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セレン・バラードという聖女1

あの衝撃的なスピーチが終わってから――アルト王子は誰の目にも明らかに元気がなくなった。

いつもなら絶対にしないような凡ミスを授業で起こし、時折、心ここにあらずといった様子でどこかを見つめている。

去年と同じ美術の授業で描いた自画像は、フィリア様が指摘していたあのキラキラした背景が完全に消えていた。


よほど効いたらしい。


みんな今も陰であの一件をこそこそ話題にしているけれど、本人の前で口にする人は誰もいなかった。……ただひとりの悪女を除いて。


『ごきげんようアルト様。いえ、エスペランザを導くアルト様の間違いね』

『ところで繁殖を気になさっているということは、現在婚約者でも募集しておられるのですか?』

『無視しないでください~。あ、塵など見えていないと?』


 ……このように、鬱陶しいくらいあのスピーチでのミスをこすり倒している。

 正直、アルト王子がかわいそうになるくらいだ。周りもどんどんアルト王子に同情し、またもやフィリア様だけが好感度を下げている。

 それなのに、フィリア様は好感度は功績ポイントに関係ないと言って、今もまた通りかかったアルト王子に突っかかっている。


「アルト様、そういえば、どうして自画像の背景が今年は地味だったのですか? 去年みたいにたくさんキラキラを足してもよかったのでは?」


 今日はキラキラ背景が消えたのを弄っている。


「……フィリア嬢、いい加減にしてくれ。私は君と話したい気分ではない。それに君は美術を選択していないだろう。なぜ去年のものまで知っているんだ」

「美術室に展示を見に行ったからです! 去年はアルト様がひと際目立っていたのに、今年は地味すぎて探すのに一苦労でしたわ」

「ぐっ……! やはり、私にしては遠慮しすぎたか……だが、今は注目を浴びるのが怖い……!」

「あらあら、ひとりでなにをブツブツと仰っているのです?」


 終始眉間に皺を寄せるアルト王子と、ほほほほと笑みをこぼすフィリア様。

 周りも「またやってるよ……」「いい加減しつこいわよね」「アルト様かわいそう」と、彼女に冷めた目を送っている。

だが、誰も直接注意はできない。みんなフィリア様にできるだけ関わりたくないのだ。

唯一面と向かって文句を言いそうなサディアス様は、今回だけなぜかおとなしかった。揶揄われても仕方ないとサディアス様が納得するほど、アルト王子のスピーチは恥だと思っているらしい。


「あの、フィリア様。そろそろいいのではないでしょうか? 過ぎたことを何度も言われては、アルト様の心も傷ついてしまいます」


 ついに居ても立っても居られなくなったのか、セレン様が一歩前に出て、フィリア様に注意した。


「人を傷つけて良いことなどなにひとつありません。誰かに痛みを与えるたび、あなた自身がなにか失ってしまう……。あなたが私たちに好意を抱いていないのは、普段の様子を見ていればよく分かります。けれど、お願いです。せめて傷ついた者には慈悲をお示しください。その優しさはいつか必ず、あなたにも恵みをもたらすでしょう」


 セレン様は祈るように両手を胸の前で組み、慈愛に満ちた眼差しで語りかけた。


 ……天使だ。天使がそこにいる。


清らかな声がその場を静寂で満たし、フィリア様は黙ったままセレン様を見据えていた。


「つまり……もうこれ以上、私の大切な仲間を苦しめるのはおやめください」

「……セレン」


 感動したのか、瞳を輝かせてアルト王子がその名を呟いた。サディアス様もまた腕を組みうんうんと深く頷いている。いや、あなたもなかなかアルト王子を許してなかったような。


「では、行きましょう。アルト様、サディアス様」


小さく可憐なセレン様が、自分よりも遥かに大きな男性ふたりを従えて歩く光景は、まるで慈愛の女神のようだった。その姿には、どんな人をも受け入れる包容力と温かさがあふれている。

