第29話 龍の背と雲
西暦1573年(元亀4年)、春
米沢城の裏庭で、俺は一本の古い梅の木の下に座り、地図を膝に広げていた。春の陽射しが梅の枝を透かし、地面に淡い影を落としている。風が静かに葉を揺らし、遠くの川のせせらぎが耳に届く。昨日まで民が田畑を共に耕し、二本松の守りが深まる様子を見ていた俺の頭は、すでに次の手を考え始めていた。陸奥の南東で波が動き出したと黒脛巾組が報告してきた夜、俺は眠れなかった。藤次郎として尾を動かし、波を操るだけじゃ足りない。伊達家の背をどう高くし、雲の上にどう立つか。それが今、俺に課された問いだ。
輝宗が裏庭に現れたのは、陽が少し傾き始めた頃だった。彼の鎧が春の光に反射し、静かな足音が梅の木の下に近づく。
「藤次郎、南東の波がざわめいておる」と彼は言った。声は穏やかだが、その奥に鋭い刃のような響きがある。「この流れをどう使うか、そなたの知恵が試されるぞ」
俺は地図を見たまま、少し首を振って笑った。「うむ、父上。波は操るだけじゃ物足りない。龍の背を高くして、雲の上に立ってみたい。米沢の民に新たな息吹を与え、会津の力を静かに伸ばす。黒脛巾組に陸奥の東の果てを探らせ、雲の形を読んで次の風に備えるつもりだ」
輝宗が一瞬目を細めた。「背を高くし、雲に立つか。面白い。具体的にどう進める?」
「米沢の民に田畑の水を引く小さな溝を掘らせ、新たな息吹を育てる。会津の力を伸ばすため、遠藤殿に鍛冶の火を静かに増やし、備えを厚くする策を考えさせる。黒脛巾組には陸奥の東の果て、松島や石巻の辺りを探らせ、雲の向こうの動きを掴む」
輝宗が膝を軽く叩き、「息吹と備え、そして東の果てか」と頷いた。「そなたの眼が遠くを見据えておる。良き策だ。米沢に息吹を与え、遠藤に会津を伸ばさせ、黒脛巾組に東を探らせよ」
俺は地図を手に立ち上がり、「了解だ、父上」と静かに答えた。梅の枝が風に揺れ、花びらが一枚、俺の肩に落ちた。背を高くして雲に立つ——その覚悟が、俺の胸に静かに広がった。
翌日、米沢の田畑に民が集まり始めた。鍬を手に土を掘り、水を引く溝を刻んでいく。俺は広場に立ってその様子を見ていた。水が流れる音が田畑に響き、民の笑い声が風に混じる。小さな溝だが、これが新たな息吹となり、伊達家の背を支える力になる。遠くで鍬の音が響く中、小十郎が元気に近づいてきた。
「藤次郎様、鍛冶が順調でござる! 刀と槍が増えて、民も喜んでおるよ!」彼の声はいつものように弾けている。
俺は地図を手に持ったまま、少し笑った。「おお、小十郎、見事だな。民が喜んでるなら、鍛冶の勢いを会津に運んでくれ。遠藤殿と一緒に備えを厚くする準備を頼む」
小十郎が目を輝かせ、「会津に運ぶにござるか! 拙者、藤次郎様のために走り回り申す!」と駆け去った。俺はその背を見送りながら、内心で少し和んだ。こいつの明るさが、雲の下でも光をくれる。
数日後、会津から遠藤基信が米沢に戻ってきた。春の風が彼の鎧を軽く鳴らし、穏やかな声が広間に響いた。
「藤次郎様、輝宗様、会津の鍛冶が増えておる。小十郎殿が武器を運び、備えが厚くなりつつござる。火をさらに増やせば、力が伸びると存じる」
俺は地図を広げたまま、「遠藤殿、それは良き報せだ」と答えた。「鍛冶の火を静かに増やし、備えを厚くする策を進めてくれ。会津の力が伸びれば、伊達家の背が高くなる」
遠藤が「はっ、藤次郎様の命に従い申す」と頷き、静かに下がった。俺は彼の背を見ながら、会津の鍛冶の火が雲を突き抜ける日を想像した。
その夜、裏庭で地図を手に梅の木を見上げていると、黒脛巾組の忍びが音もなく現れた。黒い脛巾を巻いた男が膝をつき、低い声で報告した。
「藤次郎様、陸奥の東の果てを探り申した。松島の辺りで舟が動き、石巻の近くで人が密かに集まり申した。雲の向こうに何か隠れておる様子にござる」
俺は地図を手に持ったまま、「おお、見事だな」と軽く笑った。「黒脛巾組、頼もしい。松島と石巻の動きか。雲の向こうの何かなら、その正体を掴んでくれ」
忍びが「はっ、藤次郎様の命に従い申す」と静かに消えた。俺は風に揺れる梅の枝を見上げ、陸奥の東の果てに新たな雲が広がる気配を感じた。背を高くしてその雲を読む——藤次郎の試練がまた一つ増えた。
数日後、二本松から鬼庭左月が使者と共に米沢を訪れた。春の陽射しが彼の鎧を照らし、静かな声が広間に響いた。
「藤次郎様、輝宗様、二本松の守りが深まりつつござる。相馬からの使者も田村氏との絆を深めたいと申しており、近いうちに会合を望んでおる」
俺は地図を手に持ったまま、「おお、鬼庭殿、それは良きことだ」と答えた。「相馬が動くなら、会合で田村氏との縁をさりげなく話し、二本松の力を活かしてくれ。絆が雲を支えれば、伊達家の背がさらに高くなる」
鬼庭左月が「はっ、藤次郎様の命に従い申す」と頷き、使者と共に下がった。俺は頭をフル回転させ、相馬との絆が新たな風を呼ぶ予感を覚えた。
翌朝、米沢の田畑で水が溝を流れ、民がその音に耳を傾けていた。俺は輝宗と並んで広場に立ち、遠くの山々を見渡した。風が向きを変え、雲がゆっくりと動く。輝宗が低い声で言った。
「藤次郎、伊達家の背が伸びてきたな。南東の波、東の果ての雲、どう操るつもりだ?」
俺は地図を手に持ったまま、「うむ、父上。波は尾で操り、雲は背で読む。米沢の息吹を活かし、会津の備えを伸ばしつつ、東の動きに眼を光らせてる」と答えた。「次は白石殿に民の暮らしをさらに固めさせ、片倉殿に相馬との会合を進めさせる。黒脛巾組には東の果てを追わせる」
輝宗が静かに頷き、「良き流れだ。白石に暮らしを固めさせ、片倉に会合を進めさせ、黒脛巾組に東を探らせよ」と命じた。
俺は「了解だ、父上」と答え、風が強まるのを感じた。米沢の田畑に水が流れ、会津の鍛冶の火が静かに燃える。陸奥の東の果てに雲が広がり、伊達家の背がその上を目指す。小十郎が武器を運び、遠藤基信が会津を伸ばし、鬼庭左月が二本松を支える。黒脛巾組が東の雲を探り、俺は地図を手に次の風を待つ。




