転生事務員アンネリーナの大暴れ
連載の続きを書けよ! と自分でも思うのですが、どうにも筆が乗らず申し訳ないです…。
逆に無関係な話ばかりがポンポン浮かんで仕方ないので、リハビリがてら1本書いてみました。読んでいただけると幸いです(*^u^*)
面白いと思っていただけたら、評価をよろしくお願い致します!
■R6.6.20 ご指摘ありがとうございます!
ジャンルをローファンタジーから変更しました。
■R6.7.10 誤字脱字報告ありがとうございます!
自分では気づかないもんですね。助かります。
■R6.7.14 いつの間にやらレビューが!?
うわああめっちゃ嬉しい、ありがとうございます!!
■R7.5.6 レビューが増えてる!!
もう本当にありがとうございます…!
■R7.7.5 ランキング入り!?!?
ちょっと見ない間に何度もランキング入りしてた…?
驚きすぎて腰抜かしました('ω')エヘヘ
たくさんの人達に読んでいただいて嬉しいです!
子爵家令嬢アンネリーナには秘密がある。
「…これ、もうちょっとどうにかなんないの?」
あれも、これも、と机の上に広げた紙を眺めて眉間に皺を寄せる彼女は、両親にさえ話していない秘密を抱えていた。
「あーあ。パソコンなんて贅沢は言わないから。
せめてワープロが欲しい…!」
アンネリーナは、前世の記憶を持ったまま生まれてしまった少女。
しかし新しい人生の舞台であるこの国には、輪廻転生という概念すらない。
誰からの理解も得られないことを早々に悟った彼女は、誰にも明かさず自身の胸の内に抱え込むことを決意したまま、今日まで生きてきた。
もちろん、地方都市の中小企業で働く事務員でしかなかった彼女にチートな頭脳や能力なんてあるはずもなく。
漫画や小説のような大革命など起こさず、せいぜいテレビやネットで聞きかじった雑学や、事務員だった経験を活かして自身の日常を少しだけ便利にする程度だった。
しかしそれが、後に周囲へ大きな衝撃をもたらすことになるとは、当時の彼女は考えてもいなかった――…。
◆◇◆◇◆◇◆
少しだけ時は流れ、貴族の子女として政略結婚を果たした彼女は今、マコール伯爵家の夫人として家政を取り仕切っているのだが、そんなある日。
「オッドソン様、お呼びでしょうか?」
「ああ、とりあえずそこへ掛けてくれ」
「はい」
呼ばれたアンネリーナが執務室へ顔を出せば、そこには1枚の紙を手に真剣な顔の旦那様の姿が。
何事かと思って身をかたくしたものの、お茶とお茶菓子を出されたため、少なくとも一大事ではなさそうだと察したアンネリーナは、遠慮なくお茶とお菓子へ手を伸ばした。
「アンネリーナ。これを書いたのはキミだろう」
「お見せくださいな。…ええ、これは私が書いたものですわ」
差し出された紙は、なんてことはないチェックリストだった。
タイトルを付けるとしたら「明日やることリスト」だろうか。
よその家については知らないが、少なくともアンネリーネが嫁いだマコール伯爵家では、当主の妻である女性が家の中の差配を行うものとされている。
しかしそこに決定権はなく、特に金銭が絡むことに関しては必ず当主である夫から許可を貰わなければならない、という決まりがあった。
姑からマコール伯爵夫人の何たるかを仕込まれたアンネリーネは、そう教えられたからこそ、今日までそのようにしてきたわけだが、しかし彼女の内には不満がくすぶっていた。
だって、これすごく非効率的じゃない?
ドレスが欲しい~とかお出かけした~いとか、それならまだ分かるよ。
少なくないお金が動くわけだし、お出かけなんて日程や護衛のことも考えなきゃいけないからね。そりゃ許可も必要だわ。
でもさ、食材の発注なんてほぼ毎日してることでしょうに、なんで毎回お伺いを立てなきゃならないのか本当に謎。
使用人が使う掃除用具を買い替えたり、馬車のメンテナンスをさせたり、確かにお金が掛かることだけど、日常的にやってるし頼む業者も金額も決まってる。
やらなきゃいけないことで、でも別に大ごとじゃなくて、毎回同じ内容でしかも予算内に収まるなら、数件分をまとめて事後報告でも十分じゃん!