彼女がいた場所は清楚な花の芳香が残り、その一帯だけが聖域のように清められているようだ。


「さすが聖女様!」

「セレン様がいれば、学園の平和は安泰だわ!」


 みんなはセレン様を称え、三人の後ろをぞろぞろとついて回る。


「……はあ。聖女ってより、女神……いや、天使様だ……」

「なに見惚れてるのよ、下僕」

「うわぁっ!?」


 僕もぼーっと小さくなるセレン様を見つめていると、急に目の前にフィリア様の顔がどアップで現れた。


「あーあ。せっかくアルト様をからかってたのに、セレンのせいで興醒めだわ。言い返す気も失せちゃうくらい」


 フィリア様は残念そうに、やれやれと肩をすくめる。


「フィリア様はやりすぎですよ。しつこく追撃するせいで、アルト王子に同情票が集まってますし」

「同情されたって、失った功績ポイントは取り返せないわ。女子生徒もみんなアルト様にドン引きしてたのに、今ではすっかり落ち込んでるアルト様可愛い~になってるんだもの」


 だからそれは、むやみにフィリア様がアルト王子を虐めているせいでは……。


「めずらしくセレン様も怒っていましたからね。僕、あんなセレン様初めて見ました。いつもにこやかに微笑んで、清楚で……そんな彼女しか見たことなかったので」

「……ふーん。下僕にとって、セレンはそういうイメージなのね」

「はい。可愛いだけでなく、聖女という称号を持っているのですから。まさに高嶺の花ですよ」

「男って本当にああいう清楚な女性が好きよね。不思議」


 ……フィリア様も黙っていたら、全然今頃セレン様に負けず劣らずモテていた気がする。

 セレン様より背が高く、可愛いより美人な雰囲気だけれど、フィリア様のほうが好みという男性はたくさんいそうだ。


「全男子の憧れって感じはありますよね。……でも、僕は、フィリア様のほうが、素敵だと……」

「……あら? ふふ。見る目あるわね。下僕」


 照れて最後まで言えなかったが、フィリア様は察してくれたようだ。もっと「当たり前じゃない!」と上から目線でくるかと思ったら、僅かに頬を染めて小さく笑っている。……彼女こそ女神かもしれない。この時の僕は、本気でそう思った。


「それにしても、セレンったら生意気ね。子爵令嬢のくせに聖女ってだけでえらそうなのよ」


いや、そこは聖女ってだけで、王族くらいの肩書になるから当然かと思う。それよりこの流れ、なんだか嫌な感じが……。


「ちょうどいいわ。どっちにしろ、次のターゲットはセレンだったもの」

「……またやるんですか? フィリア様」

「当たり前じゃない。六月には前期の祈りがあるでしょう? その祈りを妨害すれば、功績ポイントは上がらないわ」

「でも祈りの失敗は、学園の平和にもかかわるんじゃ?」

「なに言ってるの。一度失敗するくらいで大きな影響はないわ。聖女がいない時代だって当たり前にあるんだから。……祈りってね、聖女が自らの心と魔力を整えて、静かに世界へ差し出す儀式なの。胸の奥から魔力を一点に集めて、心の中で紡ぐ祈りの言葉と共に細やかな粒子へと変換し、外に放っていく。光の粒が舞い上がれば舞い上がるほど、エスペランザはの国民は癒され、平穏がもたらされるのよ」


フィリア様は聖女ではないのに、よくそんなに細かいところまで知っているなと思ったが、あらゆる分野の知識に関して、学園で彼女の右に出る者はいないだろう。

いったいどれほどの種類と数の本を読み漁ってきたのか、凡人の僕には想像もつかない。


「集中力が削がれれば光は外へ出てこない。ほんの少し意識を乱すだけで、祈りは途切れる。狙うべきはそこね」

「……どうやって、あのセレン様の意識を乱すつもりなんですか?」


 力ずくでやれば即バレだろうし、祈りの最中のセレン様の集中力は尋常じゃない。目を閉じ、雑念をすべて断ち切っているあの姿からは、付け入る隙なんてとても見つからない。


「もちろん、聖女セレンの“弱点”を突くのよ」

「セレン様に弱点が?」

「詳しくは放課後の美術室で話してあげる」


 フィリア様は人の気配を察して、僕にぱちりとウインクを投げてから、ひらひらと手を振ってその場を去っていった。

 残された僕は、胸の奥でざわつくものを押さえきれずにいた。

 慈悲深く、仲間思いで、誰からも慕われる清楚な聖女様。彼女が聖女に選ばれて以来、祈りの儀式で失敗したことは一度もない、らしい。

 そんな完璧な彼女に、集中を崩すほどの弱点が……? 僕は気になって仕方なかった。


** *


次の日。

 僕は昨日、フィリア様に指示された通り、セレン様の動向をひそかに観察していた。

 

