フィリア・ヘイズという悪女3
四周目。
アルト様、セレン、サディアス――。
大好き仲間を立て続けに失い、私はもう限界に近い。
目覚めた直後、アルト様に差し伸べられた手に触れてすぐ、全身が震えてうまく笑えなくなった。
日記を掘り起こす手も常に小刻みに震えて、屋敷へ戻ってからは自室のベッドに潜り込む。
もう嫌だ。こんなつらい現実から逃げてしまいたい。
だけど、大事な仲間を誰も失いたくない。
……そうだ。逃げればいいんだわ。みんなで災厄から逃げれば、誰も死なずに済む。
今世でも災厄に対抗する手段がなにもわからず、いい情報が掴めなければ、その時は……学園がどうなろうと構わない。
私は、私の大好きな三人と一緒に逃げればいい。
「フィリア」
変わらずに図書室で本を読み漁っていると、アルト様が声をかけてきた。
入学して間もなく、彼が私をこんな場所まで訪ねて来るのは初めてのことだ。
「……なんだか、君の様子がどうも気になってね。無理していないか?」
「……え」
「入学式の日から、君の本当の笑顔を、まだ一度も見られていないような気がしてね」
できるだけみんなの前では、これまで通り明るく振舞っていたつもりだった。ループの事実を知らないみんなが、私のちょっとした異変に気づくはずがない――そう思っていた。
でも、アルト様は違った。私が無理に笑っているのを、たった数日で見抜いていたのだ。
「初めて挨拶を交わした日、手が震えていたんだ。それからどうにも、フィリアのことが気になって……もしかして、私たちとひとくくりにされるのは、君の本意ではなかったか?」
「! 違うんです! あの日はどうにも、緊張して……」
「そうか。それならいいのだが……」
誤魔化す私を見て、アルト様が眉を下げて笑った。きっとこれが嘘だっていうのにも、気づいているのかもしれない。
「誤解しないでください。私、本当にスターズに入れて嬉しいんです」
「……うん。それならよかった。でもせめて、私の前では作り笑顔はいらない。君が本当に笑いたい時に笑ってくれればいい。悩みがあるのなら、いつでも打ち明けてくれ」
「……ありがとうございます」
「大丈夫。私の前では完璧でなくていい。そのままの君でいいんだよ」
その言葉を聞いて、私は目を見開いた。
だってそれは、私がいつも、無理に頑張るアルト様にかけていた言葉だったから。
「……ふっ。ふふっ」
まさかの立場逆転に、おもわず笑みがこぼれる。
「フィリア?」
いきなり笑い出した私を見て、彼が困惑の声を上げる。
「ごめんなさい。ふふっ。その言葉、そっくりそのままアルト様にお返しいたします」
「……え?」
今度はアルト様が綺麗な碧眼をまん丸にして私を見つめた。
「アルト様ったら、周りの理想でいるために、ひとつのミスも許せないお方でしょう? 私の理想のアルト様は、ありのままのアルト様なので」
これまで何度も彼が無理している場面を見て来た。自信満々でナルシストで、愛すべき王子様の彼が、いつも求められる自分を保つために必死だったところを。
「……君は凄いな。そんなの初めて言われたよ。しかもまだ出会って数日というのに」
私ははっとした。
そうだ。今世ではまだ、絆が深まりきっていないんだった。
しかしアルト様は、どこか嬉しそうにはにかんで、柔らかな声で言う。
「なんだか君には敵わない気がする。改めて、これからもどうかよろしく頼むよ。フィリア」
ひとけのない図書室で、私はアルト様と二度目の握手を交わした。
――この手は絶対に離してはならない。今度こそ絶対、みんなで災厄から逃げるんだ。
逃げるという手段を固めた私は、災厄の情報集めは続けながらも、どこか甘えた日々を過ごした。
これまでのつらい記憶も、この先に迫る恐怖に蓋をするみたいに。
最初に互いをさらけ出したおかげもあって、アルト様とは特に仲が深まった。元々一周目でも彼といちばん仲が良かったが、今回は常に、アルト様が私を気にかけてくれるようになったと思う。
……そのせいで、セレンからの視線が痛い。彼女からすると、サディアスとのツーショットのほうが見たいのだろう。事情を知っている私は、心の中でひそかに謝罪した。
二年生になってからは、アルト様が生徒会スピーチの練習風景を見せてくれた。
こっそり練習しているのは知っていたけれど、本人から「見てほしい」と言われたのには驚いた。
鏡を見て、一言一句間違えず、声のボリュームや表情までもこだわり抜いている。
「みんなには、完璧な私だけを見ていてほしいんだ。そしてフィリアには、たまには完璧すぎる俺を見せたくてね」
そう言って、年相応の少年みたいな笑みを浮かべるアルト様。
原稿を暗記しないのかと聞けば、「ミスをする可能性があるなら、絶対にしないほうを選ぶ」と言って、そこにも彼なりのこだわりがあるのだと知った。
