セレン・バラードという聖女4
次の日。
最後の授業が終わり、残すは放課後の祈りの儀式だけ。
僕は約束通り、セレン様に指定された図書室へと向かった。儀式前にこんな場所に敢えて寄る者は誰もおらず室内は静まり返っている。
いちばん奥まで歩いて行くと、すでにセレン様の姿があった。彼女の両手には、授業で使う分厚い辞書と、これまた厚みのある参考書が二冊抱えられていた。
「リアムさん、来てくださってありがとうございます」
「これくらいお安い御用です」
「着替えもありますから、手短に済ませていただきますね。では早速、ノートをお渡しいたします。儀式が終わったら、放課後またこちらで待ち合わせできますか?」
「もちろんです。それまで僕が大事に預かっておきます」
なんて会話をし終えると、セレン様は手持ちの数冊の中からノートを探し始めた。
「わたくし、お守りノートを持ち歩く際は、いつも集めの本で挟んで持ち運んでいるのです。今日もそうやって……あら?」
何度も本の間をさぐり、さらには近くの棚に本を置いてノートを探すも、そこにお守り――否、秘密ノートはなかった。
「えっ……!? 授業が終わる直前まで、確かに手元にあったのに……! だってわたくし、最後までそれを見て気持ちを高めていたんです!」
授業中になにをしているんだ、という突っ込みはさておき――どうやら本当に紛失したらしい。セレン様の顔はみるみる青ざめ、何度も本をがさごそと漁り続ける。
「セレン様、ここに来るまでの間に何か変わったことは?」
「特には……。皆様から“儀式を楽しみにしている”と声をかけられたくらいです。その後すぐにこちらに来ました」
それなら、フィリア様とも接触していないってことか。彼女に奪われた可能性は低い。――となると。
「ど、どうしましょうリアムさん! わたくし、お守りを……なくしてしまいました!」
本人の不注意で、本気で紛失したらしい。まるで嘘みたいだが、目の前で起きている現実だ。
「あんなもの誰かに見られたら……わたくしは……!」
「お、落ち着いてください。仮に拾われても、セレン様の持ち物だって証拠はありません」
「でも筆跡を調べられれば一巻の終わりです……!」
「ただの落とし物にそこまでしませんよ!」
「わかりません! 中身を見られたら、不敬罪――いえ、猥褻罪にあたるかもしれません!」
どんな内容を書いているのか、想像はつくけど想像したくなかった。
「授業が終わるまではあったんですよね? それなら、図書室までの道中にまだ落ちているかもしれません。僕が探します。セレン様は儀式に向かってください」
「で、でも……!」
「時間がありません。儀式は聖女にしかできない重大な任務です。大丈夫、必ず見つかります」
セレン様は躊躇いながらも、時間の無さを悟ったのか、僕の言葉に小さく頷いた。
彼女が立ち去った後、僕は通路をくまなく探し始める。だがいくら探してもノートは見つからなかった。
***
儀式の時間となり、礼拝堂には学園の人々が皆集まっていた。
荘厳な静けさに包まれた礼拝堂に、白い衣装を纏ったセレン様が姿を表すと、誰もがその神々しさにため息を漏らしている。
ノートが見つからなかった申し訳なさで、僕はあまり彼女を直視できない。……ついでにフィリア様の姿を探すが、どこにいるかわからなかった。いつもはいちばん端っこでつまらなそうにあくびをしているのに、その定位置にいないのだ。
セレン様が祭壇の前に立ち、両手を胸の前で組み合わせた瞳を伏せる。
「……聖なる光よ、どうかエスペランザに祝福を……」
低く澄んだ声が響く。だけど、その手も声もわずかに震えていた。
普段ならほどなくして溢れ出るはずの光粒はいつまでたっても現れず、不気味なほどの静けさだけが礼拝堂に広がっていく。
「……っ」
再度両手を組み合わせまた祈りを捧げるセレン様。今度は小さな光がひとつ、ふたつと現れたかと思えば、すぐに揺らいで掻き消える。何度やり直しても、光は定まらず消えてしまい、誰の目から見ても、儀式が成功していないのは明白だ。
