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堕天使の杜

姉弟

作者: kimra

 一人の男がいた。

 辺りは寝静まり、聞こえるのは雨の音だけ。男はポケットに手を入れ、俯いていた。どこかで犬の鳴き声がする。

それはすぐに雨音にかき消された。

 男は複雑に唇を歪めゆっくり瞬きをすると、濡れるのも構わず小雨の降る中を歩いて行った。




 雨が降っていた。梅雨入りして以来、毎日のようにこうである。机に向かい、暇そうに欠伸を繰り返していた男ー綾部垣内あやべかいと-は、近づいてくる足音に耳を傾けた。

「綾部さん。仕事は来ましたか?」

 ドアを開けて入ってきたのは、高校生くらいの少年だった。身長はお世辞にも高いとは言えないが、バランスのとれた体付きに品よく整った顏。しかし、金髪の短い髪の毛がその高貴なイメージをぶち壊している。

「やあ、つぐみくん。元気だったかい?」

垣内はにっこり笑って手を上げた。名前を呼ばれた少年ー久次鶫ひさつぎつぐみ-は引きつった笑いを返し、すぐに真顔に変わる。

「元気も何も昨日も会ったじゃないですか。暇そうですね」

「はい」

 垣内は悪びれた様子もなく童顔の、どう見ても鶫の同級生としか思えないきれいな顔を縦に振った。

 さらさらした柔らかそうな色素の薄い髪。長めの前髪の下からは、薄茶色の瞳が覗いている。怪我でもしたのか、左目は黒い、少し変わったヘアバンドのようなもので覆われていた。