セレンとサディアスとも良好な関係を送り、毎日が夢みたいに楽しかった。
だから、二年目の文化祭が終わった夜――私は急に不安になったのだ。
前を歩く三人の背中を見ていると、これは本当に、いつか醒める夢なのではと感じてしまって――また、身体が震え始めた。
「……フィリア?」
振り返り、アルト様が私のほうへ歩み寄ってくる。
「アルト様、私……怖いんです。怖い夢ばかり見てしまって……。誰かがいなくなるのも、ひとりになるのも……もう嫌……! ずっと、あなたたちと一緒にいたい」
突拍子もなくぶつけた不安なのに、アルト様は迷いのない真っ直ぐな視線と言葉で返事をする。
「もちろんだ。ひとりにしないし、誰もいなくならない。私たちの絆は卒業しても変わらない」
こんな私の弱さを受け止めてくれる。その優しさが心地よく――私は、縋ってしまった。
「約束してくれますか? 私を置いていかないと……なにかがあれば、ともに、逃げてくれると……」
一瞬、アルト様は目を見開いた。だけどその瞳を柔らかに細めて、ゆっくりと頷く。
「置いて行くわけないだろう。君が望む限り、私はずっと隣にいる。……セレンも、サディアスも」
彼の奥には、振り返って私を待ってくれているセレンとサディアスの姿があった。
三人の微笑みが、私の震える身体を鎮めてくれる。
迎えた冬休み。私はスターズのみんなと遊んで過ごした。予定がない日は、図書室から持ち帰った本を読んで過ごした。もう数えきれないほどの本を読んだけれど、災厄についての手がかりはない。
休み明け。災厄が現れる日は刻一刻と迫っている。
そんな中、予想外の出来事が起きた。アルト様が後期のテストで成績を落としてしまったのだ。
その結果――今回の功績ポイント首位者は、土壇場でセレンに入れ替わった。
「アルト様がこんなに成績を落とすなんて、なにがあったのですか?」
災厄が現れる前日、完成した卒業制作をアルト様と眺めながら、私は問いかける。
「……文化祭の日を覚えている? 君は言った。〝私を置いて行かないで〟と。正直、驚いたよ。そして、その言葉の意味をひとりでずっと考えていた」
アルト様は視線を私へ向けると、静かに目を細める。
「君が不安を抱える理由が、もし私だったとしたら、と思ったんだ。――功績でも、評価でも、私はいつも前を歩きすぎているから」
「! い、いえ。そんなつもりじゃ――」
「もし君が置いていかれると感じてしまうのなら……私は喜んで立ち止まる。君の隣で笑えるのなら、トップじゃなくたって構わない。そういうことさ」
アルト様はあの日の私の発言を、成績や功績も含めて、まさに〝置いて行かないで〟とそのまま捉えたのだろう。
そういう意味ではないけれど……でも、自分がカリスマすぎてひとり遠い存在となるのを懸念したっていうのは、ナルシストのアルト様らしい見解でもある。
ただ、あれほど周囲の理想の姿になり続けていた彼が、私のたった一言でここまでするのは、なぜなのかしら。
それだけは、いくら考えても理解ができなかった。同時に申し訳なさもこみあげる。だけど、彼の表情はとても清々しそうだった。
「フィリア、まさか責任を感じているのかい?」
「えっ! それは……だって、私が吐いた弱音のせいで……」
「違う。これは私が 君の言葉を大事にした結果なんだ。いつも期待に応えようとしてばかりだったが……私が本当に守りたいのは、理想でも星の称号でもないと気づいた」
まだ少し冷たい風が吹き抜けていく。でも、不思議とどこか温かさを感じた。
「君と出会えてよかった。フィリア。君と会ってから、明日が来るのがいつも楽しみで仕方がなくなったよ」
勘違いだろうか。アルト様が私を見つめる眼差しが、これまででいちばん優しい。
「卒業したら、どんな未来が待っているのか。それを考えると、朝目覚めるのが待ち遠しいくらいだ。……だからええっと、つまり……これからも、よろしく頼むよ」
このタイミングで未来の話をするのは、ずるい。
でも、未来の話が出たからこそ、今度こそはって――そう、思ったりした。
四度目の予行練習の日。
災厄が出て来るタイミングは掴めている。異変が起きた瞬間に、私はアルト様とセレンとサディアスを連れて大ホールから飛び出した。
「あれはなんだ!?」
「フィリア様、なにか知っているのですか!?」
「おい、霧に触れた生徒たちが倒れてるぞ!」
「いいから、早く私と一緒に逃げて!」
彼らを立ち止まらせてしまえば、きっと戦ってしまう。
私は背後から聞こえる生徒たちの悲鳴に耳を塞いで、三人と共に走り続けた。
学園に棲みつく災厄ならば、敷地内から離れてしまえば、追いかけてはこれない――そう思っていた私の読みは甘かった。
奴は霧だ。いつ、どの場所にだって姿を現わせる。
後ろにいたと思った霧は目の前に現れ、姿を広範囲に広げて行く手を阻む。
――セレンが危ない!