この珍しい光景に、礼拝堂の空気がざわつき始めた。同じように祈りのポーズをとっていた生徒や教師陣、大教会の関係者たちも目を開けて、セレン様を不安げに見つめている。
「どうしたんだ、セレン。調子が悪いのか?」
サディアス様が険しい顔で呟くと、隣にいたアルト王子も続ける。
「魔力の流れが乱れているな……集中できていないせいだ」
セレン様はノートのことが気がかりで、どうしても脳裏にノートの存在が過ってしまうのだろう。一瞬でも集中力が削がれると祈りはうまくいかないと、フィリア様が言っていた。
……そういえば、フィリア様はセレン様がノートをなくしたのは知っているのだろうか。
なにもしないなんて彼女らしくない。やはり、ノートの紛失に関係している? でもだとしたら、この場でその存在を周囲に晒し、さらにセレン様に追い打ちをかけるはず。
彼女の動向を確かめたいのに、相変わらずどこにいるかわからなくて、僕はただきょろきょろと辺りを見渡すだけ。――そうしているうちにも祈りの失敗は繰り返され、不安げな声が広がっていく。そしてついに――。
「聖女セレンの調子が悪いようだ。本日の儀式は中止しよう」
見かねた学園長のその一声で、初めて儀式は中止となった。
事情を知っているからこそ、絶望が滲むセレン様をかわいそうだとは思う。しかし、これは彼女自身が犯したミスだ。
……セレン様がこの場を去る前に、もう一度ノートを探してみるくらいはしておこう。
どうせ、祈りの儀式は改めてやるだろうし、それまでに見つけなければ。このまま祈りができない事態になっては、国民として僕も困る。
そう思い、その場を去ろうとしたその時だった。
僕の前に、すっと一冊の赤いノートが差し出される。
「……え」
「これ、セレンに返しておいて」
「……フィ、フィリア様!?」
突如目の前に現れたフィリア様は僕にノートを預けると、颯爽と礼拝堂の出口へ歩き出す。
――なんでフィリア様がこのノートを!? いつから!? どうやって!?
たくさんのハテナマークが脳内を埋め尽くす。動揺で立ち尽くしていると、既に礼拝堂には僕以外誰も残っていない状況だった。
「儀式はここまでだ。聖女セレンの心を落ち着かせるためにも、観覧の生徒は速やかに退堂しなさい」
いつまでも突っ立ったままの僕を見て、 教師のひとりが声を張り上げる。
「は、はい。すぐ出ます。その前に少しだけ……。セレン様!」
彼女は項垂れたまま微動だにしなかった。だが、僕が掲げたノートに気づいたのだろう。
かすかに開いた瞳がこちらを捉えた次の瞬間――。
セレン様の瞳が驚愕に見開かれ、青白くなっていた顔に血の色が戻っていくのがわかった。
「こんな時に聖女様に何を見せているんだ。早く退出しろ!」
苛立った様子の大教会関係者が声を荒げ、僕の背中を強引に押す。抵抗する間もなく、礼拝堂の扉へと追いやられていった。
その時、振り返りざまに見えたのは、祭壇の前でこちらを見つめるセレン様の姿だった。安堵の色を浮かべ、何度も小さく頷いていた。
きっと彼女は、僕が必死にノートを探し出してくれたと解釈したんだろう。
――礼拝堂を出た僅か数メートル先には、フィリア様の姿があった。
「フィリア様!」
僕はノートを持ったまま駆け寄り、彼女の名前を呼ぶ。
「どうしてこれを……!? いったい、いつですか……!?」
彼女の前に、ノートを突きつけると、フィリア様はふっと鼻で笑った。
「拾ったのよ。セレンがいつも儀式前にノートを見て、それを鍵付きロッカーにしまっているのは知っていたわ。けれど今回は授業の棟が違って、時間もなく、戻せなかったみたいね。だからどこかで隠すはずだと思って後をつけたら――落としたのよ」
分厚い本に挟んでいたせいで気づけなかったのでは? とフィリア様は言う。急いでいたのも原因だろう。
「今回ばかりは運が良かったわ。神様は聖女じゃなく、私の願いを聞いてくれたのね」
「……僕にノートを預けるっていう約束は知ってたんですか?」
「あら、そんな約束してたの? それなら力づくで奪えたわね」