「いくら不景気たって、二週間も仕事がないなんてシャレになりませんよ。せめてバイトするとか…。聞いてるんですか、綾部さん」

鶫は机の横で大声を上げている自分を尻目に、何か考えている垣内に気付き、机を叩く。

 垣内はそれに動じる様子もなく、不敵な笑いを浮かべて囁いた。

「お客だ」





 垣内の声からしばらく遅れて、二十代後半の女が入ってきた。顔は美人とは言い難いが、細いたれた目が人の良さそうな雰囲気を醸し出している。

「いらっしゃいませ。綾部探偵事務所は、迅速かつ信頼の仕事を目指しております。どうぞ」

 垣内は愛想よく、広い部屋の中央に置かれたソファを勧め、自分もその向かい腰を下ろす。

「鶫くん、お茶を入れてくれたまえ」

「ああ、はい」

 鶫はその態度に半ば呆れ返りながら、隣の部屋へと去っていった。

「あの……」女は困惑した様子で垣内を見つめる。「失礼ですがおいくつなんでしょうか?」

 どうやら女は高校生の外見をした彼を不審に思ったらしい。その問いに垣内は白々しく驚いて見せ、

「四十二です」

と、あっさり答えた。女は信じられないという表情を顔に浮かべ、口を手で覆った。

「嘘ですよ。彼は二十四歳です」

 ちょうどその時、熱いコーヒーを淹れ終えた鶫が入ってきた。コーヒーを二人に配り、垣内の隣に腰かける。

「綾部さん。そんなことばっかり言ってるから、依頼が来ないんですよ」

「すいません」

 垣内はペコンと頭を下げた。その言葉に反省の色はない。

「ところで用件は何ですか?」

 垣内は女に向き直り尋ねる。女は帰りたそうな様子を見せたが、深呼吸をすると諦めたように話し出した。




 簡単に説明するとこうだった。

女の名前は椎村世華しいむらせいか

二日前の夜、弟の泰樹たいじゅが出て行ったきり戻らないとの事。近くの道路で車は発見したが、泰樹の姿はなし。その弟の捜索。



「椎村さん。一つお聞きしてもよろしいですか?」

垣内は一通り話を聞き終えると、満面の笑みでそう言った。世華は「はい」と力なく答える。垣内は続けた。

「警察には捜索願を出されてるんでしょうね」

「え……、あの、はい」

 女は曖昧に頷く。垣内はその答えに口に手をあて少し考えていたが、

「わかりました。お任せください。連絡先は……ああ、こちらですね。鶫くん、質問はあるかい?」

「いえ……、別に」

「そうかい? それでは後はこの綾部垣内にお任せください」

 そういって彼は天使のような微笑みを世華に向けた。




「大丈夫なんですか? あんな大きい事言って」

机の上に長い脚を乗せ、新聞を読んでいた垣内に鶫が問う。垣内はさきほどのコーヒーカップを片付けている鶫に手招きして見せた。鶫はいぶかしみながらも近づく。

「弟の行方は分かってるんだ」

 垣内はそう言うと小さな新聞の記事を指さした。鶫は驚きながらその記事に目を通し、おおきなため息をつく。

そこにはこう書いてあった。

『道路脇の草むらで脱ぎ捨てられた身元不明の衣類一式が発見

    裸の持ち主は一体どこへ!?』

垣内は勝ち誇った顔で鶫を見つめている。それが余計に彼を苛立たせた。

「だから何ですか! それが泰樹くんの服だとしても、中身がいないとどうしようもないでしょう」

 鶫は新聞を机に叩きつけると、片付けの続きを始めた。垣内は困ったような笑みを浮かべ、携帯に手を伸ばす。

「ああ、オレ。垣内だけど。東城とうじょうお願いします」

「俺だけど……っていうか俺の携帯だから当然だろ」

呆れたような低い男の声が聞こえる。

「何か用か?」

「用がなきゃ掛けないでしょう」

そう言うと垣内は、姿の見えない相手に微笑んだ。





「こんにちは」

 軽いノックの後、目つきの悪い二十代の男が入ってきた。

「あ、高峰さん」

「やあ」

 高峰東城たかみねとうじょうは部屋の掃除をしている鶫の方を見て、軽く手をあげた。そして、そのままソファに直進する。

「垣内は?」

その問いに鶫は苦笑し、

「今、お昼寝してるんです……。すぐ起こしてきます」

 そう言って足早に出ていく。高峰はため息をつき、「やれやれ」と手を広げた。

 ここ、綾部探偵事務所は三階建てで、主に一回は事務所、二、三階が家になっている。-とはいっても住んでいるのは垣内一人で、鶫は近くのアパートから通っていた。

 それから約五分後、垣内はTシャツにスウェットというラフな服装で現れた。寝たりないのか、やたらと目を擦っている。

「お前、人呼び出しといて寝るなよ」

「ごめんごめん」

垣内は怖いと噂の高峰の目をまっすぐ見て微笑んだ。


「それで、椎村世華。本当に聞いたことないんだね?」

「ああ。椎村泰樹という男の捜索願もでてないし、そういう名前を聞いたこともないらしい」

「え……、でも……」

掃除を続けながら聞いていた鶫は、手を止めて二人を振り返る。垣内は満足そうに口を歪めた。

「だいたい二十二歳にもなる男が二、三日帰らなかったからってなんだっていうんだ。どこぞやの皇太子じゃあるまいし」

 鶫は掃除機を放り出し、眠そうに欠伸をする垣内の隣に座り、頷く。

「ありがとう、東城。オレ、もう一眠りするね。おやすみー」

そう言うと垣内はソファから立ち上がった。

「おいおい、まさかこれだけのためにこの雨の中来いって言ったのか? 電話で済むだろ」

 高峰はつり上がった目をますますつり上げ、ドアへ向かう垣内の腕を掴んだ。垣内はそれには動じず眠そうな目で精一杯の笑みを作り、

「いいじゃないか。久しぶりに会いたかったんだ」

とあっさり言い残し、何食わぬ顔で去っていく。

「す…すいません、高峰さん」

「いや……、いいよ。あいつは昔からああだから」

高峰は、鶫に引きつった笑顔を返し、疲労の色を見せつつ帰っていった。

 その頃、高峰の苦労をよそに垣内はすでに夢の中にいた。





久しぶりに雨が上がり、少し青空が顔を覗かせていたその日、二人の男はあるアパートを訪ねていた。

「すいません。突然うかがって。あ、どうも」

 垣内は出されたインスタントコーヒーに砂糖を三個とミルクを注ぎ、うまそうに飲む。横で見ていた鶫は何度見ても慣れないその光景に顔をしかめ、ブラックのままのコーヒーを啜った。

