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わたしは慌てた。
だって優しい人に迷惑をかけたくない。
「僕は大丈夫ですよ。選ばれたことにはきっと意味があるでしょう。家族が幸せに暮らせる世界が来るのなら、僕にできることをしたいので」
「さすがと言いたいところですが……もっと自分を大切にしたほうがいいですよ。そもそも今の勇者はお飾りなんです。やめたくなったらやめればいい。選ばれた一握りの人間になりたい者は王都には星の数ほど存在します。その地位の割にないがしろにされていると感じることも多いでしょう。信じられる者は一握りとなるはずです。それでもやるというのなら、自分の直感を忘れてはいけませんよ。感じたものを信じるのです」
ホルンにも経験があるのだろうか。実感のこもった言葉はわたしに同じ苦労をさせないようにという配慮が感じられた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではないです。私では勇者の助けにはなれない。助言の一つくらいしか贈ることができませんから」
そう言うとホルンは頭を振った。
「それから私のことは呼び捨ててください」
「え、無理です」
思わず即答してしまう。
近くにいるだけでドキドキしてしまうのに、呼び捨てになんてしたら倒れてしまうんじゃないかな!
わたしを弟だと信じている彼はわたしの心情はきっとわからないだろう。
「いけません。本来ならば私がそう呼ばなくてはならないんですよ?勇者様」
「え、やだ、やめてくださいよ!」
「んー、やめてほしいならどうすればいいかわかりますよね?先程お教えしたでしょう?」
「ホルンさん、やめてください……」
「まあいいでしょう。あなたがそうお願いするのでしたら」
ホルンはうなづきながらも、なるべく人がいる時には呼び捨てるようにと言い含めようとする。わたしにできるか不安だ。
そもそも勇者なんておとぎ話の中に出てくるだけで、実際そう呼ばれたのは二百年以上前を生きた人だ。
いなくなってしまえば残った人が好きに印象を付け加えていける。わたしの父のように生きていた頃に交流がある者だって噂を信じるようになってしまうのだ。元の人物を知らなければ語られている虚像こそが本物だと思ってしまうだろう。
昔は無邪気に信じていた「魔王のせいで苦しんでいた人々を助けた勇者」もきっと都合のいいように切り取られているのではないだろうか。きっと勇者であった本人が知ったら別人だと驚くかもしれない。
もしもなんてないから当時の勇者本人が知ることはないけれど。わたしがもし同じ立場になった時に、思っていても違うのではないかと声を上げなかったことを後悔するかもしれないとは思う。
「僕が勇者なんてきっと何かの間違いです」
「でも選ばれたのはあなたです。それに現国王が勇者を探していたのも本当です。王様は勇者が見つかれば変われると思っていたようですし」
「ええ?国も人も急には変われないと思うんですが……」
「体が弱ってきていますから何かに縋りたかったのかもしれませんね。見つけられたらいいなと思いましたが本当に見つかるとは思っていませんでした。あなたには迷惑な話かもしれませんが、できれば王にだけは会ってほしいと思っています。なる気がなければその後に帰るということで」
「え、うーん」
「そもそもなぜ鑑定を?多少の自覚はあったでしょうに。どうして受けてしまったんですか」
なぜか残念そうに言われたので、わたしは口をとがらせた。
「お金ももらえるっていうのに受けないなんて」
「お金が出るということはそれなりの理由があるということですよ。お願いはしましたが嫌がる人を連行する趣味はないので断っても構いません。建前しか話すことのできなかった私にも責任はありますからね」
「……行きます、大丈夫です」
「もしも、こんな無力な文官にでも頼りたくなるほどの窮地に陥った時は訪ねてきてください。私にできることでしたら何でもしましょう。あなたのことは私が見出してしまったのですから。その責任くらいはとれるようにしておきましょう」
ホルンの眼差しは柔らかくて、わたしを見つけてしまったことで責任を感じているのだと分かっていても頬が熱くなってしまった。
王都までの道のりは遠いと聞いていたがその通りに長かった。
間にある町や村に立ち寄って宿をとっていた。三度目の今日も同じように宿屋の一室を与えられるものだと思っていた。