余裕の笑みを浮かべる彼女に、僕は苦笑を返す。
「……あ、見て下僕。礼拝堂の窓から光が溢れてる」
「本当だ……」
遅れて祈りは成功したらしい。光の粒が夜空に舞い、学園中から歓声が上がる。その幻想的な光景を、僕はフィリア様と並んで見上げた。
「でも……成功しちゃっていいんですか?」
「問題ないわ。公式の儀式は〝中止〟になったの。セレンは与えられた機会を活かせなかったし、普段なら一度でできる祈りを何度も失敗した。その時点で功績ポイントは伸びないわ。後から個人的に祈りが成功しても、大した評価にはならない」
なるほど……言われてみれば、今回の儀式は失敗の印象のほうが強く残っている。
「セレンは嫌いだけど、光が昇っていく景色は――少し、好きかも」
微笑んで空を見上げる彼女は、夕焼けに染まった放課後の横顔のように美しかった。
「ノートは、あなたが拾ったことにして返しておきなさい。余計な疑いをかけられるのはごめんだから」
「……わかりました」
そう言い残し、フィリア様は僕に背を向けて歩き出した
***
「本当にありがとうございますリアムさん!」
着替えや関係者への挨拶を終えたセレン様と再度図書室で落ちあい、僕はノートを返却した。
「すみません。僕がもっと早くセレン様を安心させていれば……」
「いいえ。わたくし、本番中は周囲を見渡す余裕もすっかりなくなっていて……結局あの後、観覧者がほぼいない場でしたがきちんと祈ることができたので、なんとかなりました」
安心しきった顔で、セレン様はノートをぎゅっと抱きしめる。
「見つかってよかったです。リアムさんには感謝しきれません」
ノートを先に見つけたのはフィリア様だが、言われた通りややこしくなるから黙っておこう。フィリア様に中身を見られたかもしれないなんて疑惑が湧けば、この笑顔も一瞬で消え失せるだろうから。
「でも今後は、このノートに頼りすぎないようにしなくてはなりませんね。また同じようなことが起きてはたいへんです」
「そうですね。あんまり持ち出さないで、こっそり楽しむのがいいかもしれないです」
「はい。検討してみます。……あの、リアムさん。わたくしたち、これからもっと仲良くなれると思うのです」
僕がノートを無事に返せたのが、セレン様の心に思ったより響いたのか、以前よりも眼差しに期待の光が込められているように感じる。
「アルト様とサディアス様の話題以外でも、いつでもなんでもお話ししましょう。……それに、あのおふたりも、リアムさんがフィリア様に嫌がらせをされていないかと心配しておりました。なにかあれば、わたくしたちが守れます」
スターズの中で、僕はフィリア様に虐められていると勘違いされているようだ。
「いえ。心配しないでください。……この前は正直に話せませんでしたが、僕、フィリア様に憧れているんです。だから、彼女と話す時間は、決して嫌ではありません」
「……憧れ、ですか?」
目を点にして、セレン様が不思議そうに返事をした。
「はい。フィリア様は強くって、芯があって……僕にないものをたくさん持っています。……ま、悪女だなんて言われてますけど。僕、小説なんかでも結構悪役を好きになるタイプなんで」
なにをカミングアウトしてるのだろうと恥ずかしくなり冗談交じりに笑うと、セレン様は本気で僕を心配しだした。
「いけませんリアムさん。もしかして、フィリア様に洗脳でもされているのでは……!?」
「まさか! フィリア様にそんな特殊能力ありませんって!」
「いいえ。彼女が異能を知らぬ間に開花させていたとしたら、洗脳もありえる話です! リアムさんのような優しいお方が、フィリア様みたいな悪女の毒牙にかかってはもったいないです!」
スターズをやたらと非難し邪魔をする――そんなフィリア様を、セレン様が憧れてほしくない気持ちもわかるが、これは僕個人の問題だ。
「ノートを見つけたお礼に、わたくしができる限りリアムさんを導きます。明日、アルト様とサディアス様にもお話を――」
話をそんなに大きくしないでくれ!