「それで、何か分かったんでしょうか?」

「いえ、何も」

 垣内は無邪気にそう言った。世華はこの垣内のテンポに明らかに困惑し、引きつった笑みを顔に浮かべている。

 鶫は助け船を出そうと世華に話しかけた。

「あの……、弟さんのことなんですが、どうして嘘を……」

と、そこまで話した鶫の前でポチャンと音がした。無意識に目を移すと、垣内が二個目の角砂糖を鶫のカップに入れようとしていた。

「な……、何するんですか!」

「ブラックなんて体に悪いと思ってね」

 そう言ってにっこり笑った垣内の瞳は、鶫に強く訴えかけていた。「言うな」と。鶫は玩具のように首を縦に振る。

垣内は角砂糖を元の容器にもどし、取りとめのない話を始めた。




「鶫くん、あの女の部屋をどう思った?」

 アパートの階段を下りながら垣内は尋ねる。鶫は二十センチ以上も差のある垣内を見上げた。

「どうって……。2DKのアパートで、部屋は6畳くらい。もう一部屋は見てないから分からないけど、多分泰樹くんの部屋ですね」

「ほかには?」

 鶫は少し考え込み記憶を辿る。

「他には……壁に穴があいてましたね……」

「確かに。台所は? 見たかい」

 垣内は彼の肩よりも小柄な金髪の少年を見下ろしながら、意味ありげに笑う。鶫はその視線に気付くことなく俯いて視線を泳がせた。

「ええ……入口にありましたから……。それが何か……?」

「フライパンがね、床においてあったんだよ」

「買い替えたので捨てるためにじゃないですか?」

 鶫はそういうと垣内を見上げた。彼は苦笑していた。

「台所には新しいものがなかった。料理本や鍋を買い揃えて料理をする人が買う前に捨てるかな?ましてゴミに出せる日じゃないのに」

 不思議そうに眉を八の字に寄せた鶫を見て、長身の彼は悪戯っ子のように嬉しそうに笑った。鶫は息を一つつくと周りを見渡す。

右の方に駐車場が見えた。

「じゃあ、なぜフライパンが……? まさか……」

 鶫は駐車場の方に向きを変えた垣内を追いながら、一人呟いた。やっと垣内の言わんとすることがわかったらしい。

「まさか、世華さんが何か……? じゃあ、なぜ、依頼を……」

 垣内は振り返り、にっこりとほほ笑んで見せた。そして鶫が隣に来るまで待ってから、

「なんでだろうねえ。ただ、東城に軽く聞き込みしてもらったところ、泰樹くんはいつも世華さんから金をせびってたそうだよ。結婚ぶち壊したりね」

あっさりそう言ってのけた。鶫は頭の整理ができない様子で腕を組む。垣内は不思議な笑みを浮かべた。



「あっ……と、これだこれだ」

垣内の声に鶫が我に返ると、彼は駐車場の一番奥の端にある黒いワンボックスカーの前にいた。

「その車がどうかしたんですか?」

 そう言いながら近づく鶫に、垣内は大げさに手を広げてみせる。

「これが泰樹くんの車でーす」

 鶫は呆れ返った。事実、世華は車の特徴も何も言ってなかったし、新聞にも載ってなかったのだから分かるはずはない。

「なんで分かるんですか?」

 鶫はため息とともにその言葉を吐き出した。

「もちろん勘だよ。カ・ン」

 思った通りの答えに、鶫は体中の力がどっと抜けた気がした。肩の辺りが大きな岩を背負っているように重い。

 そんな間も垣内は車の周りをくるくる回り、なぜか手を合わせたりしている。

 鶫は自分と同じくらいの歳に見える、やたら背の高い彼を見ながら頭を抱えた。





 夕立のような強い雨が降っていた。周りの世界は遮断され、世界は滅びたような錯覚に陥ってくる。

その時電話のベルが鳴った。突然現実に引き戻された垣内は、珍しく不機嫌な声で携帯を取り上げた。

「はいー、こちら綾部です。ご用はー?」

 電話の向こうでは更に不機嫌そうな声。

