その2
「そうね。そもそも、真希ちゃんは何でそんなに悩んでいるの? って、それがあやふやなんだとは思うけど、ともかく自分の考えを言葉にしてみて頂戴。どんなに無茶苦茶でもいいから」
諭されて、真希はとりあえず悩むきっかけになった出来事を彩夏に話した。妖怪の住処に行った時の事。三平の言葉。小太郎が軽々と口にした千年。
それらが真希を苛み、伴に歩く事は出来ないと気が付いてしまった事を、痛む胸を押さえながらも話し切る。
真希の話を小さく相槌を打ちながら聞いていた彩夏はテーブルの上で手を合わせ、目を閉じてしばし黙り込んでいる。
時計の針が時を刻む音だけが、やけに大きく聞こえていた。
「……そっか。真希ちゃんはあくまで今のまま対等でいたいんだね。そして、対等になれないなら隣に立つ資格が無いと思ってる」
若いっていいなぁ、と彩夏が溜息混じりに吐き出した。閉じていた目が開かれ、母である美春と良く似た黒の瞳が真っ直ぐに真希を射抜く。
「ねえ真希ちゃん。貴女の目から見て、私は源尚さんの隣には立てていないのかしら?」
その問いに、真希は息を呑んだ。彩夏は源尚の隣に立っている。そう思ったからこそ真希は彼女に相談しようと決めたのだ。
ゆえにそんな事はないと言おうとした真希を、しかし彩夏が軽く手で制する。
「ありがとう。貴女から見て隣に立てているのなら、私は嬉しいわ。少し自惚れだけど、きっとそれは、誰が見てもそう見てもらえるのだと思うから」
本当に嬉しそうに笑った彩夏は、その直後に少しだけ寂しさを表情に滲ませた。
「でも、ね。私だって源尚さんと対等なわけじゃないのよ。それは私が一番良く分かっている」
そう。真希と小太郎が対等ではない様に、同じ問題を内包するはずの彩夏と源尚もまた、対等ではない。
なら何故、と真希は思わずにはいられない。彩夏自身が対等ではないと言っているのに、何故彼女は隣に立てるのだろうか。隣に立っているように見えるのだろうか。
「私が源尚さん隣に立っているように見えるのはね、あの人が私に、私のためだけに時間をくれたからよ。妖怪としてではなく人間として。少しでも私が対等な立場に立てるように」
それはつまり、源尚が自らの尺度の全てを彩夏という人間に合わせた事になる。妖怪としての自分をほとんど捨て、ただ一人の人間として隣にある事を選んだのだ。
「でも、それじゃ……」
真希は顔を伏せる。小太郎の隣にいるという事は、彼が常に真希に合わせ続けるという事になる。全てにおいて違うはずの歩幅を、真希が小太郎に合わせられない分、小太郎が真希に合わせるのだ。
――そんな関係は、対等じゃない。
「そうね。真希ちゃんの考えが本当は正しいんだと思うわ。けれど、少なくとも源尚さんはこれでいいと言ってくれたわ。自分がそうしたいからそうするんだって」
「……え?」
彩夏の言葉に反応して、真希は伏せていた顔を上げた。目の前に優しく微笑んだ彩夏の顔がある。
「ねえ、真希ちゃん。その彼は、貴女のために無理矢理何かを我慢している感じだった? 貴女に合わせる事を嫌うような雰囲気を出していたのかしら?」
その問いに、真希はこれまでの小太郎の行動を思い出す。そのどれも、多少面倒臭そうに思える事はあっても、決して嫌っている様子は無かったと思う。
「源尚さんに聞いたのだけどね。この婚約制度って、いつでも破棄出来るのよ。それは妖怪側からでも人間側からでも構わない。破談になるケースなんて、珍しくないんだって」
「そう……なんですか?」
初耳だった。真希は剛錬のやや強引な側面を多々見て来たので、無理矢理にでも婚姻を推し進めようとするのではないかと思ったほどだ。
「ええ。だってほら、無理にくっつけたって駄目なのは、何も妖怪と人間の組み合わせだけじゃないでしょう?」
改めて言われてみればその通りである。剛錬がやや強引に思えたのは、それだけ必死だからという事なのだろう。
「で、真希ちゃんの話ね。そんなあやふやな状況なのに、貴女は彼の家にまで招待されているわ」
