あの時、あなたは
騒動の後、僕は旧校舎の美術室にいた。
もう学園での授業はすべて終わり、明日からはひたすら、卒業式に向けて予行練習するのみだ。
つまり、この美術室に来るのもあと僅か。いい加減、鍵も返さなくっちゃな……。
今日も、フィリア様は来ないだろうか。
そう思っていた矢先、美術室の扉が開いた。
「下僕、あなたに頼む最後の仕事よ」
扉が開くなり、そこに立つ人物――フィリア様が、いつもと変わらない笑顔でそう言った。
「フィリア様!?」
後期に入って、彼女がここへ来るのは初めてだ。
しかもあんなことがあったというのに、まるで何事もなかったかのよう。
「あの、あの後大丈夫だったんですか? というか、なんであんな大胆なことを……! フィリア様らしくないですよ」
久しぶりに会話するというのに、僕は気持ちが先走って、今抱いている感情をそのままぶつけてしまった。
でも、本当にそう思った。あんなに作戦を練り、確信を持って行動していたフィリア様が、みんなの前であんな大胆に卒業制作を燃やす意図が、僕には理解できなかった。
「大丈夫よ。あのバカ王子に水をかけられた時は、本気で殺意が湧いたけどね。特に処分もないし、卒業式であんな趣味の悪い銅像を見なくて済むし、私の勝ちよ」
「……勝ちって、でも……」
あの行動は、果たして彼女にとって正解だったのか。
「それより、最後の仕事って言ったでしょう。ついてきて!」
「えっ!? フィリア様、どこ行くんですか!」
「いいから、早くっ!」
腕を引っ張られ、目的地もわからないまま連れ去られる。今日はよく人に引っ張られるな、なんて思いつつ、彼女に掴まれている箇所は勝手に熱を帯びていく。
旧校舎を走り回り外に出て――辿り着いたのは、学園敷地内の庭園奥地だった。
「ここでなにをするんですか?」
「私、今からここのどこかの樹の下にこれを埋めるわ」
フィリア様がずっと片手に持っていたノートを、胸の前に掲げる。
「あ……それは、フィリア様の作戦ノート……?」
何度か目にしたことのある、彼女曰くスターズへの嫌がらせ作戦が書かれているというノートだ。
「そう。スターズを陥れるためにいろんな作戦をこのノートに書いて練っていたのよ。でももう必要ないから、証拠隠滅のためにこれを埋めておこうと思ったの」
「たしかに、そんなの後で万が一でも見つけられたら不都合ではありますね」
「でしょう? でも、燃やすのは嫌なのよね。私の努力の勲章だもの」
――卒業制作を燃やした人がなにを言っているのかと思ったが、とりあえず触れないでおいた。
「それで、僕はなにをすれば?」
「下僕は誰かがここに来ないように見張りをしていて。あと、誰にも知られたくないから、下僕もこの樹より後ろは見ないでちょうだい」
「はぁ……わかりました」
返事を聞いて、フィリア様は駆け出していく。
見張りといっても、こんな奥地には誰も来ないだろう。
僕はいくつもの樹が生える庭園の、ひとつの樹の下で、とりあえずフィリア様の〝証拠隠滅作業〟が終わるのを待っていた。
空が青いな。雲が白いな。緑が綺麗で、風はやっぱり肌寒いな。
自然に対するつまらない感想をひらすら心の中で呟いていると、次第に眠くなってきた。
庭園の芝生は心地よく身体を包んでくれる。いつの間にか、僕は寝そべって眠りについていた。
――どれくらい時間が経っただろう。
突然頬にポツポツと水滴が落ちる感触がして、ゆっくりと瞼を開く。
ぼんやりした視界の中で、フィリア様の姿が見えた気がした……が。
「わあああっ! 寒っ!」
身体中に降りかかる、大きな水の粒。
気づけば大雨が降り注ぎ、僕の全身を濡らしていた。
「ふっ! あははっ! 下僕ったら、見張りをサボるからよ!」
向かいにある大きな樹の下で雨宿りするフィリア様が、慌てる僕を見て無邪気に笑っている。
「フィリア様、雨が降ってきたなら起こしてくださいよ!」
「嫌よ! だって、あまりに気持ちよさそうに寝ていたんだもの! 起こしたらかわいそうじゃない」
「まったく、フィリア様のおかげでびしょ濡れですよ」
「あら、さっきの私と同じね!」
屈託のない笑みで、フィリア様は言った。
……こんな顔で、そんなことを言われたら、これ以上怒れなくなる。
「私は魔法が使えないから、身体で暖めたらいいかしら?」
悪戯に笑い、彼女が僕と距離を縮めてくる。
「な、なに言ってるんですか」