「お前、着信入ってたから掛け直したのに何度電話しても出ねぇし、やっと出たと思ったらそれかよ…」

 電話の相手、高峰東城は怒るのを通りすぎ、呆れているようだ。ため息交じりの声が聞こえる。

「あははは。ごめん。いい気分のところ邪魔されたから。悪かったよ」

垣内は相変わらず、反省の色なく軽い調子で言った。

「ところで、今日は何なんだ。来いってのは遠慮したいな。今、外から戻ったんだが外は大雨だぞ」

 垣内は窓の外を見ながら軽く相槌をうち、長い細い脚を組む。電話の向こうで「高峰さん、タオル」という女の声が聞こえた。

「こないだの椎村世華のことだけど、頼みたいことがあるんだ」

その少年のように無邪気に笑う彼の言葉に、東城は急に小声になり、

「おい、無茶なことはできないぞ。そんなことしてたら仕事できなくなっちまう」

と囁いた。その様子を想像した垣内は思わず吹き出し、笑い出す。東城は気分を害されたらしく、「切るぞ」とドスのきいた声で言った。その言葉に慌てる様子もなく、

「ごめんって。そんなんじゃないからさ。君を敏腕刑事と見込んでお願いがあるんだ」

と、まだ少し笑いを堪えながらもまじめな声で言う。

彼とは今年で八年に付き合いになる東城は、嫌な予感を感じていた。垣内のお願いにろくなことはない。

 実際、東城の予感は当たっていた。



「うわっ……、何するんですか。オレ、嫌ですよ!」

 その日、綾部探偵事務所では一人の少年がその犠牲になっていた。

「いいじゃないか。これも給料のうちだよ」

 垣内は相変わらずの天使の微笑みを鶫に向けた。鶫はしぶしぶ椅子に座る。

「ふふふ……、最初からおとなしくしていればいいんだよ~~」

「その意味ありげな言い方やめてください!!」

 鶫はきれいな顔を精一杯歪めて垣内を睨む。垣内はそれに子供のような笑顔で答えた。

 現在、彼に敵う者はいない……。




 二時間後、そこには見たこともない少年がいた。ツンツンと立てた茶色い髪、長く細い眉、薄い唇そして細いたれた目……。

「やあ、泰樹くん。これに着替えてくれるかい」

 そう言うと垣内は短いTシャツと細身の革のパンツを手渡した。

「本当に大丈夫なんですか?だいだいなんで泰樹くんの顏知ってるんですか?」

鶫は着替えながら、やたら重そうなピアスや指輪を用意する垣内に問いかけた。

「彼女の部屋で見たんだ。写真をね。言った通り演じてくれるね。演劇部、部長さん」

「わかってますよ」

 確かに鶫は中学・高校と演劇部で部長をやっていた。演技の方もまずまずで、劇団にスカウトされたこともある。そんな鶫が今ここにいるのも運命というやつか。

「写真なんてあったかなあ……」

 これでも一応、部屋中を観察したつもりだ。でも写真があったという記憶は見つからない。

 鶫はあれもこれもと、アクセサリーを吟味する垣内を見た。

(何者なんだろう……)

 度々感じる疑問だった。いつもにこにこしてピエロ役を演じているが、時々非常に鋭いことを言う。だいたい左目を隠していること自体、かなり胡散臭い。

 前に一度、冗談ぽくそれを取ろうとしたことがあった。その時垣内は今まで見せたことのないほど険しい顔で、鶫を叱りつけた。

その時以来、それに触れないのが暗黙の了解だと鶫は思っている。きっとなにか深い理由があって、それには触れてほしくないんだ、と。




 雨は止んでいた。けれど辺りは暗く、どんよりと曇っている。時折、ごうごうと悲しげな悲鳴を上げる空は、今にも泣き出しそうだ。

「おいおい、垣内。本当に椎村世華は弟を殺したのか」

 東城は折角の休みに垣内に呼び出され、しぶしぶ事務所を訪れたのだ。そこには、垣内ともう一人知らない少年がいた。その少年が鶫だと気付いたのは、お茶を出され、「どうぞ」という言葉を聞いた時である。