――という経緯で、とうとう不満を爆発させたアンネリーナによって作られたのが、今まさにオッドソンが手にするチェックシートだった。
難しいことなどない。明日差配しようと予定しております、という一文の下にやることを箇条書きで連ねて、一番下には「許可する・許可しない・要相談」と書かれた3つのチェックボックスと署名用の空欄が並んでいるという、極めて単純な内容になっている。
おまけに、3つのチェックボックスの下部には小さく「当てはまるものにレ点を記入してください」という注意書きまであるのだから、普段から執務に当たっている彼がこのリストの意図を理解できないはずがない。
では、なぜオッドソンはアンネリーナを呼び出したのか。
小首をかしげる彼女へ、一番に口を開いたのはオッドソンの側に控えていた執事ティムズだった。
「奥様、この書類は実に画期的でございます。
旦那様ともども驚きまして、こうしてお呼び立てした次第でございます」
「アンネリーナ。これはつまり、許可するという項目にレ点を書き入れ、後は署名するだけで明日1日分の雑事の許可になると、そういうことだろう?」
そうだけど、それがなんだと言うのだろう。
アンネリーナの首がさらに深く傾いた。
許可を求める書類のどこが画期的なのか、彼女には分からなかった。
心当たりがあるとしてもチェックボックスくらいで、後はそれほど工夫した覚えがないからだ。
「分からないのか? この余計な装飾を削ぎ落した文章!
簡潔で明瞭で実に分かりやすい。また該当の項目に印を付けるという発想も許可する旨の文書を新たに作るという手間がこれ1つで省ける。
最終的に、私がすべきはレ点と署名を書き加えるだけ…。
これらが画期的でなくば何だと言うのだ!」
「まさしく、ご主人様のおっしゃるとおりでございます、奥様。
決まりとはいえ、本音を申し上げるならば、日常の細やかな些事まで許可を求められ、それにいちいち返答するというのは、日ごろ業務に追われるご主人様にとっては時間と手間ばかり掛かる…率直に申し上げますと、面倒事なのでございます」
だよねー、と。口には出さずともアンネリーナは内心激しく頷く。
そう思ったからこそ、昔取った杵柄でこのような書類を彼女が作ったのだ。
この国にももちろん報告書や許可書はある。
しかし、そのどれもが貴族らしい美しく装飾的な言葉が多用された優美な文章で書き記されていて、本題にあたる部分を見つけ出すまで時間が掛かるものばかり。
しかも人によって文章の構成がバラバラで、文章と文章で本題をサンドしてるならまだ読みやすい方だという。中にはズラリと並ぶ美辞麗句の中に比喩だの暗喩だのを駆使して本題を紛れ込ませるクセ者も少なくないというのだから、本当に困ったものだ。
でも貴族の書く文書なんてそんなもん。昔からずっと。
物語でも手紙でも書類でも、だいたいそんな感じ。
もちろん自分が書く場合も同様の文章を書く。
そんなところへ現れた、革新的な書式。
箇条書きという無駄のない簡潔な文章の羅列。
チェックを入れて署名するだけで許可できちゃう優れもの。
――なるほど、そりゃ喜ぶわ。
かくして革新的な許可書としてひそかにマコール伯爵家で広まったアンネリーナの書式は、しかしまだ序章に過ぎなかったのだ。
「アンネリーナ!」
「はい」
3日ぶり2度目の呼び出しに駆け付けたアンネリーナ。
オッドソンが手にする書類に見覚えは…ある。
「奥様、その、先日と同じ用件でございます」
「あらまぁ」
彼の手に収まる紙の束は、使用人達からの報告書だ。といっても内容は、使用人の中でも下位の掃除婦達による掃除日誌のようなもの。
これもまたアンネリーナの思い付きで、簡単な 書式 を用意した彼女が軽く説明してから渡してみたのだ。
何度も言うが、この国の書類は全て「文章」形式で記載される。
貴族はもちろん、その下で働く者達まで皆そうなのだ。
文章に使用される語彙や表現によって貴族や平民の区別はつくが、それでも例外なく文章で書かれている。――それはつまり、分かりにくいということで。
しかも汚い仕事ということで平民が雇われることの多い掃除や洗濯に関する報告書は、字が汚かったり言葉が間違っていたり文法がおかしかったりで、貴族の書くそれとはまた別の方向で読解に苦労するものばかり。
アンネリーナも常々困っていたのだ。
ゆえに、簡略化するために一肌脱いでみたというワケで。
「これ、この部分は先日の『レ点の小窓』だな?」
「はい」
アンネリーナが考案した(と認識されている)チェックボックスは、オッドソンによって「レ点の小窓」と名付けられたらしい。
「窓の掃除、チェック。窓枠の掃除、チェック。暖炉の灰搔き、チェック。
…ふむ、平民でも理解しやすいであろう簡潔極まりない言葉に小窓を付け、終えたらチェックを書き入れる、というシンプルなルールか」
「奥様の斬新で画期的な発想には脱帽でございます!