「ふふ。ねぇ、さっきはありがとう。暖かかった」
「……よかったです。気づいてくれたんですね」
「もちろんよ。……あんな行為をしたのに、私を嫌わないでくれて……らしくないって言ってくれて、ありがとう。下僕」
フィリア様が、僕の肩に頭を預ける。少し重くなった右肩が、愛しくてたまらない。
「わ、下僕のせいで、私の髪が濡れちゃったわ」
「……濡れた制服の上に頭を置いたら、そうなりますよ」
「もういっそ、私ももう一度濡れたほうが早いわね」
「えっ、フィリア様!?」
彼女は樹の下から飛び出すと、降りしきる雨にその身を委ね始める。
「風邪引きますって!」
「平気よ! そんなにヤワじゃないもの! ほら、下僕も来て!」
「……はぁ。仕方ないなぁ……」
ため息をつきながらも、僕は全然嫌ではなかった。
フィリア様と一緒なら、フィリア様が笑ってくれたら、雨だろうが、嵐だろうが、それでよかった。
僕が彼女の笑顔を見たのは、これが最後だ。
次の日。卒業式の予行練習中――彼女は死んだ。
亡骸すら残さず、僕の前から、いなくなった。
* * *
「……アム、リアム!」
声が聞こえる。
でも、この声はフィリア様じゃない。なぜなら彼女は、僕を名前で呼んだことがないからだ。
フィリア様でないなら、目覚める意味がない。このままずっと、目を閉じていよう。
――ポツ、ポツ。
その時、懐かしいというにはまだ早い感触がした。
頬に落ちる水滴。彼女とふたりで過ごした最後のあの日を思い出し、気づけば僕は目を覚ましていた。
「……リアム! ああ、よかった……!」
「お兄様、リアムお兄様っ……!」
そこには、僕の顔を覗き込むようにして泣いている母親とマリエルの姿があった。
薬品のにおいが鼻をつく。……ああそうか。僕、事故に遭って……。
「リアム、覚えてる? 馬車と衝突したのよ。頭を強く打って――。でも、ほかに大きな怪我はなかったわ」
母上がゆっくりとした口調で、僕に説明してくれる。
それで身体が重いのか。どのくらい寝ていたのだろう。喉が渇いて声も出ない。
「お兄様、生きててよかったぁ……!」
そんな僕の頬にもう一度、マリエルの涙が降り注ぐ。
……あれ。
やっぱり、まったく一緒だ。
あの日、樹の下で寝ていた僕の頬に落ちて来たものと。……まさか。
はっとして、僕はベッドからがばりと上体を起こした。
心臓がやけにバクバクとしている。
あの時、僕の頬に落ちたのが雨じゃなくて――フィリア様の涙だったとしたら。
「……!」
「リアム!? ちょっと、どこ行くの!?」
居ても立っても居られなくなり、僕は痛む身体を起こして走り出した。いろんな人が、僕の名前を叫んでいる。それでも足は止められない。
なぜ、彼女は泣いていた? あの場所で、なにをしたかった?
空の色を見て、今が夕方だと悟った。
まだ間に合う。まだ、卒業していない。僕は学園に入れる権利がある。
幸いにも僕が入院していた病院は、学園からそう離れていない場所にあった。数十分走ったところで、僕は庭園に辿り着くことができた。
庭園の奥の、さらに奥へと足を進めていく。
このどこかの樹の下に、彼女が埋めたノートがある。
どうしてわざわざ、僕の前で埋めたんだ? 見張りなんて言っていたけれど、こんな場所に普通なら人が寄り付かないのは、下調べしたらすぐわかるはずだ。
なぜ僕に、ノートの存在を明かし、ノートを見せつけた?
「……フィリア様、そんなことをしたら、探知魔法で見つけられますよ」
もしかしたら、それが彼女の目的だったのかもしれないと、ようやく気付いた。
だって、おかしいじゃないか。
燃やしてしまえばよかったのに、雑な言い訳をして、それをしなかった。
彼女は僕に、見つけてほしかったんだ。
探知魔法で探っていくと、いちばん大きな樹の下に辿り着く。
どこまで掘ったんだろう。彼女が土魔法を使えなくてよかったなぁ。もし使えたら、意地悪でとんでもなく深い場所まで埋められていたに違いない。
そんなことを考えながら、僕は自分の手で掘り進める。
小さな硬い感触が手に触れ、 掘り進めた土の中から、金色の装飾が覗いた。
震える手でそのノートを掴み上げる。表紙は土に汚れているのに、なぜだろう。どこか、彼女らしい気品が残っていた。
ゆっくりとページをめくるとその瞬間、文字が淡く光り――風景が歪む。
――そこには、彼女のすべてがあった。