「そんなこと言ってないでしょ。鶫くんといい、せっかちだなあ。まあ、東城はそれで声を録音してよ。それと証人役ね」

 そういって微笑む垣内の顏は自信に満ちており、それを肯定しているようにしか思えなかった。

 東城はそんな垣内から目を移し、隣を歩く鶫を見る。

穴のあくほど見ても、彼から鶫の面影を見出すことはできなかった。垣内は、

「鶫くん頼んだよ。君にかかってる。まあ、人間なんて動揺すると細かいとこなんて見てないだろうけど」

と、にっこり笑った。

泰樹の顔をした鶫は細い目で垣内を睨むと、「わかってんよ。しつこいんだよ、ジジイ」

鶫とは思えぬ返答をする。どうやらもう役に入ってるらしい。

 声まで違うその少年に東城は驚きを隠せない様子で、自分よりさらに背の高い垣内を見た。彼は鶫の発言に気を悪くした様子もなく、満足そうに微笑む。東城は二人を互いに見比べながら垣内に尋ねた。

「この声は・・・?」

「もちろん泰樹くんの声の感じを教えたんだ。全く、鶫くんは天才だよ」

「お前なんで声まで知ってるんだよ。まさか」

 その問いに垣内は意味ありげに笑った。

「彼の友達に聞いたんだよ。もしくはイメージかな」

 東城は自分より一つ年下の彼の小悪魔のような笑みを見て、「これ以上何を聞いても無駄だ」と悟り口を噤んだ。




 まもなく目的の場所、椎村世華のアパートに到着した。雲が低く垂れこめているせいか、ひどく不気味な感じがする。

 垣内はそんなことは気にも留めず、意気揚々と世華の部屋に向かう。二人も後に続いた。

「こんにちは。世華さん」

ドアを開けて出てきた女に、垣内はいつもの調子で声をかけた。世華は疲れ切った顔で無理やり笑顔を作る。

「あ、こっちは友達の高峰です。今から遊園地にいくとこなんです」

 こんな天気の日に遊園地。東城は垣内のその言葉に呆れながら、愛想笑いをしてみせた。署内でも怖いと評判のその顔に世華は怯えながら疑いのまなざしを向ける。

 垣内は正反対の天使の笑顔で話しだした。

「実は泰樹くんが見つかりました」

 その言葉と同時にドアの陰から鶫ーーいや、泰樹が現れる。俯き加減でだらだらと歩き、世華に近づくとクッと笑った。彼女は一生懸命平静を保っているようだったが、顔色と小刻みに震える唇がそれを裏切っていた。

「あー痛いなあ。なんかあちこち痛むんだけど。誰かさんのせいで」

「しっ知らないわよ。やめなさいよ。人前で……」

 世華は弟だと本気で信じているらしい。まあ、無理もないことだが……。

「へっ、人前じゃなきゃ何してもいいのかよ。人殺しとか?」

 その言葉に世華は可哀想なほど動揺した。傍観者に徹していた垣内の口が怪しく歪む。

「なにを言ってるのよ! あんた……こんなにピンピンして……生きてるじゃないの。私は殺してなんかなかったのよ」

世華は垣内たちの存在も忘れ、玄関先で叫ぶ。

「君……」

世華に近づこうとする東城の肩を垣内が掴んだ。そして、小声で「まだだよ」と囁く。その表情はいつもの笑顔と打って変わって冷ややかなものだった。

「でも事実は変わらないぜ。あんたはフライパンで……」

 そこまで言うと泰樹は世華を見下ろしフッと口を歪める。世華はもうすでに我を忘れていた。顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいる。彼女は奇妙な笑みを浮かべた。

「フライパンで何度か殴ったからなによ。あんたは生きてるわ。その上頭の傷も大したことなかったみたいね。あんなに血が出たから、てっきり死んだかと思ったわ」

そこまで彼女が言ったところで垣内は口を挟んだ。

「そして、血を流して倒れてる泰樹くんをおいて逃げ、戻ってきたら彼がいなくなっていた。それで困って依頼して来られたわけですね」

「そうです。生きてるのか死んでるのかどうなったのか気が気じゃなくって……。車は道路わきに乗り捨てられてるのを見つけたけど、あんたはいなかった……。本音を言えば死んでて欲しかったけどね」