チェックを書き入れることで終えたという報告になることはもちろん、チェックのあるなしで、掃除のし忘れまで防げるのではありませんか?」
「ああ、そのうえでこちらの枠を見てみろ。何か気付いたことや気になったことがあれば書けとある」
「はい。たいていの使用人は何も書いておりませんが、だからこそ何か書いてある際はとても目立つため見逃す心配がありません。これは『絨毯の端に大きなほつれがあります』、こっちは『部屋の隅に穴。ねずみの巣かも』、他にも『暖炉の上の燭台が1つ錆びてた』、なるほど…」
「紙の上部には掃除を行った日時と、どの部屋の掃除かを記載。
この1枚をあらゆる部屋掃除の報告書として使えるのはありがたい。
すべて記入し終えたあとは、一番下に署名することで誰の担当かが分かる…」
「「素晴らしい!」」
もう絶賛に次ぐ絶賛に、ちょっと困り顔のアンネリーナ。
彼女としては、本当に少しでも面倒事を簡単に済ませたいという一心で、かつて事務員だった頃のちょっとした知識や知恵をそっくりそのまま使っているだけなので、まるで自身が天才であるかのように褒められると、なんだかちょっと申し訳ない気持ちになってしまうのだ。
「アンネリーナ、これからも何かこのように斬新な書類を思いついたなら、遠慮なく使ってみせてくれ」
「私からも、ぜひお願い致します奥様!」
「そ、そうですわね。思い付いたならそのときは…」
◆◇◆◇◆◇◆
「アンネリーナ!」
「はいはい、今参りますわ~」
今日も今日とてお呼び出し。
旦那様の待つ執務室へ伯爵夫人らしく優雅に駆け付ければ、やっぱり大興奮な様子のオッドソンと執事ティムズが待ち構えていた。もちろん彼らの手には見覚えのある書類の束が。
「アンネリーナ、これは…!」
「奥様、こちらは…!」
家計簿――のつもりだった。
伯爵家ともなれば、日々それなりの金額が出入りする。
それを把握するための書類として、アンネリーナは帳簿を作っていたのだ。
この国の徹底された「文章文化」は根深く、例えば1+1=2ですら「1つに1つを加えると、それは2つになる」といった文章で表すほどの徹底ぶりに、彼女は学生時代から辟易していた。
算数ですらいちいちそんな感じなのだから、より情報量の多い収支の報告ともなると、紙の1枚や2枚じゃ全然まったく足りないわけで。
嫁いだ最初こそ、姑の目を気にして文章を書いていたものの、今や彼女は前当主とともに領地の別荘で優雅な隠居生活。おまけに旦那様はアンネリーナの作る革新的な書類に好意的ときたら、もうやるっきゃねぇと奮い立つのも当然の流れ。
そんなわけで満を持して提出した帳簿こそが、今回の呼び出しの原因だった。
題して、マコール伯爵家の家計簿。
帳簿関係は経理担当者と税理士任せだった事務員の知識では、この程度が限界だったという裏事情があったりするけど、幸い彼らにとっては十分に革新的らしい。
「これはつまり、金銭の動きを表しているもので間違いないか」
「はい、おっしゃる通りでございますわ」
「なるほど。…説明を頼んでいいか」
「かしこまりました」
といっても、帳簿や家計簿はシンプルでなんぼだと思っているアンネリーナなので、語ることはそう多くはなかったりする。日付と項目、あとは収入と支出と合計の金額を書き入れれば完了!
「あとは、そうですわねぇ…。
項目には最低限、取引のお相手と品物の名称を書き入れるべきですわ」
「ほう。…それは削ぎ書きでいいのだな?」
「ええ」
削ぎ書き。これもまた「レ点の小窓」と同様、オッドソンによる命名だ。
無駄な表現や装飾を削ぎ落した簡潔な文章や箇条書きのことを、彼はそう呼ぶことにしたらしい。
「あくまで金銭の流れを分かりやすく把握するための書類なので、品物の単価や 個数といった明細は、保管してある納品目録で確認してくださいまし」
納品目録は要するに納品書なのだが、もちろんこれも文章形式だ。
とはいえ、さすがのアンネリーナも他所の業者の書類にまで口を出すつもりはないので、その辺は頑張って読み取るしかない。
「いや、これだけでかなり助かるぞ! 日付に取引先、品目と金額!
