68「シカゴ観光」★海神勝
「ここがシカゴ美術館です。1893年の万博の時に建てられて以来、ずっとこの街の象徴なんですよ」
エヴラードが指し示す先には、海ほども大きい湖を背に巨大な白い石造りの建物がどんと構えていた。
ここはミシガン大通り。
シカゴという大都市の中の心臓部ともいえる通りは人でごった返しており、渋滞にイラつく車がホーンを鳴らし、洒落た服を着た人々は車の間を縫うように歩いている。
彼らが目指しているの場所こそ、この「シカゴ美術館」だ。
シカゴ美術館に鎮座している二頭の獅子像が、せわしなく動く人々を穏やかに眺めているようだった。
「毎日数千人が訪れます。観光客や学生はもちろん、社交界の人間も。シカゴに来たらここに来ないと勿体ないですよ」
「”待つ?” ”長く”」
「待つのも醍醐味ですよ、と言いたいところですが。私の一族が出資している伝手があるので、裏から入れてもらいましょう」
エヴラードの声が心なしか浮かれている。
どうやら大層な場所らしいが、俺は気が乗らなかった。
織歌を置いて観光を楽しむことなんかできない。
しかもD精神病院はきな臭い噂が多い場所だという。
こんなことをしている間にも、織歌が何をされているのかわからない。
(そもそも、さっきから――)
「”つけられてる”」
病院を出てからずっと、一定の距離を保って着いてきている存在がいる。
俺はエヴラードにだけ見えるように指を動かす。
エヴラードは頭がいいだけあって、俺の動作に大きな反応をせず、目線も動かさず状況を把握してくれた。
奴らの狙いは言うまでもない、俺だ。
そもそもウヅマナキは俺の情報を狙っている。
俺を攫う気か、俺の仲間を調べるだけか。
何にせよ、早めに排除しなければ。
「まあ、想定の範囲内です」
「”3人くらい” "いる" ”殺そう”」
「駄目です。法廷にもつれ込んだ時、あなたに後ろ暗いところがあってはいけない」
「”悪い” ”あっち”」
「もちろんそうですよ。でも、人殺しの日本人に味方する陪審員はいません」
「…………」
あまりにも身も蓋もない言い方に絶句する。
そんな俺を横目に、エヴラードは微笑んだまま美術館の方へ足を進めてしまう。
「我々は観光しながら彼らの注意を引きましょう。我々に夢中になってる間は、サー・ヘイダルもシュヴァリエさんも自由に動ける」
「”でも”」
「他にいい案はありますか?」
「”ない”」
弁護士に口論なんかしても無駄だ。
結局、俺はエヴラードの思うままにシカゴ観光をすることになってしまった。
***
「ここはアメリカで最も早く印象派を大規模に集めた美術館のひとつなんです。モネはお好きですか?」
「”もね?”」
「フランスの画家です。ほら、あの睡蓮とかは印象派の定番です」
「”いんしょうは”」
色々説明してくれるエヴラードには申し訳ないが、俺は美術館を全く楽しめていなかった。
後ろをついてくる刺客が気になるのはもちろんのこと、俺には大した教養がない。
何を見てもその価値は理解できないし、感想を求められても「へえ……」と言うのが精いっぱいだ。
「”わからない” ”絵は”」
「はは。ここにいる人みんな、何もわかってないですよ。勘で楽しむものです、芸術なんて」
「”そうかなあ”」
反応の悪い俺にエヴラードは苦笑する。
どこまでも気のいい男は、せっかくの招待に鈍い反応をする俺に嫌な顔ひとつ見せない。
「勘でいいんです。何かピンとくるものはありませんか?」
「”ぴん”」
そんなものあるだろうか。
俺はあたりを見回す。
水に浮かぶぼやけた花、身体を密着させて踊る男女、零れ落ちそうな大量の林檎と蜜柑の絵……美しいとは思うが、その価値まではわからない。
「”あ”」
そんな中、ふと目に入る絵があった。
それは死にかけの爺が楽器を弾いている、青くて薄暗い、辛気臭い絵。
どれだけ価値があっても欲しいとは思えないような暗い絵なのに、妙に引き付けられるものがあった。
「ピカソですね。期間限定の寄託品です。見れたのは幸運ですよ」
「”ぴかそ”」
「”老いたギター弾き”。パブロ・ピカソが親友を亡くし、極貧の中にいた時代に描かれた、大きな絶望と小さな希望を描いた絵です」
俺には読めない解説文を読みながらエヴラードが解説してくれる。
「老いて痩せこけた惨めな老人。もう何もない男が、たったひとつだけ、魂を保つようにしてギターを抱えている」
解説文を読み上げているだけなのに、まるで自分が描いた絵画を売り込むかのような流れる弁舌に、思わず聞き入ってしまう。
「この絵に感じるものがあるということは、ミスター・ワダツミにも、絶望の中の希望のような存在があるんでしょうね」
「”…………”」
エヴラードの解説を聞きながら、俺は暗い絵を見ていた。