 世華は意地悪な魔女のように笑った。でもどこか悲しげな落胆したようなそんな影を含んでいる。

垣内はそんな世華にもう興味はないのか、体の向きをくるりと変え、

「死んでて欲しかったんだって。鶫くん」

そう泰樹に向かって話しかける。世華は唖然としてその様子を見守った。鶫は背筋をピンと伸ばし、垣内を見上げて答える。

「ええ……、聞きました。今……」

 世華は驚愕した。当然といえば当然である。弟だと信じていた人物から聞き覚えのある声がもれたのだから。

 世華はしばらく状況が呑み込めずぽかんと口を開けていたが、突然我に返り垣内に掴みかかった。

「じゃあ……泰樹はどこ行ったのよ。弟はどうなったのよ!」

「さあ……、彼の行きそうな場所は、あなたの方が詳しいでしょう。死んだ後も……ね」

 そう言うと天使の微笑みを少し歪め、手で東城に指図する。東城は彼女を垣内から離し、持ってきていた警察手帳とボイスレコーダーを見せた。世華は大きく目を見開く。

「あっ……私、本当に殺してなんて……。知らないんです。本当に……」

「話は署の方で聞きましょう」

 垣内は明るく芝居じみた口調でそう言った。ーー東城のセリフを。

世華は気が狂ったように首を振っている。それを東城が優しく階段へと促した。

「大丈夫。話を聞くだけですから」

 そう優しくなだめるように言うが、顔は相変わらず怖い。世華は諦めたように頷いた。

 そして立ち去ろうとする東城に垣内はこっそり耳打ちをする。

「早めにうまく言って帰してあげてね。死体は見つかんないから」

「お前、やっぱり……」

 垣内は愛嬌たっぷりににっこりと微笑んだ。





 空は泣いていた。

 男はその中を傘もささずに歩いている。男の横を一台の車が通り過ぎ、間もなく「ドン」という鈍い音と共にタイヤが悲鳴をあげた。雨のため、かなり遠くで止まった車から小柄の男が降りてくる。

「ちっ、猫かよ。今日はマジにツイてねーぜ。車傷ついてないだろうな」

 よく見ると、道路の端の方で黒いものがビクビクと動いている。男はその一部始終を見ていた。

「くそっ。いてて……。あの女、覚えてろよ」

 小柄の男は頭を押さえながら、車に戻ろうと向きを変えたが、背中に視線を感じ振り返る。

そこには背の高い、濡れそぼった男が立っていた。頭に怪我をしているらしいもう一人の男は、頭に巻いたタオルを触りながらじろじろと長身の男を見た。

「この猫……、死んじゃいましたよ」

スラリと縦に長い男がぽつりと呟く。猫は痙攣も治まり、静かにそこに横たわっていた。小柄の男はプッと笑い、

「だから何? 猫だよ、猫。全く、今どきのガキはやたらでかくなりやがって」

と、さもおかしそうに言った。長身の男はそっと猫の死骸を抱き上げると、左目を覆う黒い布を取りながら言う。

「今日は本当にツイてませんね。この猫も、あなたも」

 そう言って微笑む男の左目が銀色に光った。

「なっ……なんだよ、お前」 

 小柄の男は向きを変えた。しかし、もう遅い。彼の肉という肉、筋という筋、骨という骨は砂になりさらさらと崩れていった。その柔らかな砂を小雨が洗い流す。そして、中身を失った布きれは儚く崩れ落ちた。

 男はその衣類を道路脇の草むらに全て蹴りいれると、大事そうに抱えていた猫の死骸を砂に変える。それは雨で柔らかくなった土に消えていった。

 男も泣いていた。美しい銀色の瞳がしたたかに輝く。

雨が沈黙の中でたったひとつの音色を奏でていた。


                                        END









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― 新着の感想 ―
[一言] 『姉弟』拝読させて頂きました。 とても面白かったですよ! 連載版も見てみたいと思いました。是非連載を!ww 探偵っていう職業は少し憧れますね…… こういう事件ばかり解決していくのが探偵の仕…
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