セレン様の暴走を止めるため、僕は咄嗟に思いついた作戦を実行する。
「そ、そういえば! セレン様、ご僕、ノートの中身をうっかり見てしまったんです!」
実際にセレン様を待っている間、好奇心に勝てず少しだけ見てしまった。
そこには予想通り、サディアス様がアルト様を口説いたりと、セレン様の煩悩ワールドが展開されまくっていた。
「! お、お恥ずかしい。それで……どうでした!?」
恥ずかしいなんていうのはポーズで、セレン様は僕の感想を待ちわびているように見える。同志の僕だったら、きっと求めている感想をくれると期待しているのだろう。
「……よかったんですけど、ごめんなさい! 僕やっぱり、逆のほうが好きなんです!」
「……ぎゃく?」
「はい! アルト王子×サディアス様派です!」
――次の瞬間。
「…………」
セレン様は石像のように固まり、次いでわなわなと震え始めた。
「同志どころか……敵対思想……! わたくし、そちら派の方とは断じて相容れません!よって、今後一切のお付き合いは不可能です! では!」
黒いオーラを撒き散らし、機械仕掛けみたいな声でそう宣言すると、セレン様は僕を睨みもせず去っていった。
「……そんなに地雷だったのか」
あっけなく終わった同志関係に、僕はひとりで呟いた。
* * *
その後、美術室に向かうとフィリア様がいた。
「来たのね下僕。ちゃんとノートは返しておいた?」
「はい。返しまし――って、なにやってるんですか!? フィリア様!」
目の前で行われている光景に絶句する。
なんと、フィリア様が本を遠隔で操作し浮かせていたのだ。浮くのは僅か数秒だが、それを何度か繰り返し行っている。
「見たらわかるでしょ。下僕の得意な補助魔法よ」
「なんでフィリア様がそんな魔法を!?」
「下僕が今回の作戦に乗り気じゃないって、序盤から気づいていたわ。だから練習しておいたの。はぁ。魔力が少ないのがもどかしいわ。いくら頑張ったって、力がないから持続しないんだもの」
体内に宿る魔力が少ないフィリア様は、魔法が得意ではない。ほとんど使えないのが当たり前だ。
それなのに――。
「補助魔法をたった数日で使えるなんて普通ありえないですよ。これまで使った経験があるんですか?」
「ないわ。だから練習したのよ」
魔法ってやつは生まれつきの適性があって、得意不得意がはっきり分かれる。何種類も自在に操れるのはほんの一握りの天才、この学園ならアルト王子くらい。
僕の家系は補助魔法が得意だ。でも僕に備わっていたのは、その補助魔法の中でもさらに地味で目立たない系統。
それでも、子どものころから地道に練習を重ねて、今の僕がある。
だからこそ、未経験のフィリア様が、ほんの一瞬とはいえ魔法を発動させたのは――正直、とんでもなくすごい。
「ん? でも、なんのための練習? 結局使わずに終わったんですよね?」
「なに言ってるの。この魔法で私がセレンのノートを操作したのよ。だから落としたの」
「!? さっき拾ったって言ってませんでした!?」
「落とさせて、拾ったのよ」
……結局、フィリア様の仕業だったんじゃないか!
「セレンって必ず分厚い本にノートを挟んでるの。だから私も同じようなものを用意して練習して、完璧にタイミングを狙ったのよ。結果大成功! 祈りの前にノートがなくなれば、動揺で勝手に失敗してくれると思っていたわ」
そのためだけに補助魔法を習得……。ものすごい執念と計画性。敵に回したくない。
「しかも、あのタイミングで下僕にノートを渡したのも作戦よ。やり直しになったら〝公式の儀式〟に数えられるからね。そこで功績ポイントが上がってしまうチャンスを念のため潰しておいたの」
善意で返してくれたと思ったのに、それも違ったらしい。笑顔もいつもの悪役面で、なんだか安心すら覚えてしまう。でも僕はひとつ、気づいたことがあった。
「フィリア様、結局ノートを晒さなかったんですね。反応が見たいって言ってたのに」
「……私は最初から、動揺させるのが目的よ。晒して大騒ぎになったら面倒でしょ」
「本当ですか? 少しくらい僕の説得が効いたんじゃ――」
「調子に乗らないの。セレンはむかつくけど国には必要な人材。あんまりやりすぎて、聖女として使えなくなったら困るでしょ? 私だって平和な国に住んでいたいわ」
「……なんというか。フィリア様にも人の心があったんですね。僕、見直しました」
ぽろっと本心が出てしまった僕を、フィリア様がジロリと睨む。
「下僕のくせに生意気! まぁいいわ。――これからは恩を売ったセレンにスターズの情報を聞き出して、私に流しなさい」
「スパイにする気ですか? というか、セレン様とは解釈不一致で仲違いしたんで無理ですけど」
「ちょっ……まさか、名前の順番間違えたの?」
僕が頷くと、フィリア様は盛大にため息をついた。
「……はぁ。でもまあ、下僕にスパイは荷が重かったわね。いいわ。そのかわり今日は、精密操作の魔法を全部見せて。あと私に教えなさい」
「ええっ!? 僕がフィリア様に!?」
「なにか問題があるの? 私、下僕の魔法に興味あるの」
「……っ」
――素直に嬉しかった。
誰かが。いや、彼女が、僕に興味を持ってくれるのが。
「ほら早く!」
「は、はい!」
その日は結局、僕の魔力が尽きるまで、フィリア様に魔法を使わされることになった。