しかし町に着いてみて、今日はあきらめたほうがいいなと思った。
大きな川が側にあるその町では、一年に一度の大きなお祭りが行われていて、人混みで馬車の進みが遅くなってしまうくらいだった。
「これは野宿も視野に入れるべきかもしれません」
馬車の馭者はそう言って顔をしかめた。
「最悪の場合はそうするしかないでしょうね。できれば体を伸ばして眠りたい。祭りは遅くまでかかるようだからもしかしたら空いている可能性もあるだろう。手分けして探そうか」
数人の護衛のうち一人を置いてホルンは出かけた。
わたしは残った馭者に話しかける。
「ホルンさんって貴族でしょう?人に任せてしまうかと思ったのに」
「今は一人でも人数がいたほうが早いと思ったんじゃないですかね。ぼっちゃんはよかったですね。あの方は面倒見がいい」
「そうなんでしょうね。王様が探していた相手を見つけたとなれば、利用のしがいがあるだろうに、本当に僕のことを考えてくれて」
「そうでしょう。偉い方なのに偉ぶったところが一つもない。私はいい主人を持ったと思っていますよ」
馭者は主人のホルンが褒められて得意げにうなづいた。
しばらくして戻ってきたホルンの顔が優れない。
「やはり野宿になりますか?」
「いえ。いくつかの宿に空きがあったのですが、どこも皆が泊まれるだけの部屋数がないようです。仕方ありません、あまり気が進みませんが分かれて泊まることにしましょう」
「ではどのように割り振りますか?」
そう護衛の一人が問いた。
「二部屋ある宿にわたし達が泊まろう」
わたし達に含まれているのはわたしとホルンだとばかり思っていた。
宿までの道のりを質問した護衛も歩いているから、仕事熱心な人なのだと思っていたら、隣の部屋に消えていった。
「あの、僕の部屋は……?」
「私と一緒ですよ。さあこちらに」
反論する間もなく、部屋の中へと引き込まれる。
掴まれた腕は痛くないが、そこだけが熱い。
「あああ、あの」
「すみません。廊下で話すよりは部屋でと思ったのですが、驚かせてしまいましたね」
「いえ。大丈夫です」
胸がうるさいくらいに鳴っている。平然と話せているのか不安に思いつつ、不審がられないように会話を続ける。
「湯を用意してもらえるようですから風呂は無理でも少しは旅の汚れも落とせると思いますよ」
「え、いや今日は大丈夫ですから!その」
「昨日はあんなに風呂を喜んでいた人が。……もしや体調が悪いのですか?顔が赤いですし。そういえば昨晩ずいぶんとはしゃいでいたようですから湯冷めしたのではないですか?風邪をひいているなら温かいものを運ばせますから食べてすぐに寝てしまったほうがいいでしょう」
そう言うとホルンはわたしの額に手を当てた。額で測ろうとしているのだろうか、顔が近づいてくるので慌てて避ける。
「お、お湯もらってきますね!」
部屋を出てから気がついたが、ホルンもいる部屋でどうやって服を脱げばいいのだろう。まあ着ながら中を拭うことくらいはできるだろうけれど、裾がめくれはするだろうし。
あんな綺麗な人に見られながら着替えとか、したくないんだけどなあ……。
長年の畑や水仕事で固くなりぼろぼろなのは仕方ない。でも服で隠れているような腹、背中や腕なども消えないまま残っている傷が多い。
「貴族なんだもの、きっと同じくらい綺麗なお嬢様とか見慣れているよねえ」
弟の振りをしても気づかれないくらいには逞しい自分の身体に目を落とす。
「お話できるようになったのが奇跡のようなものだもの。王都に着くまでは絶対にバレないようにしなくちゃ」
きっと優しいホルンは勇者と鑑定を受けたのが姉のほうのマーシャであったと知れば、家に送り返してくれるだろう。
そして勇者が来れなかった理由を何かしらつける。
「はいダメ、絶対にダメ。迷惑かけたくない。ホルンさんの言う通りだわ。わたしがこっそりお参りなんてしたからいけなかったのかも」
ため息をつきながら歩くといつの間にか宿の一階の少し広くなっているスペース、きっと食堂なのだろう、に着いていた。
「どうしたんだい、暗い顔をして。ご主人様に怒られたのかい?」
心配そうに声をかけてくれたのはふくよかな中年の女性であった。彼女は宿に入る時に案内してくれた人だ。多分この宿の女将だろう。
「いえなんでもないんです。ちょっと将来が不安で」
「そうかい、若いんだからやり直しは何回でもできるさ。生きてさえいればね」
「生き延びるつもりはあるんですけど、他人に迷惑かけそうで困ってるんです」
聞くやいなや女将は大きな声で笑い出した。