『セレンの弱点……それはね、彼女は学園きっての腐女子なのよ』


 昨日の放課後、フィリア様から衝撃的な話を聞かされた。

 腐女子というのは、ボーイズラブが好きな女性のことを指すという。つまり、男と男の美しい恋愛模様をこよなく愛すると、そういうことだ。


『ちなみにサディアス×アルトで妄想してるみたい。大切な仲間でふしだらな妄想をしてるって、いかがなものかしらね。よくも私に苦言を呈せたわ』


 別にふしだらかどうかはわからないが――たしかに、いつも一緒に行動しているふたりで妄想をしているとなると、かなりセレン様のイメージは変わってくる。


『あ、下僕。私を疑っているのね。私の情報網を舐めないで。私はあの三人を日ごろからよ~くこっそり観察しているのよ。すべては功績ポイントを上げさせないための、弱みを握るために。それでね、気づいたの。……セレンが持ち歩いている、秘密のノート』


 フィリア様が言うに、セレン様は自分の妄想を書き綴った〝秘密のノート〟を持ち歩いているらしい。

 一年生の時、フィリア様が気配を消してこっそりセレン様に背後から近づいた時、そのノートに書き綴られている文面を一部目撃してしまったらしいのだ。


『〝サディアスはアルトを熱い眼差しで見つめ、その目には隠しきれない欲望が溢れていた……〟みたいな、そんな文章だったわ』


 セレン様の中で、サディアス様の片思いっていう設定なのだろうか。それとも、両想いになる段階までを丁寧に描くタイプ……? いやそんなのはどうでもいい。


『本当にびっくりでしょう? 清楚な聖女が、実は雑念まみれのBL好きだなんて~!』


 びっくりどころか、自分の目で確認しない限り未だに信じられない。

 

『下僕に頼みたいのは、祈りの儀式の前日か当日までに、そのノートの場所を突き止めてほしいの。……ねぇ、もしあのノートをほかの人たちが見たら――どんな反応するんでしょうね? 特にアルト様とサディアスの反応が気になるわ。持ち主はさぞかし焦って、なんにも手がつかないはずよ』


 フィリア様はいつもの悪女めいた笑みを浮かべてそう言った。

 つまり彼女の考えでは、ノートを盗み中身を晒すことで、セレン様は祈りに集中できなくなる――そういう作戦なのだろう。

 流れとしては、僕が探知してノートの場所を暴き、フィリア様が盗みに行く。アルト王子の時と似たような作戦だった。

 誰かの秘密を暴くだけでなく、ましてや盗み見なんて……さすがに気が引ける。

 だけど、とりあえずフィリア様の言っていることが事実かどうかは正直気になる。彼女の勘違いかもしれない。そうだとしたら――セレン様の清楚なイメージは、守り抜かれるはずだ。


 そんな少しの希望を持って、とりあえず秘密ノートを認識するところから始めた。

 自分自身がその存在を認識しなければ、探知魔法が使えないからだ。


 ――それからまず、三日間ほどじっくり観察を試みる。

 そこで、秘密ノートと思わしきものをセレン様がたまに持っているのがわかった。事前にフィリア様から〝赤い色の薄いノート〟という情報をもらっていたため、そんなに手こずらずに認識でした。


 だが、問題はここからだ。

 セレン様はそのノートに〝探知不可〟の保護魔法をかけていたのだ。

 予想はしていたが、それをかけられては僕の探知魔法は効かない。

放課後その旨を彼女に伝えると――。


「じゃあ、セレン自身にノートを持ってこさせるしかないわね」


 至って冷静な表情で、フィリア様はそう言った。


「持ってこさせるって、どうやってですか?」

「私も同じ趣味なの! って言って、仲良くなればいいのよ」

「フィリア様がそんなこと言ったって、セレン様は警戒するだけですよ」


 そもそも、自身の腐女子がバレていることのほうが怖いだろう。


「ええ。そうね。だから下僕、あなたが腐男子のふりをしなさい」

「へっ? ふ、ふだんし?」

「セレンと同志のふりをするのよ。彼女が好きなのは〝サディアス×アルト〟だからね。忘れないように。順番を間違えると嫌われて終わりよ」


 よくわからないが、順番ってそんなに大事なのか。


「でも僕、そんな趣味ありませんし……」

「フリって言ってるでしょう。言うことが聞けないなら――そうね。早速先生に鍵の盗難の件を――」

「ままま待ってくださいフィリア様! わ、わかりましたから!」


 僕は弱虫だ。結局、フィリア様に逆らえなかった。


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