太郎という存在は、いきなり親が勝手に決めた婚約者候補で、鴉天狗という妖怪で、でも考え方とかはまるで人間と同じ感じで、馬鹿のくせに勉強が出来て、英語が苦手で、エッチで、細身の割りに結構たくましくて、何となく頼ってもいいかなと思えて、一緒に空を飛んだ事があるという程度のものでしかない。
そのはずだったのに、ぐちゃぐちゃしていた物を吹っ切ってその後に残る感情を認識してからというもの、やたらと小太郎の事が気になって仕方が無いのだ。
気が付けば真希の視界の中に小太郎がいる。無意識のうちに、彼の行動を目で追っているのだ。
「……何か変な感じがする」
真希の胸の内にはもやもやした感情がある。たまらなく不快なようで、でもどこか心地よくて、何とも表現のしようが無い。
いや、この感情が何と呼ばれているのかは知っている。知ってはいるが、
――自分が自分じゃないみたい。
真希はかつてこれほどまでに強くこの気持ちを感じた事がない。荒れ狂うが如きその感情にただただ悩み、翻弄されるだけである。
――やっぱりあの馬鹿のせいだ。
真希はうつぶせのままちらりと隣を盗み見る。クラスメイトに囲まれた小太郎は、少なくともそれを嫌がっている様には見えなかった。
人間は嫌いだと言った小太郎のそんな姿が彼の父親を含む共存派にとって好ましく望ましい姿だという事は分かっている。ただ、あまりにもすんなりと溶け込んでしまっている事に少しの寂しさを覚えてしまう。
気持ちだけが逸り、胸の内に一度は振り切ったはずの不安が舞い戻ってくる。
――あたしは本当に、小太郎にとって必要な存在になれるの……?
そんな事を考えてしまったせいだろうか。放課後になって文房具が欲しいので店を教えてくれと言う小太郎の頼みを、真希は二つ返事で引き受けた。十和子は用事があるとかで辞退したが、その際に真希は「頑張って」と一言告げられている。
十和子のおせっかいに微妙な反応を返して、真希は小太郎を伴って学校からさほど遠くない所にある激安ショップへ向かう事にする。資金があまり無いという小太郎の意向を汲んでの選択であった。
「ところで、文房具っていっても何を買うの?」
大通りに面した歩道を進みながら、真希は小太郎に今回の目的の品について尋ねた。
道行く人々が、スポーツバッグを肩に下げつつ、しかしいつも通りの小太郎の格好にぎょっとするが、真希はもう気にしない。
「『くらすめいと』に鉛筆よりも『しゃーぺん』の方が使い勝手がいいと聞いてな。実際に借りてみたんじゃが、これが確かに良くての。自分の物が欲しいと思ったんじゃ」
小太郎がバッグから取り出した筆箱の中身は、六本ほどの鉛筆と消しゴム、あとカッターナイフだった。カッターは鉛筆を削り出すのに使っているそうだ。
小太郎が学校で使っている物は基本的に剛錬が揃えた物らしく、彼自身はさほど人間の道具に興味がなかったという。そのためか、初めてカッターナイフを見た時は小刀の変な奴だと思っていたらしい。
「でも、あんた学校に来る前も色々勉強してたんでしょ? シャーペンに触れる機会なんていくらでもあったんじゃない?」
「今にして思えばそうなんじゃが、親父の知り合いの先生は鉛筆こそが至高じゃとか言うておった人でな。後は筆と墨が最上とも言うておったか」
「ずいぶんと昔気質な人だったのね……」
どうりで小太郎が鉛筆しか持っていないわけである。また、至高と最上とはどっちが上なのだろうかと別な意味で真希の頭に疑問が浮かぶ。
「しかし鉛筆はいちいち削り出してやらねばならんが、『しゃーぺん』は尻の方を押してやればすぐに出てくるけえ。折れたときなんかも対応がし易いしのう」
それは真希にとっては周知の事であったが、小太郎にとっては初めての事なのだろう。得意げに説明するその姿は、とても楽しそうだった。だから真希は無粋な突っ込みを入れる事はしない。そんな事をして、楽しそうな小太郎を見れなくなるのは嫌だった。
「お金があんまりないからって安いところに案内するけど、本当にいいの? シャーペンって言ってもピンキリよ?」
「大丈夫じゃろう。借りたもんも百円で買える代物じゃ言うとった」
「あ、そう」
そのままとりとめもない会話をしながら二人は歩を進め、大きな交差点の角にある、百の文字が躍る看板を持つ激安ショップへと到達した。
「ここよ。中の物は大抵百円で買える物ばかりだから、好きなのを選ぶといいわ」
「ほう。ほとんどが百円とは、太っ腹な店じゃのう」
「どうかしらね。物によっては原価は二十円とかそんなもんだった気がするけど。ま、いいわ。入りましょう」
自動ドアを潜って、二人は店に入る。店の中には所狭しと様々な物品が並び、それなりの数の客もいるようだった。
「えーっと……」
真希は頭上を見上げ、文房具の案内板を探す。きょろきょろと何度か首を巡らし、目的の看板を見つけた。
「あった。小太郎、文房具はあっち……って、あれ?」
振り返った先に、小太郎の姿が無い。慌てて探し回ると、ガラス製の食器売り場で商品を眺めているところを見つけた。
「ちょっと小太郎。いきなりいなくならないでよね。心配したじゃない」
「ん? おお、真希。いや、ここはすごいのう。こんな物まで百円で売っとるゆうんじゃからな」
小太郎が手に取ったのは、ガラスの表面の一部が研磨された円柱のコップだった。描き出されているのは、ひらひらと舞い踊る羽毛である。