「ははは!大丈夫さ、気にしたってなんにも変わらないよ。どんなにいい人だって立場が逆の人間からすれば邪魔なもんさ。何をしたってすぐに文句を言いたがる人間だっている。うちだってこうして商売をしているから、妙な噂を立てられたり、立ち退きをさせようと邪魔してくる奴もいたよ」
「え、大丈夫なんですか?」
「何言ってるのかねこの子は。乗り越えたからこうして今も宿を続けているんだろ?あんたに何があったかは知らないけど、生きてりゃ色んなことが起こるもんだよ。いちいち落ち込んでたらきりがないさ」
あふれる生命力がまぶしい。
「で、どうしたんだい。散歩してたってわけじゃないだろ?」
「体を拭きたくてお湯をいただけないかと思って」
「お湯かい?ちょっとでよければすぐに出せるから待ってておくれ」
そう言うとすぐに奥へと入って行く。
しばらく待っていると女将さんが小さな桶を二つ持って出てきた。
「はいよ、熱いから気をつけるんだよ。使い終わったらここに置いといてくれればいいからね」
「すみません、助かります」
「そうだ、ご飯は食べたかい?もう食堂は店じまいしちまったけど、残り物でよかったら用意するよ」
「え、いいんですか?ありがとうございます」
「ははは、あんたみたいな育ち盛りの子は一杯食べたほうがいいからねえ。うちの子が小さかった頃を思い出すよ」
「お子さんですか?」
「もうおっきくなっちまってるからね。あんたくらいの年頃が一番可愛いよねえ。あらよく見たら女の子みたいな可愛らしい顔してるじゃないか。こりゃ将来は引っ張りだこじゃないかい?言い寄ってくるからって端から手をつけたりするんじゃないよ?」
えええ。
「しません!大丈夫です」
「ははは、冗談だよ、冗談。ほら湯が冷めちまうよ。食事のほうは用意しとくから、ご主人のお貴族様にも持っててやんな」
女将さんから見てもすぐに貴族だと思われるような人であるらしい。町に入ってもやっぱり見かけることのないくらいに綺麗だからしょうがないなと思う。
わたしは従者の子だと思われているのだろう。
廊下に一旦桶を置いてから鍵を開けて部屋に入る。
「もらってきましたよ。あれもう寝ちゃってる……。疲れたのかな」
ホルンはベットに横になりこちらに背を向けている。声をかけても反応がないので、眠ってしまっているようだった。
寝ているのなら仕方ない。起こしてもいいけれど、先に自分が使ってしまおうと思った。
ちょうどいいと服を脱ぐ。隠しながら拭くよりもやりやすい。
さっさと済ましてご飯をもらいに行こう。
残り物とは言っていたけれど、美味しそうな匂いがしていた。きっと美味しいだろうなと食べ物のことばかり考えていたせいで、かすかな物音を聞き逃してしまった。
替えの上衣に袖を通したところでお腹は我慢しきれず大きな音を立てた。とベットの中で寝返りを打つのが見えた。
「ん……戻りましたね。お腹すきましたか?」
「ごめんなさい、音大きかったですか?」
寝入っているようだったから聞こえていないと思っていたのに。まさか聞かれるなんて!
わたしは恥ずかしくて身をよじりそうになる。
「いえ可愛らしい音でしたよ」
「聞こえてたんですね。お恥ずかしい」
「お腹が鳴るなんて元気な証拠ですよ。少し寝たので身体が軽くなった気がしますし、私が食事のことを聞いてきましょう」
「大丈夫です!今日は早めに閉めちゃったらしいんですが、残り物でよければ準備してくれるとのことでした。使った桶を返しながらもらってきます」
「ああ、私の分も持ってきてくれたんですね」
ホルンがベットサイドに置かれた桶に気がついた。部屋に着いた時には湯気が立っていたのに今はほとんど見えない。
「少し冷めちゃったかもしれません。新しいお湯ももらいに行きますね」
「両手が一杯になってしまうでしょう。少しくらい冷めていても大丈夫ですからいただきますね。氷水で拭いたこともありますし平気ですよ」
「冗談がうまいですね。氷水なんて夏でも身体がびっくりしちゃいますよ」
「……バレてしまいましたか」
ホルンはバツが悪そうな顔になった。
「じゃあ使い終わったら教えてくださいね。僕は女将さんと話してきますから」
ホルンが脱ぎかけたのを横目で見てしまってあわてて部屋の外に出る。
一瞬視界に捉えてしまった姿が焼きついてしまって頭を振った。
階段を降りて細い廊下をもう一度歩く。
食堂として使っているのだろうテーブルの上に大きなトレイがあり、いくつもの種類の料理が載った大皿と野菜が細かく刻まれたスープが二人分あった。