今回一位を獲ったのはセレンだ。災厄は彼女を食べるだろう。
「逃げて、セレ――」
彼女のほうを向いた時、セレンは私の向こう側を見て目を見開いた。次第に顔が真っ青になり、口をぱくぱくと開けてなにかを言っている。
「あ、あ、あると、さま」
「……え」
「アルト!? アルトはどこに行った!?」
続けて響くのは、サディアス様の怒声にも似た悲鳴。振り向くと、そこにいたはずのアルト様がいなくなっている。
「……なんで、アルト様が……?」
彼は功績ポイントで一位を獲らなかったから、災厄の狙いからは外れたはず。それなのに、今回餌食となったのはアルト様だった。
目的を飲み込み、災厄は満たされて消えた。
学園に残ったのは、これまででいちばん悲惨な光景だった。
大ホールに転がる大量の死体は、すべて災厄の仕業だろう。逃げる私たちに警告したかったのか、どちらにせよ、逃げる道を選んだせいで出てしまったたくさんの犠牲。
私はこの時、確かに逃げる未来を選んだ。
〝守りたい〟という強さより――〝失いたくない〟という弱さが勝ってしまった。
こんなはずじゃなかった。
関係のない人たちが死んだのも、アルト様が死んだのも、全部全部、私のせい。
私が現実から逃げて、思い出に浸って、なにもしなかったから。
本を読んで、情報を探るふりをして、現実からも逃げていた。その結果がこれだ。
どうあがいてもこうなるのなら、いっそ、私が何度も死んでやり直せばいい。
永遠に、この二年間だけを生きていれば――そうすれば、みんなと一緒にいられるじゃない。
私、もう疲れたの。誰も失いたくないのに、失うことに疲れた。
死ぬのだって、何度やっても痛いし怖いわ。でも、スターズの誰かを人生で失うくらいなら、一瞬の恐怖なんて耐えられる。
だからまたやり直して、何度も何度もやり直して、ずっと卒業せずにいればいい。未来なんて、捨ててしまえば……。
『いいかフィリア。ヘイズ家の異能は、国の希望だ。未来に進むために与えられる、特別な力なんだ』
ふと、亡き祖父の教えが頭の中に響いた。
私がなかなか異能に恵まれなかった時も唯一優しくしてくれた――大好きな祖父。
祖父は〝未来視〟の異能を持っていた。起こり得る災いを察知し、王国を何度も危機から救った英雄だ。
年齢と共に異能は弱まっていたが、それでも最後の最後まで国と人々の未来のために尽くし、四年前、眠るようにこの世を去った。
ずっと、私の憧れだった祖父。……そういえば、祖父は死の間際、私になんと言っていた?
『フィリア、未来は恐れるものではない。……お前が選び取るものだ』
……ああ。そうだった。
あの時は、祖父が死んでしまうのが悲しくて、怖くって、その意味を理解しようとしなかった。
でも、今ならわかる。おじい様にはあの時、なにかが視えていたのね。
そして私がこれまで何度も死に戻りしているのは――私が望んだ未来に進んでいないからだ。
ふらりと立ち上がり、アルト様がいた空白の場所を見つめる。
反対を見れば、絶望に顔を歪ませるセレンとサディアス。さらに視線をずらせば、災厄の闇に触れ、命を落とした同級生たち――。
私は走り出した。日記を埋めて、最後にもう一度だけやり直すために。
周囲の悲鳴も、絶望も、全部を無視して、ただただ走った。なにもできなかった手で土を掘り、死に方がわからなくて、今度は学園の屋上まで走った。
「次は絶対、誰も死なせない」
震える足を、前に踏み出す。
一周目、私はなにも知らなかった。
二周目、聖女の力に頼った私は、また大切な人を失った。
三周目、誰より強い騎士ならと希望を持ち、その誇りごと傷つけた。
四周目、つらい現実から、自分たちだけ逃げる道を選んだ。
私はずっと、運命に抗い続けていた。でも今度は――。
「君があのヘイズ家のフィリア嬢か。私はアルト・ランチェスター。彼女が聖女のセレン、彼が騎士のサディアス」
五度目の挨拶。よかった。ちゃんと異能が発動した。
「君は知っているかな? 私たち四人は、既に学園で噂になっているらしい。なんでも、希望の星……だとか。恐れ多いけど、有難い話だ。よければこれから仲良くしよう」
アルト様の大きく優しい手が、いつものようにこちらへ差し伸べられる。
……ごめんなさい。もう二度と、この手を取ることはできないの。
「希望の星? 笑わせないで」
パシリと払いのけ、私は大好きだった人たちから目を逸らす。
今度こそみんなを守るために。これまで私に手を差し伸べてくれたみんなに、精一杯かっこをつけさせて?
私の未来は、私が選ぶ。そして私が望む結末は
〝功績ポイント一位をとり、災厄に私を食わせること〟。
この運命を受け入れて、必ずひとりでやりきってみせる。
もう二度と、未来を捨てようとは思わない。
私は――ヘイズ家の令嬢として、そして、大好きな人たちのために、この人生を捧げると決めた。




