悪女が死んだ
十日前、稀代の悪女と呼ばれた〝フィリア・ヘイズ〟が死んだ。
卒業式を控えたあの日、学園の大ホールには、式の予行練習のために全校生徒が集まっていた。
すると突然、地鳴りのような揺れが走り、天井のシャンデリアがきぃ、と軋んだ。
ざわめきが広がり、場が騒然とする中――それは、突然に現れた。
黒い霧。
……否。霧というには、あまりに生々しい存在。
それは空間を裂くように現れ、姿を変え、どこからともなく出現してはまた消える。触れた空気すら凍るような――この世のものではない、気味の悪い〝なにか〟だった。
誰かを探しているように蠢く得体の知らないその怪物のような霧に、大ホール内はパニックに陥った。
悲鳴、逃げ纏う足音が響くなか、僕はただ、その場に立っているだけで精一杯だった。
『あの霧はなんだ!? 魔法で消せるか!?』
『なんだか、とても危険なにおいがします……!』
『魔法が効かねば、斬撃を食らわしてみればいい』
恐怖が渦巻くその空間で、とある三人が霧に立ち向かった。彼らはこの学園の星と呼べる存在で、僕もよく知る顔ぶれだ。
優秀な彼らはこんな状況下でも、冷静にどう対処すればいいのかと考えている。僕とは大違いだ。
――そしてもうひとり。この霧を、まったく恐れていない人がこの場にいた。
フィリア様だ。
微動だにしない彼女は、真っ直ぐに霧を見つめている。
そして霧は、そんな彼女の視線を捉えるようにして、フィリア様の目の前まで移動した。どんどん広がっていく漆黒が、まるでブラックホールのようだ。
……嫌な予感がした。
すくんでいた僕の足は急に感覚を取り戻し、彼女のもとへと駆け出す。けれど逃げ纏う人たちが行き場を塞ぎ、なかなかたどり着けない。
あと少し、もう少し。
足が追い付かなくても、僕は必死で人混みのなかで手を伸ばした――次の瞬間。
霧が牙を剥いた。
巨大な〝口〟のような塊となり、彼女を……喰った。
『きゃあああああっ!』
『うわあああっ! 人間が食われたぞ!』
あちこちから悲鳴が上がり、僕はなにが起きたのかわからなかった。
丸呑みにされた彼女は、まるで最初からそこにいなかったように、跡形もなく消えた。
血も、悲鳴も、衣の切れ端すら残さずに。
彼女を食べると、霧は静かに消滅した。
その後、国の重役、学園の教師……あらゆる人たちが、黒い霧について調べ上げた結果、霧からは強い怨念を感じたという声が上がった。
あれは、呪いが生んだ黒い災厄。
災厄というのは、強い憎しみや呪詛が形を成したもので、標的と定めた者が現れると、その魂を喰らい尽くすという。
誰の目から見ても、黒い災厄は明確にフィリア様を狙っているように見えた。それまではあちこちに移動して辺りを見渡していたのに、彼女を見つけた瞬間にすぐにそこへ移動した。
そしてそれは……黒い災厄が、彼女に恨みがあったからだろう、という結論に至った。あれは彼女への恨みが生んだ災厄だったのだと。
フィリア様は、学園では有名な悪女でみんなから嫌われていた。
それはもう、破天荒な人だった。
『いろんな人を悲しませたんだから自業自得だ』
『因果応報だな……』
みんなは口々にそう言った。あれは彼女が招いた災いで、食われたのは自業自得だと。
最初こそ、それでもどこか暗い空気を纏っていたが――十日経てば、彼女がいなくなった学園には、もう笑顔が戻っていた。……まだ、十日しか経っていないのに。
僕は信じられなかった。彼女が消えたあの瞬間から、時が止まっている。
たしかに彼女は悪女だったかもしれない。
でも、災厄に食われるほどのことをしたとは到底思えない。
彼女の命は――もっともっと、重いものだった。
『フィリア様……どこに行ったのですか。本当は、どこかに隠れているのでしょう? あれはいつもみたいに趣味の悪い悪戯で、みんなを驚かせようとしているんですよね?』
彼女の面影を追い求めて、僕はあらゆる場所をひらすらに歩き続けた。こんなに捜しているのに、彼女は姿を現してはくれない。
『でも、さすがに度を越していますよ。今まででいちばん悪趣味です。僕にだけは、姿を見せてください。いつもみたいに、作戦に協力しますから……』
今日もまた、知らない道を歩く。ここがどこかもわからない。
町? 山道? 森の中?
わからない。どうでもいい。僕の目には、全部が闇の中に見えた。
「おい、退け――!」
声が聞こえた次の瞬間、ものすごく大きな衝撃に身体を跳ね飛ばされたかと思うと、気づいた時には地面に転がっていた。
痛い……いや、熱い? なんだか意識がぼうっとする……。
ああ、できることなら、このまま眠ってしまいたい。そして、いい夢を見たい。
彼女と出会ってから……たいへんで、忙しくて、刺激的で――幸せだった、ついこの間までの夢を……彼女がいた世界の夢を、どうか。
『そこでなにしてるのよ、下僕』
真っ暗に閉じた視界の先で、彼女の声が聞こえた気がした。