ドクン、と真希の心臓が強く脈動する。その先に続く彩夏の言葉は――
「もしもその彼が無理に合わせているのなら、絶対にそんな事にはならない。それはつまり、貴女に合わせる事を良しとしている証でもあるんじゃないかしら」
「でもっ! 合わせてもらって対等になってもあたしは――」
そんなものは許せない。ただ与えられるだけの立場を、真希は許容出来ない。
「そうね。そのままただ相手に合わせてもらっているだけなら、それは対等ではないわ。でもね、それなら真希ちゃんも何か相手の為にしてあげればいいんじゃない?」
真希は目を見開き、呼吸を忘れた。自分が小太郎に何かをしてあげられるなどと、考えた事もなかった。妖怪の常識外れな能力を知っているがゆえに、無意識的に考えを封じ込めていた。
「相手が自分に合わせてくれる。ここは妖怪と人間という関係上、私たちから合わせるのは難しいわ。でも、それならそれで私たちも何かしてあげられる事を見つければいいだけの事なのよ」
妖怪は人間よりもずっと凄い。そんな凄い妖怪に、人間がいったい何を出来るというのだろうか。真希にはまるで分からない。
「だから私はね、ずっとあの人を愛して行こうって決めたの」
胸の上で両手を重ね、その奥にあるものを優しく抱きしめる様にして、彩夏は目を閉じて小さく笑みを浮かべる。
「盲目的に、という意味じゃないわよ? きっと、些細な事で喧嘩だってするわ。そういったものを全部含めて、私は生ある限り一緒にいて、愛していこうって決めたの。この役目は、誰にも譲らないわ」
スッと目を開き、まるで宿敵に挑戦状を叩きつけるような視線をもって、
「他の誰でもない。私が、あの人に必要とされてるの。そして何より、私が、あの人の隣に居たいから」
彩夏が力強く言い放つ。その言葉は真希の内奥に突き刺さり、身体がぐらりと揺れたような気がした。
「ねえ真希ちゃん。貴女はどうしたいの? その彼の隣に居たいとは思わないの?」
彩夏の言葉に立て続けの衝撃を受けた真希の中では様々なものが激流の如く暴れ回り、全く収拾が付かない状態にあった。だが――
「居たい、です」
不思議と彩夏の問の答えはすぐに出た。いや、最初から答えはあったのだ。だからこそ、小太郎の隣に立つ資格が無いと気が付いた時に、真希は深い悲しみを感じたのだから。
真希は、彼の隣に居る事を望んでいる。
「でも、あたしのわがままであいつを縛りたくない」
ただの足手まといになるくらいなら、そんなわがままを通すべきではない。それが真希の考えだった。
「別にわがままでいいじゃない。もちろんそれを相手が受け入れてくれるかどうかはまた別の話だけどね。でも、そんなの言ってみなきゃ分からないじゃない。それでもしも受け入れてくれるのなら、素直に甘えてしまいなさいな」
あっけらかんと彩夏は言ってのける。あまりの言葉に真希が呆気に取られていると、
「そうして受け入れてもらえたら、代わりに貴女も相手のわがままを受け入れてあげなさい。甘えさせてあげなさい。それが持ちつ持たれつ、対等って事になるんじゃない?」
しん、と静まり返った空間で、真希の内面もまた同様に凪の世界になっていた。あれほどまでに荒れ狂っていた激流が一瞬にして収まってしまっている。
「存在として対等になれる人なんて、古今東西どこにも居ないのよ。それでも対等になりたいのなら、互いを補い合えるような関係になりなさいな。どちらかがどちらかを一方的に補うのではなく、ね」
パチリと片目を閉じて茶目っ気を見せる彩夏に、真希はしばし呆然として、噴出した。そしてそのまま大きな声で笑い続ける。
単純な事だったのだ。どうしようもないものはどうしようもない。ただそのどうしようもないものにどう対処していくか。ただそれだけの事だったのだ。
どうしようもないものをどうにかしようとしたからつまづいただけで、最初からどうしようもないものと受け入れてしまえば、後は自分次第。いくらでもやりようはある。