「買いに来たのはコップじゃなかったと思うけど?」
「分かっておる。ただ、ちょっと珍しくてな。興味が引かれたんじゃ」
真希に言われ、どことなくしぶしぶと小太郎が手にしていたコップを棚に戻す。
そんな様子が気になった真希は、
「それ、欲しいの?」
「あー、いや、そういうわけではないがの。さて、とりあえずは『しゃーぺん』じゃ」
迷いを振り切るように、小太郎はコップから視線を外した。そのままどこかへ行こうとするので、
「ちょ、ちょっと、あんた場所分かってないでしょ」
「おう。で、どこじゃ?」
しれっとそんな事を言って来る。真希としては呆れると言うかおかしいと言うか。
「まったくもう。ほら、こっちだから」
そう言って、真希は自然と小太郎の手を掴んで引っ張った。
「っとと」
予想外な行動だったのか、小太郎がややつんのめる。それを無視して、真希は少し歩いてから振り返った。
「またはぐれたりすると面倒だから、とりあえずよ」
真希はわずかに頬を染めながら、つっけんどんに言う。
「……お、おう」
すると、小太郎は突然大人しくなり、引かれるがままに真希の後をついていった。その間は二人とも、なぜか無言のままだった。
◇
「で、どれにする?」
「むう」
二人はずらりと並ぶシャープペンシルを一緒に眺める。その手はもう、繋がれてはいない。売り場に着くと同時に、真希はぱっと手を離してしまっていた。
「色違いの物から形そのものが違う物まで、実に種類が多いのう。目移りしてしまう」
「そうねー。あたしも久々に来たけど、こんなに多かったかしら?」
真希は一つのシャープペンシルを手に取り、眺めてみる。ピンク色で細い形状のタイプだ。子どもが好みそうな感じである。
「好きな色とかないの?」
手に取ったものを戻しつつ、真希は隣で悩む小太郎に聞いてみる。
「そうじゃのう。黒か青か、後は緑じゃろうか。真希はどうなんじゃ?」
「え? あたし? んー、あたしは赤かな。ピンクも嫌いじゃないけど、ちょっとあたしのイメージとは違う気がする」
言いながら、真希はちょっとゴツめの黒いシャープペンシルを手に取る。真希にとっては少々握りが太いが、小太郎にとってはちょうどよさそうである。
「これなんてどう?」
「お」
真希からシャープペンシルを受け取り、小太郎が握りを確かめる。何度か試してから、
「悪くはないが、ちと持ちにくいのう」
「そっか」
返されたシャープペンシルを元の場所に戻し、真希は再び物色を始める。小太郎は小太郎で、自分に合いそうなものを真剣に探しているようだった。
ふと、真希はここである事実に気が付く。今のこの状況は、いわゆるデートなるものではないだろうか、と。場所が激安ショップというのがあれかもしれないが、男女二人でショッピングとなれば傍から見てこれはもう間違いなくデートと言えるのではないか。
瞬間、真希は顔がかーっと熱くなるのを感じた。心臓が早鐘を打ち、ちょっと呼吸が苦しくなる。
「む? おい真希、様子が変じゃが、どうかしたか?」
真希の変化に気が付いた小太郎が心配そうに彼女を見る。
赤面している顔をあまり見られたくない。そう思った真希は、とっさに近くのシャープペンシルを手に取って小太郎の前に差し出した。
「こ、これなんかどうかな?」
ろくに確認もしていないためにどんな色で形をしているかも分からないが、真希はとにかく自分から注意をそらして欲しかった。
そんな真希にわずかに首を傾げつつ、小太郎は差し出されたシャープペンシルを手に取る。
「……むう。これは中々ええのう」
「え?」
そんな評価が聞こえて、真希は熱の引ききらないままに小太郎の持つシャープペンシルを見た。
「それで、いいの?」
真希がとっさに渡したシャープペンシルはさっきの物より若干細身で、全体的に黒色だがアクセントとして赤のラインが数本引かれているものだった。黒地に赤い色がよく映えている。
「うむ。持ちやすいし、色も悪くない」
しきりに手の中で弄繰り回す小太郎の姿は新しい玩具を手に入れた子どもの様で、真希は自然と笑みを作った。
「それじゃあそれ、買ってきなさいよ。あそこに並んで、立ってる人に渡せば代金言ってくれるから、その通りに払うのよ」
「なんか子どもに教えるような言い方じゃのう。前に『すーぱー』で真希がやっとったのを見とるけえ。心配いらん」
ちょっとだけむっとしたような感じで、小太郎が答える。しかし、彼はすぐには行こうとしない。
「どうしたの? 行ってこないの?」
「ああ。せっかくじゃし、もう少し他の物も見てみようかと思っての。さっきも言うたが、ここは色んな物があるけえ。ちょい見てみたくてな」
そう言う小太郎の様子を見て、真希はふと少し前の事を思い出した。
「ふーん……。あ、じゃああたしもちょっと見たい物があるから、この辺に居てね」
「なんじゃ? 何かあるなら儂もついていくぞ?」
「え? 小太郎って女の子の下着に興味あるの? ……やらしー」
「んな!?」
不意打ちに面食らう小太郎の隙を突いて、真希はたたっと走り出す。
「すぐ戻るからそこに居てよ」
軽く首だけ振り返らせつつ、釘を刺しておく。これでついて来る事はないだろう。
「まあ、百円だけど、ね」
目的の場所で目当ての品物を取った真希は、小太郎に気が付かれないようにレジに並び、商品をカバンにしまいこんでから文具売り場へと戻った。