49「それでも私は……」★海神織歌
もちろん、こんな事故の口づけで父が怒り狂うわけはない。
――無いはずだ、多分。
大騒動になったのは、別の理由がある。
◇ ◇ ◇
「できましたね……」
「…………はい」
朝を告げる鳥が鳴き、陽光が差す頃にやっとすべてのスープが完成した。
事故で口づけをしてしまった後、私たちはひたすら無言で300人分の食事を作り続け、気づけば朝4時。
配膳は朝7時からなので、準備のためシスターや信者の人々が続々と集まりだした。
「結構大人数ですね」
「作るのも大変ですが、やはり配る方が人手がいりますから。地下の調理室で温めたスープをせっせと運んで――」
「……火を使えばいいのでは?」
「いろんな規則の兼ね合いで野外での火おこしは原則禁止なんです! 要領が悪いわけではありません!」
「そんなこと言ってませんって」
炊き出しは毎週行っているらしく、シスターも信者たちも手慣れたものだ。
テーブルを設置し、皿を用意し、導線を確認する……どうやら昼の人手は十分に足りているらしい。
「エンゼル神父もこれから休憩ですか?」
「いえ、私は配膳も行います。相談や告解に来られる方もいますし、信者の方とはなるべく接するようにしたいので」
「それじゃ疲れるでしょう……」
夜通しの作業に軍人の私ですらへとへとだ。
ドジっ子神父がそのまま配膳と信者の対応を続けるなんて無茶だろう。
「信者の方と接することで、元気をもらえますから」
「…………」
エンゼル神父ははにかむように笑った。
朝の光が彼の亜麻色の髪を透かし、アイスブルーの瞳を輝かせ、神々しいきらめきに満ちている。
人のために尽くすことを喜びと感じる彼は、身も心も美しい人だと思った。
「では、私も手伝います!」
「い、いやそこまでは……疲れてしまいますよ!」
「だめだ」
エンゼル神父と話していると、聞き慣れた声が響いてくる。
それは低く冷たく氷のようで、しかし奥に炎のような熱のある声――シュヴァリエだ。
「配膳は私が手伝うから、きちんと休みなさい。ふたりともだ」
「ミシェル! 仕事はいいのですか?」
「今日は休みをもらった。ボスのボディーガードはサーがしてくれている」
「父とダミアンも仲良くなったな」
今日のシュヴァリエはダミアンのボディーガードの任を解かれた自由な状態だ。
言葉遣いも心なしか砕けた口調だった。
服装もいつもと違い薄い青のシャツに、アイボリーのスラックス。
全体的に淡い色で整えられた服が藍色の彼の瞳を際立たせ、目が離せないほど美しい。
(うわああああああかっこいいいいい!!!)
という言葉を必死で飲み込み「今日はいつもと印象が違うな」と伝える。
「休日まで暗い服ではあなたに恥をかかせてしまうと、ボスがあつらえてくれた」
(ダミアンおしゃれーーーーーー!!!)