知りたいことが全て過不足なく簡潔に記されているのだから!」
「おお、奥方様の書き方にしたら、1日の収支がたったの数行で済みます!
読み解く手間が不要なので、パッと見ただけで分かります!
さらに、奥様が書いてくださったこちらも…」
執事がペラペラとめくっているのは、項目別に計上した帳簿だった。
オッドソンが見ている方は元帳のようなもので、一連のやり取りが全部記載されている「まとめ」の帳簿。それに対して執事の手にある紙には、光熱費や食費といった細かな分類毎に計算してあるもの。
「薪や油、蝋燭などをまとめた光熱費。食材や調味料をまとめた食費。
ひび割れた床や剥がれた壁紙、馬車などの修繕費。…なんて素晴らしい!
どんなことにどれだけ掛かったのか一目瞭然でありながら、旦那様がお持ちの方を見ると1日分の総計まで分かってしまう…!」
「この題目も素晴らしい。光熱費、ランプや暖炉、オーブンに関する収支だな。
食費も修繕費も読んで字の如く。消耗品…ふむ、確かにどれも頻繁に使い古しては捨てて購入する物ばかり、まさしく消耗する物。
分かりやすい、実に分かりやすいぞ!」
いいトシした紳士2人が紙の束を前にキャッキャとはしゃぐ姿も、アンネリーナはすっかり見慣れてしまった。
今から我がマコール伯爵家の収支計算書は全てこれにする!と宣言しながら、拳を天へと突きあげるオッドソンと執事を、アンネリーナは生暖かく見守った。
◆◇◆◇◆◇◆
とある日の昼下がり。
数字の書かれた書類を前に、眉を寄せるオッドソン。
そんな彼の姿に、すっかり執務室の常連となったアンネリーナが何か手伝おうかと近づいてみれば、ちょこちょこと動く彼の手元には…
「まぁ、樽の絵?」
「ッ! …ああ、アンネリーナか。いや、これは、その」
少し頬を赤くしたオッドソン曰く。どうやら彼は数字が苦手らしい。
意外な告白に目を丸くしたアンネリーナへ、恥ずかし気に教えてくれた。
とはいえ計算が出来ないわけではなく、またそれで問題が起きたこともないため、当主の意地で今までずっと隠してきたのだと言う。
「計算は問題ないのだが、数字を比べるのが苦手でな。
過去と今の収穫量だの税収だのを比べる際、数字を見ただけではイマイチ差異が掴みにくいのだ…」
そこで彼なりに工夫した。分かりやすい絵を描いてみたのだ。
とはいえ、基本的に伯爵家で扱う数字は大きい。5や10ならまだしも百や千の絵など描いてるヒマはない。
「ゆえに、この大きな樽で100、こちらの小さな樽で10を表わしてみた」
「ではこちらの絵は、530を表わしているのですね?」
「ああ」
とりあえず今は、屋敷内におけるここ3ヵ月分の小麦の消費量を見比べるために、樽の絵を描いていたらしい。
紙の上には可愛らしい樽がコロコロと描かれている。
先月という文字の下には530を表わす樽、先々月の下には490を表わす樽。
そして今彼は、今月分の樽をちまちまと描いている最中だ。
…ここでアンネリーナはピンときた。
アレを使えばもっと比較しやすいんじゃないの、と。
「…オッドソン様、ちょっと失礼しますわ」
「もしや、また何か思いついたのか?」
「えぇ、まぁ、ちょっと…」
こういうときこそアレの出番。――そう、グラフだ!
数値を視覚で見比べたいならグラフが一番!
前世でも会議の資料やら報告書やらでしこたまグラフを作ってきた歴戦の事務員アンネリーナの手に掛かれば、小麦の消費量の月別推移などちょちょいのちょいで完成だ。
「これは……」
「いちいち樽を描くのも大変でございましょう?