「少しはお役に立てたかしら?」
ひとしきり真希の笑いが収まったところで、彩夏が微笑みを浮かべながら尋ねてくる。
「はい。まだ完全じゃないと思いますけど、大分すっきりしました」
「それなら良かったわ。真剣に悩んだ真希ちゃんなら、きっと貴女にとって最高の答えが見付かるはずよ」
彩夏の言葉に力強く頷き、真希がお礼の言葉を言おうとしたところで、突然大きな泣き声が聞こえてきた。続いて、
「あ、彩夏さんちょっと来てください!」
半分悲鳴になった源尚の声が聞こえてきた。赤ん坊の対処で何か失敗でもしたのだろうか。
真希と彩夏はしばしキョトンと見つめ合い、同時に小さく噴出してクスクスと笑い合った。
「ちょっと行って来るわね」
「あ、はい」
笑いを噛み殺しながら、彩夏が居間を出て行く。
一人残された真希は、彩夏にもらった言葉を口には出さずに反芻する。自分がしたい事、すべき事。それがいったいなんなのか。今はまだ明確には分からない。
――けれど――
ただ一つ分かったものがある。それは激流が去って静かになった心に残る一つの感情。
真希はその感情を優しく抱き締めるように、胸に両手を当てて目を閉じた。
その時、呼び鈴がなる。
余韻に浸りきれず、何となく中途半端な状態ではあったが、まさか彩夏や源尚に応対に出てもらうわけにもいかないので真希は仕方なくドアホンに出た。
「どちらさまですか?」
『おう。儂じゃ』
画面に映った人物を見て、もう少しで悲鳴を上げるところだった。声を無理に押し止めた事で、真希は激しくむせる。
『どうかしたか?』
「……げほ。ううん、なんでもない。ちょっと待ってて」
通話を切った真希は、トトトっと小走りで玄関まで行き、ドアを開いた。
「おう」
軽く手を挙げた小太郎が、いつもの格好で立っている。
「うん。って、今まだ学校の時間なのに何でこんな所にいるの?」
「学校の方はあれじゃ、早抜けしてきた。ここにおる理由は無論、お主に会いに来た」
真希の心臓が激しく脈打った。それこそ、口から飛び出るかというほどに。
「えええとと、そ、それはどういった……」
これでもかと言うほどに目が泳ぎ、真希は両手の指を交差させたり擦ったりと非常に落ち着きを無くしている。
そんな様子をどう思ったのか分からないが、小太郎もまた少し落ち着かなさげに身をよじると、
「先日は、すまんかった」
いきなり真希に頭を下げてきた。
「はい?」
その行動の意味が分からず、真希はキョトンとするしかない。
「いや、ほれ、いきなり泣き出して、その後ひどく塞ぎ込んでおったじゃろ? 親父がお主を送りに行っとる間に三平とか映心に相談したんじゃが、そろって儂が悪いと切って捨てられての……」
ポリポリとお面をかく小太郎は、何ともバツが悪そうな様子だった。その情けない姿を見て、普段とのギャップに真希は軽く噴出してしまう。
「あ、ごめんごめん。別にさ、あんたは悪くないわよ。問題があったのはあたしだけで、もうそれも大丈夫だから」
「……本当か?」
噴出された事を不審に思ったのか、それとも真希の言葉を訝しんだのか分からないが、小太郎は探るような感じで真希を見てくる。
「うん」
だが真希がしっかり頷いてみせると、ややあってから目に見えて彼の身体から力が抜けるのが分かった。本当に心配してくれていたのだと、真希の胸が少しだけ熱くなる。
「あ、そうだ。せっかく来たんだから、今日はあたしの部屋を見せてあげるわ」
「む?」
唐突な提案に、小太郎が首を傾げた。真希自身、いきなり何言ってるんだと突っ込みを入れるくらいだったので、その反応は至極当然といえた。だが――
「ええ、のか?」
恐る恐るといった感じだが、乗ってくる。
「そう言ってるのよ。まあそこまで楽しいもんじゃないかもしれないけどね」
ほら、と小太郎を家に招き入れ、真希は二階の自室へ向かう。大人しく付いてくる小太郎の存在を背中で感じながら、真希は相手には見えないように笑みをこぼした。