死に体の青白い老人が抱える、光のような明るさの楽器。
それはまるで、俺が死の間際に織歌を拾った時の様で――
(…………織歌)
たしかに、芸術と言う者は人の心を動かすようだ。
この絵を見ていると心臓の奥が痛む。
俺はこの光を手放すわけにはいかない。
たとえ何を失っても。
***
「シカゴと言えば、シカゴステーキですね」
そんな覚悟もさておかれ、刺客を巻くための俺とエヴラードとの観光は続いた。
連れていかれたのはミシガン・アヴェニューの高級レストラン。
おそらく完全予約制の店なのだろうが、エヴラードは店と顔なじみらしく、予約もしてない俺たちを中へ案内してくれた。
「”よく” ”来る?”」
「ああ、言ってませんでしたっけ。僕はシカゴ出身なので、この店にもよく来てましたよ」
「”でも、いま” ”ニューヨーク” ”働いてる”」
「サー・ヘイダルもシカゴ出身でしてね。彼がニューヨークで土地を買うって言うんで、彼に賭けてついてきたんです。大当たりでしたよ」
「”すごいね” ”あいつ”」
名物のシカゴステーキ――とんでもなく巨大な厚切り牛肉とふかしたジャガイモ。
日本では……少なくとも俺が生きていた頃では、都会でもなかなか拝めないんじゃないかというごちそうだ。
思わず目が輝く俺を微笑ましそうに眺めながら、エヴラードは平然としている。
このごちそうも、アメリカじゃ普通の食事なんだろうか。
「――”濃い”グレープジュースです」
「ありがとう」
「”せんきゅー”」
シカゴにも禁酒法があるはずだが、ここもダミアンの店と同じく治外法権だ。
ジュースと偽って提供された赤ワインを飲むと、渋みが牛肉の脂を流してくれる。
酒には強い方だが、久々の酒は体に染みる。
(……現実味がねえな)
田舎ヤクザの俺が、アメリカのど真ん中で牛肉と赤ワインに舌鼓。
高級なレストランの天井は高くて、壁にはよくわからんが高そうな絵がたくさん並んでいて、フロアの真ん中でピアノの生演奏。
給仕は高級な身なりの俺を「東洋の貴族」として扱い、過剰なまでに礼儀正しく接してくれる。
「”金は” ”夢” ”だね”」
「はは。そりゃあ、金さえあればなんでも買えますからね。アメリカンドリームってやつです」
「”いい” ”夢だ”」
「この状況も、金で好転できたらいいんですがね」
「”…………”」
エヴラードの言葉に、今は離れ離れになってしまった友人たちを思い出す。
他の奴らは今、何をしているのだろうか。
病院に潜入したエンゼルはうまくやっているだろうか、ただひたすらに心配だ。
ベインブリッジと接近しているシュヴァリエは駆け引きという汚れ役をしているはずだ、苦しんでいなければいいが。
そしてダミアン――
あいつは織歌にだいぶ依存してた。いなくなって、病まないといいんだが。
この短いアメリカ生活の中で、俺は様々なものを手に入れていた。
育てられなかった娘、堅気の仕事、洋服、ステーキ、赤ワイン…………そして、友人。
(……そんな大切なものよりも、守りたい秘密なんてあるんだろうか)
俺の力はウヅマナキには遠く及ばなくて、英語も話せなくて、法の下で自分を守る術もない。
そんな中で俺はどう動くべきなのか。
いや、何をしたいのか。
答えは単純なはずなのに。
◇ ◇ ◇
華やかな高級レストランだろうと庶民のダイナーだろうと、店の裏側は汚いものだ。
残飯を漁るネズミを猫が追いかける、噎せるような裏通り。
そこに横たわる乞食の男に、コックが麻袋に入ったパンを投げてよこす。
「おい乞食。金持ちが残飯譲ってくれたぞ」
「どうも」
「今日はこれだけだ。粘ってもなんも出ないぞ。とっとと消えな」
「ああ」
乞食はコックから麻袋を受け取ると、そそくさとその場を去る。
「……またパンかよ」
人気のないところまで走っていくと、乞食の男――ダミアンは嘆息した。
パンに手紙を挟む手法は白人の間で流行ってるのか?
無駄に増えたパンにダミアンは辟易しつつも、慣れた手つきでパンをほじくると、そこに隠された紙を確認する。
【監獄の天使 海の騎士 盲目の番人】
短い文の中にはエヴラードからの情報がぎっしりと詰まっている。
エンゼルは潜入に成功した。
軍の注目はシュヴァリエが引きつけている。
スタッフの警戒も一時的に薄まっている。
ということだろう。
準備は着実に進んでいる。
「あとは、このクソったれの街から抜ける方法を探ればいい」
ダミアンは紙をごくりと飲み込むと、裏通りの奥の奥、闇の世界まで足を進めた。
ピカソの「老いたギター弾き」はまだこの時代にはないのですが、特別出演してもらいました。
青色が印象的な寂しい絵に、勝も何か思うところがあったようです。
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