洒落た伊達男のダミアンと、何を着ても完璧に魅せるシュヴァリエ。
私の美しい婚約者たちの尊い共同作業に脳を焼かれ、早まる鼓動を静めるように心臓を抑えた。
「ぐっ……」
隣を見るとエンゼル神父も同じ顔をして心臓を抑えていた。
まさか婚約者の私と同じ領域までくるなんて……この人は本当に、人が好きなんだなと思わされる。
「レディ、その恰好は……」
「な、何か変かな?」
シュヴァリエの完成度とは比べようもないが、今日の服は特段変じゃないはずだ。
着ているのはリネンの襟付きワンピースだ、労働をするので汚れてもいいよう色は黒。その上にエプロンをつけている。
ああ、でも重労働の後だから乱れているかもしれない。
暑かったので襟を開けて首元を出しているし、エプロンもスープのシミがついている。
「あはは……さすがに着崩しすぎか……」
「失礼」
シュヴァリエはそう言いながら肩に手を添え、首元に顔を近づけ――鎖骨の下にキスをした。
「「うわああああ!」」
私とエンゼル神父の悲鳴が同時に響く。
ちゅっと音を立てて唇が引かれると、鬱血の後が肌に残る。
これは――キスマークという奴だ。
「ちょっ、何を……」
「この痕が隠れるくらいまで、ボタンを留めるんだ」
シュヴァリエは少し意地悪な笑みを浮かべたまま、私の襟もとを正す。
言われた通りに襟は首元で結ばれ、彼の付けた痕は隠された。
「私もあなたに痕を付けたい!」
「ああ、どうぞ」
一瞬面食らってしまったが、恋人の痕が私だけについているのはずるい。
いつもと違い無防備な服を着ているシュヴァリエの胸元に手を這わして請うと、シュヴァリエはあっさりと了解して胸元を広げてくれた。
「いや、だめですよ!」
しかしエンゼル神父に阻まれ、それはかなわない。
シュヴァリエは穏やかにほほ笑むと、私の背を撫でて「まずは休みなさい」と呟いた。
「エンゼル、私のレディに宿舎を貸してもらえないか?」
「……もちろんそのつもりでしたよ」
シュヴァリエの氷を溶かすような暖かい囁きに呆けている間にも、休む場所が決まっていく。
私ははっと気を取り直して、ふたりに礼を言った。
「ありがとう」
「いえ。では宿舎へご案内します――」
◇ ◇ ◇
案内された宿舎はエンゼル神父や他の司祭たちが暮らしている場所らしい。
清貧を重んじる彼らの部屋にあるのは小さな机と椅子、箪笥とベッドだけ――無駄なもののない整えられた部屋だ。
(……ベッドもきれいだ。よく手入れされている)
ベッドに横たわり、うつらうつらとしていると疲労が体を重くする。
ダミアンは父が守ってくれている、配膳はシュヴァリエがやってくれている、大切な人たちの好意に甘えることにして、私は睡魔に身を委ねた。
―
――
―――
あれから何時間寝ただろうか。
目を覚ますと西陽が斜めから薄く差し込んでいる。
空の色を見なくても、それが夕方の光だとすぐにわかるほどだった。
「……エンゼル神父」
茜色の空間の中に冷え切ったアイスブルーが見える――エンゼル神父の瞳だ。
「目覚めましたか」
「女性の寝顔を見つめるのはマナー違反ですよ」
「無体など働きません。私は聖職者です」
「そうではなく……」
エンゼル神父は、初めて会った時のような冷たい瞳に戻っていた。
夜通し共同作業をしても、まだ警戒心は解け切れていないらしい。
「起こそうと思っていたんですが、あまりに気持ちよさそうに寝ていたもので」
「うっ……いびきとか、かいてませんでした?」
「気になるのはそこですか」
エンゼル神父は迷いのない瞳でまっすぐこちらを見つめる。
いたたまれなくなりながらも、私は身なりを整えて体を起こす。
「あの海魔……ワダツミ マサルは日本が長年秘匿してきた海魔の能力を持つ特異存在と言ってましたね……本当ですか?」
やはりその話か……。
あれからひと月ほどたったが、私の目論見通り日本政府を揺さぶって情報を聞き出すことはできなかったらしい。
「あなたと過ごすのはとても楽しかった……それでも私は……海魔の真相が知りたいのです」
エンゼル神父が言葉を続ける。
取り繕うのは簡単だ。私が「答えられない」と言えば彼に問いただす権限はない。以前のように引き下がるしかないだろう。
だが、彼もまた琅玕隊の一員。
私は隊長として、嘘などついていいのだろうか。
「場所を変えましょう」
言葉に迷っていると、エンゼル神父は外の西陽を見ながら呟いた。
確かに、こんな場所で話す話ではない。
「どこに行きますか?」
「教会の地下……私の秘密の場所へ」
エンゼル神父とのほのぼの話はここまで。
不穏な空気をまとったまま、エンゼルの過去が少しずつ明らかになっていきます。
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