陰謀
常識と陰謀論の関係は、証明される前の天動説と地動説との関係に似ている。陰謀論とはまだ証明されていない地動説なのだ。そして証明された後の地動説と天動説にも似ている。陰謀論とは常識から拒絶された天動説でもある。
陰謀論を手段にしてはならない。陰謀論を目的にしよう。なんとつまらないスローガンだろうか。世界の真理に触れるために、コミュニティに属するために、自分だけしか知らない知識を手にして優越感に浸るために、情報格差のもたらす万能感を得るために、日常の退屈を紛らすために、漠然とした不安や無気力さの理由をそこに求めるのではなく。しかし、そうは言っても、そこに至るまでにはそれ相応の理由が各人にはあったのだろう。その人にとってはそれは陰謀論でも何でもなく、それが「現実」なのだから。そう思うと何も言えなくなる。彼らの現実と我々の言う陰謀論とは陸続きである。その事に少しでも敬意を払うと口が重くなる。彼らの現実を否認する権利は全くと言って良いほどない。少なくとも私には。敬虔な「現実主義者」である彼らにしてみても我々にそんな理不尽なことをされる謂れはないだろう。
確かにそうだ。現代において天動説を支持している人からしてみれば、我々の多くは陰謀論者である。我々はたまたま科学によってそれを反証する術を持ち合わせているが、それが彼らにとって正しいのかどうかは定かではないし(おそらく正しくないのだろう)、そのことをきちんと述べるのが彼らにとって良いことなのかも分からない。
私は地球が平面だと主張する人々の動画を見て、何だか物悲しくなった。同情している訳ではないが、何となくそう感じた。おそらく彼らの多くが孤独だったのだろう。かすりもしない空想を持ち出して同調した気分になってみる。
Aさんはコミュニティから締め出され、寂しさを埋め合わせるために別のコミュニティに所属したのかもしれない。そこがたまたまいわゆる「陰謀論者」の巣窟だっただけでその人にとってはコミュニティに所属できるのなら何でも良かったかもしれない。あるいは、Bさんは仕事で上手くいかず、何をするにしても上手くいかずにもがき苦しんだ末に出会ったのがそれなのかもしれない。その人がそれに救われているのならば文句の付けようがないのではないか。少なくとも眺めているだけで一向に助けようともしない人間よりも実際に救済してくれる言説の方が何万倍も価値がある。それは明らかである。
我々はそうやって生き延びてきたのだから。我々の「信仰」している現実やら常識やら言葉やらはそのようにして形作られてきた。言説が間違っているだとか、正しいだとか、根拠がしっかりしているだとか、根拠薄弱な暴論だとかそんなことよりもずっと重要な事がある。
陰謀論を好む人にはある特徴的な傾向がある。それはひどく(この場合は悪い意味ではない)人間らしいということだ。私にとっては、言説の真偽など本当にどうでも良い。もちろん彼らにとっては重要なのかもしれない。でも彼らは自身の行く末を見失うほど言説にのめり込んでいる訳ではないだろう。私は彼らのことをよく知らないし、何を食べて何に喜びを感じ何を憎み何を好み何を喋り何を思い何を考えどのような経緯でそうなるに至ったのかも全く分からない。外側から強引に推し量るばかりだ。それでも微かに共振するものがある。私は彼らを見るたびに複雑な気持ちになる。彼らの胸中を想像する度に如何とも形容し難い気分が押し寄せてくる。何と言えば良いのか、必ずしも悪いものばかりとも言えないが、良いものだらけだとも言い難い。彼らは生ける歴史の証人なのだ。もちろん我々もそうではあるが。一つ分かることは、彼らは我々と同じ、全く同じという訳ではないが、我々の傾向に酷似した人間であるということだ。だから何だと言われたら再び黙るしかないのだが……。余りにも人間の人間らしい部分に触れると何とも言えなくなるのかもしれない。私はそれらを前にしてただひれ伏せるだけだ。
我々のチンケな脳みそでは、常識と陰謀とを区別できないのは事実だ。なんせ、物事に常識か陰謀かが分かるようラベル付けされている訳ではないからだ。我々は皆、何かを信じることで世界を形作る。その信仰の名が「常識」であるか「陰謀」であるかは、時代と立場が決めるにすぎない。本来は何も違いがなかったはずなのだ。それらをくっきりと区別するのは我々の偏った認識のせいである。偏っているのが悪いと言いたいのではなく、ただ純粋に偏っていると主張したいだけだ。偏りのない主張など一般的に存在しないからだ。だから……だから? 時折思い起こして欲しいのだ。数多のアホみたいな陰謀論もかつての地動説の卵なのかもしれないと。そしてもちろん現代の天動説に違和感を覚えるのは至極当然だと言えるが、それは遠い昔に我々によく似た人々の間で広く信じられてきた「常識」だったのだと。