もっと簡略化する方法を思いつきましたの」
不要な紙にお絵描きをする旦那様もそれはそれで可愛いけど、ただでさえ忙しい彼が数値の把握のためとはいえ余計な手間に時間を費やすのはいただけない。
というわけで、アンネリーナが書きだしたのは棒グラフだ。
縦の軸には量、横の軸には時間、タイトルは屋敷内の小麦の消費量。
「要するに、樽を縦に重ねて描いたようなものですわ。
積み上がった樽の方が、より見比べやすいでしょう?
でも樽を描くのも大変ですもの。いっそ棒にしてしまえば、と。
かわりに、樽1つ分の目安を縦の軸に表記すると、この棒は樽いくつ分を表わしているかが分かりやすいと思いますの」
いかがかしら、と横を見れば、そこには目をかっ開いたオッドソンが食らいつくようにグラフを見つめていた。…オーケイ、これはいつもの流れね。
「…す」
「す?」
「…す、素晴らしい!! これは…! なんということだ…!
おお、アンネリーナ、キミはなんて素晴らしい女性なんだ…!!」
すごい。オッドソンによるスタンディングオーベーション。
彼の大きな手から繰り出される拍手がパァン!パァン!と執務室へ響き渡る。
どうやらデカい拍手の音は廊下まで聞こえていたらしく、何事かと慌てて駆け付けたいつもの執事ティムズ。説明するオッドソン。輝くティムズの目。
「お、奥様…!!」
「アンネリーナ…!!」
「あらまぁ」
すごい、素晴らしい、画期的、革新的。
ここ最近で聞きなれた誉め言葉がドドッと雨の如く降り注ぐ。
もはやアンネリーナも慣れたもので、前世の知識でズルしているという罪悪感はあるものの、いえいえそんな…と謙遜しつつ素直に受け取るようになっていた。
その後、調子に乗った彼女は何種類かのグラフについて教えを授け、イイ気分で颯爽と立ち去った。――ゆえに彼女は知らなかった。
オッドソンとティムズが何かを話し合い、そして決意したことを。
◆◇◆◇◆◇◆
「おかえりなさいませ、オッドソン様」
「ああ、今帰った。アンネリーナ」
2週間ほど出掛けていたオッドソンと執事のティムズが帰宅した。
詳しくは聞かなかったが、なにやら仕事の関係で王都へ出張していたらしい。
「留守中、なにか変わったことは?」
「特にございませんわ。いつも通り恙なく」
「そうか」
オッドソンの不在を守ったアンネリーナ側は特にこれと言った出来事もなく、実に平穏な2週間だった。しかし何というか…。ちょっとソワソワしているオッドソンと執事の様子から、彼らの方では何かあったんだな~と彼女は推測していた。
とはいえ、アンネリーナは貞淑な妻なので、旦那であるオッドソンから言い出さない限りはしたなく問いただすようなことはしない。好奇心をぐっと抑え込み、控えめに微笑むだけ。
しかしその日の夜。
晩餐の席でオッドソンがおもむろに口を開いた。
「アンネリーナ、キミを連れて王都へ行くことになった。
急で申し訳ないが、これは王命でもある。
出発は3日後を予定しているから、それまでに旅支度を整えてくれ」
「あらまぁ、どうなさったのですか、オッドソン様」
「ああ、実はな」
目を丸くするアンネリーナへ、オッドソンが語るには。
曰く、彼女の生み出す数々の革新的な書類形式を、マコール伯爵家の中だけに留めておくことは、非常に勿体ないことなのではないか――そう考えたオッドソンは、なんと国王陛下へ奏上したのだという。
領地から謁見の申込を送って、承認の返事を受け取ってすぐ出発。
王家側としても興味を持ってくれていたらしく、到着した当日に謁見が叶ったというのだから驚きだ。数日待たされるのが慣例なのに。
そうして通された謁見の間で持参した書類一式を見せ、説明したところ…
「絶賛された」
「えっ」
「大絶賛だった」
「えぇっ」
「主に陛下や宰相殿の執務を補佐する文官達からだが…。
その場に立ち会っていた騎士団長殿も書類に大変好意的だったんだ」
「騎士団長殿も…?」
「彼は騎士団を束ねるうえで執務は欠かせないからな。
毎回毎回机に噛り付いて、長ったらしい文章を書くことが苦痛だったらしい」
「まぁ、そうですのね」
確かにアンネリーナ考案の革新的な書式を駆使すれば、そういった業務を大幅に短縮できるだろう。黙ってるより動きたい騎士団長が好意的な理由も納得できる。
「特に宰相殿の反応は顕著だった。…本当に驚いたよ!
