39「最も青い目」 ★海神織歌
「海魔だ!」
と大きな声を上げた瞬間、あたりが霧に包まれる。
小舟の中だというのに周りにいたはずの父たちが見えなくなる――海魔の幻影だ。
視界を支配されたせいで、船の大きさの感覚がつかめない。
下手に動けば海へ落ちてしまいかねないが、それを狙っている海魔は大きな波を作って船を揺らす。
「くっ――!」
柵に捕まってやり過ごそうとしたが、波に煽られて手が滑る。
「危ない!」
落ちる――そう思った時、背後から大きな手が体を掴む。
父の傷だらけの手でもなく、ダミアンの熱い熱もない、低い体温の大きな手――シュヴァリエだった。
「すまない。助かった」
「いえ、無事でよかったです」
背後から抱きしめるような体制で体を支えられる。
シュヴァリエの低い、けれども仄かに暖かい体温が背中一面に伝わる。
むず痒さを感じて離れようとするが、シュヴァリエはぴたりと背中に張り付いたまま、耳元で囁く。
「ボスを探さないと……声を出して呼んでも問題ないでしょうか?」
「…………い、いや……やめた方がいい。海魔も同じ罠を使って、ダミアンを海底に誘導するかもしれない」
「かしこまりました」
離れてくれない……
”そんな状況じゃない”と分かっているのに、どうしてもあの日の口づけを思い出して体が固まる。
あの日の熱い舌が、冷たい手が、私の脳を支配する。
「織歌さん……」
シュヴァリエの手が顎に触れる。
そのままくいと顎を引かれ、後ろを向かされる。
顔と顔が近づき、吐息がかかりそうなほど近くで瞳を見つめられると、潮の匂いが鼻をかすめた。
藍色の瞳の奥に熱を感じて、胸がぞわりとした。
「……あなたを、愛しています」
――ああ、やっぱり。
来ると思っていた言葉に胸が痛む。
私はどうすればいい……確証が持てなくて、つい試すようなことを言ってしまう。
「なら、もう一度……口づけをして……」
私になんて台詞を吐かせるんだ……
気恥ずかしくて目を見ることもできないが、シュヴァリエは静かに頷いた。
「仰せのままに」
ためらいのない所作で顎を掴まれ、唇と唇が近づく。
吐息が触れ合い、そして唇が重なった。
熱い舌が口内を蹂躙する、何もかもが、あの日と同じ。
私は思わずため息をつき――
「展開」
――手元の折神を展開した。
紙は宙に浮いてシャチの形を成し、目の前のシュヴァリエの頭を食いちぎる。
[ぐぁああアアっ!!!!]
らしからぬ悲鳴を上げて、シュヴァリエ……の形を真似た海魔は泡となって消えた。
海魔が消えるとともに霧が晴れ、思ったよりも近くにいた父たちの姿が見えるようになる。
「……どういうことだ?」
ダミアンの呆れたような声が夜の海に響く。
「ここの海魔はすでに上級海魔になっていたようだ。私たちの記憶を読み、完璧な幻影を作り上げ、私を狙った」
「ああ。だから突然嫌なこと思い出したのか」
「”姉に” ”怒られたよ” ”俺は”」
ダミアンも父もそれぞれ過去の記憶から作られた幻影を見せられていたらしい。
ダミアンは何を見たとは言わなかったが、嫌そうな顔からして碌な幻影じゃなかったのだろう。
「上級海魔は力が強いからな。こちらも騙された振りをして、不意打ちをしてやったのだ」
「その作戦なら、人数は少ない方がよかったのでは? わざわざ5人で来なくても」
エンゼル神父も呆れたように声をかけてくる。
「いや、あなたは来るなと言っても来るでしょう」とは言えなかったので、別の意図を伝えた。
「今回は完璧な幻影を作らせたかったんだ。……シュヴァリエ、あなたと話すために」
「…………私?」
それまで黙っていた、本物のシュヴァリエが驚いている。
幻影と違って藍色の瞳の奥には熱はない、最も青い目をしていた。
「隊長は私だ。知性のある海魔なら私を狙ってくると確信していた。姿も記憶も完璧な幻影を作らせて、あなたに証明したかった」
「証明……?」
「私は姿に惑わされずあなたという存在を見つけた、と」
シュヴァリエが息をのむ音が聞こえる。
父もダミアンもエンゼル神父も声を出さず、シュヴァリエの言葉を待っていた。
夜の風が潮の匂いを運んで、静かに流れる。
「どうやって見分けたのですか?」
「あの海魔は私に指示を仰ぎ、私を愛し、私を求めた……あなたは、日本人女を尊重するようなこと、しないでしょう?」
意地悪な言い方になったが本心だ。彼は私を下に見ている。
【Mrワダツミ、あなたが操縦を?】
【それは……女性に容赦ないですね……】
それらの言葉に悪気は一切無い。
無いからこそ出てくる……私を一人の軍人と認めない、見えないナイフのような言葉。
「それは……大変失礼を……」
「責めたいわけではないし、あなたは悪くない。あなたが”そう”考えていて、私が”そう”受け止めた。その事実があるだけだ」
シュヴァリエも意識していなかったのか、私の言葉に眉をひそめて自分を責めている。
「私があなたに知ってほしいのは、私は”そんなあなた”を理解しているということだ。だから私を信じて……教えてほしい」
「教える……?」
「あなたが私に何を求めているのかを」
【|Je me perds《ジュ ム ペール》...】
フランス語で囁かれた言葉は、文化の壁に阻まれて私にはわからない。
だが彼はその壁の向こうで私に何かを訴えている。
「あなたが完璧でなくても、綺麗でなくても、私はあなたという人のことを知りたいよ」
海魔の幻影を利用して、そのことを伝えたかった。
そんな思いの言葉だったが、シュヴァリエは青い瞳から静かに涙を流していた。
「あっ……すまない……試すような真似をして」
「違うんです」
感情から来るものではないのか、シュヴァリエは涙を流しても冷静だった。
まるで物言わぬ絵画のような、ぞっとするほどの美しさがそこにある。
「|Je me perds《自分を見失っている》」
その美しい唇で、彼はついに言葉の秘密を教えてくれた。
海魔戦でシュヴァリエを見抜いた織歌。
次回、シュヴァリエ編が完結です…!
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