鉄面の男や岩の心などと呼ばれるあの宰相殿が、顔を真っ赤にして書類を誉めちぎりながら、陛下へ『これは必ずや城でも採用すべきだ』とまくし立てていたのだから!」
国王陛下の腹心、右腕とも名高い宰相閣下のことは、アンネリーナも聞いたことがあるため知っていた。どんな事態にも顔色を変えず眉ひとつ動かず、淡々と仕事を熟す方であると。
そんな宰相閣下の顔色を赤く染め、お褒めの言葉をこれでもかと引っ張り出し、国王陛下を相手にまくしたてるほど興奮させた書類、その製作者が城へと呼び出されるのはもはや必然だった。
「そういうわけで、おそれ多くも陛下がキミとの対面をお望みだ。
もちろん宰相殿も立ち会われるだろう。ひょっとしたら騎士団長殿も。
…大丈夫だ、私も共に行く。アンネリーナは聞かれたことだけ答えればいい」
「は、はい。不安ではありますけど、王命ですものね。光栄ですわ。
かしこまりました、さっそく今から準備させますわ」
とんでもねぇことになった…。調子に乗り過ぎたことを後悔したアンネリーナだが、もう遅い。事態は引き返せないところまで進んでいるのだから。
諦めて覚悟を決めたアンネリーナは、メイド達へ旅の準備をさせつつ、待ち構えているであろう質疑応答を、予想できる限り予習しておくのだった――。
◆◇◆◇◆◇◆
「オッドソン・ドリュー・マコール伯爵。
ならびにアンネリーナ・シエラ・マコール伯爵夫人。
おもてをあげよ」
陛下も宰相閣下も、この日を待ちわびていたんだろうな…と察してしまうほど、素早い「おもてをあげよ」だった。渾身のカーテシーを披露した次の瞬間には顔を上げるように言われたのだから、どれだけ早かったか察してほしい。普通は最低でも数秒ほど待ってからお声が掛かるもんなのに。
「そなたが、マコール伯爵の賢妻と名高いアンネリーナか」
仕事を少しでも効率よく楽に回せるように、という自分のために前世の記憶を活用しただけで、いつの間にやら賢妻とまで言われるようになっていたことを、アンネリーナは陛下の言葉で初めて知った。
マジかよ…私は賢妻だったのか…などとは口に出さず、嫌味にならない程度の謙遜を述べたアンネリーナは、謁見の間から応接間への移動を促された。
…来た! アンネリーナは、さっそく予習が役立ちそうな予感を覚える。
応接間への移動、つまり「立ち話もなんですから」という意味で、要するにガッツリお喋りする気だから皆で座りましょうってこと。
案の定、移動先の部屋で勧められた紅茶を礼儀として一口いただくと、待ってましたとばかりに彼女への質問攻めが始まった。
「いつからこのような構想を練っていたのか」
「どうやってこのような発想に辿り着いたのか」
「この革新的な書式を作成するうえで何が重要か」
「他にも何か新たな書式の案はあるか」
「は、はい。いつからと申しますと、実は結婚前からでございます」
「お恥ずかしながら、私は怠惰な質を持っておりまして。日々の許可や報告をもっと簡単にしたいと常々考えて、このような発想に――…」
「重要な点は、何と言っても『無駄を省くこと』と考えております。本当に伝えたいことのみを記し、優美な装飾の言葉を削ぎ落して――…」
「新たな案は、いくつかございます。複数の情報を一覧できる書式など――…」
もう、すんごい。怒涛の質問攻め。
せっかく出された紅茶を飲むヒマもねぇ。
あーあ、お城の高い紅茶をぜひとも味わいたいのに…。
アンネリーナは嘆息を微笑みの下に隠した。
1時間だろうか、2時間だろうか。喉を潤すことなく喋り続けたアンネリーナの声が掠れていることにやっと気づいた宰相が、未だ気付かずアレコレ問いかけている陛下や、いつの間にか加わっていた騎士団長を黙らせてくれなければ、アンネリーナの喉はブッ壊れていたかもしれない。
「いや申し訳ない。どうぞ紅茶を。あとで喉に効くという蜂蜜も届けよう」
「ま゙ぁ゙、こほんっ。お゙、お気遣いを……」
「アンネリーナ、無理に話すな。お言葉に甘えて紅茶を飲みなさい」
「はい゙……」
下品にがっついてしまわぬようちびちびと、しかし必死に紅茶を飲んで喉を潤すアンネリーナの姿に、しゅん…と小さくなる陛下と騎士団長。さすがに申し訳ないことをした自覚があるらしく、蜂蜜を手配する宰相へ、陛下が王族の食糧庫にある物を使っていいと許可を出した。
陛下が食べているとなれば、確実に国で一番高級で美味なはちみつに違いない。
アンネリーナは嬉しさのあまり、ニヤけないよう必死に表情を引き締めた。
「マコール伯爵、及び伯爵夫人よ。実に有意義な時間であった。
領地から移動してすぐ呼び立てたゆえ、2人とも…特に夫人は疲れておろう。
城内へ部屋を用意させた。そちらへ泊るがよい。ああそれと、今夜の晩餐に招くゆえ、そのつもりでいなさい」
「陛下のご配慮、ご温情に感謝の念に堪えません」
「晩餐にお招きいただく栄誉を賜り、ありがとう存じます」
城へ宿泊できるだけでもとんでもなく光栄だが、そのうえ陛下直々に晩餐へ招かれるなど、子々孫々まで語り継げるほどの大きな栄誉だ。
祖父の代、他国との戦争で小さな功績を残して以来パッとしないマコール伯爵家に、まさか己が輝かしい栄誉を運ぶことになったオッドソンは、喜びと興奮で顔を染めながら隣の妻を見る。
ああ、彼女だ。すべては彼女のおかげだ。
結婚に積極的になれず、いつまでも動かないオッドソンが、両親からせっつかれることに疲れて適当に選んだ相手。
色んな未婚女性の情報を集めた中で、華美な容姿や苛烈な性格を持たず、散財の気がなく、従順な妻になりそうだという己の都合のみで決めた、ぶっちゃけ政略ですらない惰性による婚約。
本当にそれでよかったのか…などと、折に触れては己を小さく悩ませる、不幸ではないがただそれだけの、決して幸せではない結婚。
――そう考えていた過去の己へ言ってやりたい。
オマエはおそれ多くも幸運の女神を賜ったんだぞ、と。
毒にも薬にもならぬマコール伯爵家へ、新たな風と大きな栄誉を運ぶ幸運の女神を掴み取ったんだぞ、と大声でまくし立ててやりたい。
オッドソンからの視線に気づいて、ちょっとだけ照れくさそうに頬を染めるアンネリーナ。
華やかさに欠ける、素朴であどけない顔立ちの妻だが、今の彼には誰よりも輝かしい美女に見えて、胸に愛しさが込み上げる。
そんな2人を微笑ましく見守るオッサンが3人。
若人の恋愛模様は見ているだけで心が若返る。
あとは若い2人で…などと言いだしそうな雰囲気は、宿泊用の部屋の準備が整ったという業務連絡の前に儚く散った。
◆◇◆◇◆◇◆
とんでもねぇことになった!!
今日という日を一生胸に刻もうと誓って臨んだ晩餐会を終えたアンネリーナは、部屋へ戻った途端に頭を抱えた。
「だ、大丈夫かアンネリーナ」
「うぅ…わかりません。大丈夫じゃないかもしれません」
「それもそうだな。なにしろ」
――新書式普及のための講習会、その講師になれと言われたのだから。
王族が勢ぞろいした晩餐の席で、豪華な美食に舌鼓を打つアンネリーナへ、国王から話を聞いていたらしい王太子が放った言葉が切っ掛けだった。
「あの革新的で効率的な素晴らしい書式は、間違いなく広く普及するでしょう。
その前にぜひ、作成するコツや注意点などをご教授願いたいなぁ」
その言葉に「それはいい!」と返したのは誰だったか。
外交官の任に就いている第二王子だったか、それとも陛下だったか。
とにかく、あれよあれよという間に話は進み、晩餐が終わる頃にはアンネリーナによる新書式の講習会が決まっていたのだ。
ちなみにオッドソンも講習会の際には、新書式を導入した場合どれほど仕事が効率的に進むようになるのか、新書式がどれほど書きやすく、また読みやすいかを経験者として参加者へ説明する役を申し付けられていたりする。
「…そんな大役、私に務まるでしょうか」
「務まるかどうかじゃない、務めねばならんのだ」
「分かっております。分かっておりますけどぉ…」
「ああ、分かってはいるのだがなぁ…」
宿泊用にと宛てがわれた豪華な客室で2人そろって頭を抱え、その日を終えた。
そして明くる日の朝。なんと昨晩に引き続き王家の朝食の席へお呼ばれした2人は、いよいよ後に引けない事態になっていることを悟る。
講習会の開催はいつにしようか、会場は小広間を使おうか、講習はどのように進めるのか、配布する資料の内容も考えなければ――等々、あれから一晩しか経っていないにも関わらず、話がすっかり具体的になってしまっていた。早い。早すぎる。
陛下の目元がうっすら黒かったので、おそらく宰相あたりと夜通し話し合っていたのではないか、とアンネリーナは察した。
「ではマコール伯爵。及び伯爵夫人。頼んだぞ」
「準備が整ったら手紙を送るように。こちらから迎えを出そう」
3日ほど城へ滞在した2人は、別れ際の陛下と宰相の言葉に表情を引き締めた。
「頼んだぞ」も「準備が整ったら」も、どちらも講習会のことを差す。
領地へ向かう馬車の中で、マコール伯爵夫妻は戦々恐々としていた。
国王陛下からの期待は名誉であるものの、同時に重責でもあるのだから。
「…屋敷へ戻ったら、すぐ講習で使う資料作りに取り掛かろう」
「はい。ですがその前に、講習でどれを教えるか考えなくては」
「そうだな。ティムズにも相談に乗ってもらおう」
「資料の案が出来上がった時点で、一度王宮へ送りませんこと?」
「ああ、内容をご確認いただく必要もあるからな」
あーでもない、こーでもない。領地までの数日間ずっと馬車の中で話し合い、帰宅してからも頭を悩ませ、時に執事まで引っ張り込んでとことん意見を交わしつつ、アンネリーナは多忙な日々を我武者羅に駆け抜けた。
――そして来る日。
マコール伯爵家が一団となり、試行錯誤を繰り返し吟味を重ね、ついに完成した各種資料を引っ提げてアンネリーナとオッドソンは王宮へ戻ってきた。
人前で講義するということで、この日のために誂えた衣装に身を包んだ2人は背景に花が咲き乱れても不思議ではないほどピッカピカに磨きあげられているが、気分は顔に濃い影が落ちるセピアな劇画調。
…それだけ気合いが入っているということだ。
ついでに緊張もしてる。なんならお腹も痛い。
しかし2人には、特に今回開かれる講習会の主役であるアンネリーナには、退却など許されない。講習会の無事終了へ向けて突き進むのみ…!
「覚悟はいいかい、アンネリーナ」
「もちろんですわ、オッドソン様」
仰々しい大きな扉の前で、ざわめく大勢の気配に一筋の汗がタラリ。
もちろん、だなんて強がって見せたものの、内心ではビビりまくって怖気づいている彼女の頭の中は不満でいっぱいだし文句もタラタラだが、もうどうにもならないところまで来てしまっている。
――とんでもねぇことになった…。
なんでこんな大ごとになってしまったのか。
アンネリーナはただ、ちょっと楽をしたいだけだったのに。
面倒くさい書類が簡単になれば、と事務員だった記憶を活かしただけ。
確かにその後、夫や執事に褒められて調子に乗ったことは認めるが、それは彼らの執務の負担が少しでも減ったら、という善意があってのこと。
それがまさかこんな事態にまで発展するなんて、想像もしていなかったアンネリーナは、しかし事の発端が己にあることも十分に理解している。
きっと「転生事務員がチートなわけない」と、自分自身をナメていたツケが回ってきたのだ。そう考えた彼女は潔く腹を括って、一歩踏み出した。
こうなったら、遠慮は無用!
とことんヤってやろうじゃないの!
覚悟を決めた彼女は強かった。
自身が作った資料を片手に、可能な限り前世の知識をさらけ出して大暴れ。
結局その講習会の中で、さらに新たな書式が生み出されたうえに、新人達へ書式についてのアレコレを指導する新たな部署まで立ち上げられてしまうという、まさしく歴史に残る講習会となった。
――後に彼女はぽつりとこぼした。
資格なんて、オートマの運転免許と珠算電卓検定3級しか持ってなかった私ですら、王宮で日々国政に携わる官僚だの文官だのを相手に講習会を開くハメになったのだもの。
例えば栄養管理者だのシステムエンジニアだのが転生しちゃったら、一体どれほどの大騒ぎになるのかしらね?
意図せずチートを発揮してしまったアンネリーナは、こうも考えた。
ひょっとしたら異世界では誰しもチートになりうるのかもしれない、と。