女将さんは残り物と言っていたがとんでもない。とても美味しそうだ。
スープから湯気が立っているので温め直してくれたようだった。
「ちょうどよかった。準備できたよ。こんなもの食べられるかって怒られたらごめんよ。あんたも庶民の料理じゃ口に合うか分からないけどねえ」
「そんな。僕はこの先の村の人間なので、こんなに美味しそうなご飯は初めてです。ありがとうございます」
深々と礼をすると女将さんはわたしを手招きする。近づくと戸棚から出したクッキーを手渡してくれた。クッキーは油紙に包まれていて、このまま数日なら持ち運べそうだった。
「今日でも明日でもいいから食べなね。もし足りなかったらまたおいで」
「女将さんが作ったんですか?美味しそう」
「そうさ、秋に集めた木の実とこないだ採れたはちみつを使っているから。少しクセがあるかもしれないけど甘くて美味しいよ」
「はちみつですか!その、高いのにすみません」
「いいや摂ったのは旦那だからね、元手はかかっちゃいないのさ。それに子供は気にしなくていいんだよ」
「でも」
「気にするんだったら、すみませんじゃなくてありがとうって言っておくれ。あたしみたいなおばさんはね、あんたくらいの子供にありがとうって言われたらそれだけでうれしくなっちまうもんさ」
「ありがとうございます」
「いいっていいって。さあ、スープが冷める前に持ってっておやり」
トレイを持ってドアの前まで辿りつく。両手が塞がっている状態でどうやって開ければいいのだろう。叩いて開けてもらうにしてもまずそのノックが出来ない。
足でドアをノックするように蹴ればいいだろうか。
悩んでいたらドアが迫ってきた。慌てて避けるとぱちくりと目を瞬かせるホルンが立っていた。
「ちょうどよかった。ありがとうございます。どうやって開けるか悩んでところだったので助かりました」
「いえ遅いので迎えに行こうかと思っていたところでした。身体も拭き終わりましたしね」
「あ、じゃあ返してきますね」
手を出そうにもトレイを持ったままだ。苦笑いを浮かべたホルンがひょいとトレイを持ち上げた。
「そう焦らなくとも。返すのは明日でもいいでしょう。お腹の調子はどうですか。勇者様はお腹の虫のゴキゲンを取らなくていいのですか?」
「あ、ホルン様、また勇者様って言った!」
「あなたこそ敬称ついてますよ」
部屋に置かれていた椅子は小さくてホルンに合わなかったらしく、ベットに腰掛けることにしたらしい。ベット側に近づいたので、わたしがサイドテーブルをベット側に引き寄せると満足そうに頷きながらトレイを置いた。
「あの村で育った割に気がききますね。やはり他の村人と環境が違ったからでしょうか」
「ええと、あの?」
「すみませんつい。仕事柄いつでも考え事をするのがクセになってしまっているんです。同僚からはよく休める時には何も考えないようにして頭を休ませたほうがいいって言われるんですけど」
「冷める前に頂きましょうか」
そう言うとホルンは手を組み合わせると祈りを捧げた。わたしも祠でよくやっていることだけれど、誰よりも様になっている。
「……何か?おかしいところでもありましたか?」
「いえ。食事の時にもするんですね。村では見たことなかったので」
「ほとんどの場所では決まっていないでしょうね。私はやらないと食べられなかったので癖になってるだけですよ。私は元々孤児だったのを今の家に引き取られたので」
「すみません」
「謝ることはありませんよ。ですから両親がいないあなたのことを少しはわかることができるつもりですよ」
「父はいませんけど、母はいますし……」
「寝ているのでしょう?最後にお話されたのはいつになりますか?」
「もうずっと話していないですね。母にとってまだわたしは許せない相手でしょうから」
「自分の子供なのにどうして許せないと思うのかわかりません」
「母にとっては父が世界の全てだったのだと思います。僕は、ううん僕や姉は結果的に生まれてきてしまったから育てているだけで、きっと欲しいと思ったこともないでしょうから」
「仮に最初はそうだったとしてもですよ?育てている間に愛情というのは育まれていくものではないかと思うのです」
「父がいなくなったら存在する意味も価値も母の中ではなくなってしまったのだと思います」
気づいていても気づきたくなかったことをあっさり口にできたことに驚く。
きっとホルンが怒ってくれたからだろう。
わたしのためでないのはわかるのに、心が浮き上がるのはなぜなのか。
気になってしまうのは今まで見たことのないくらいに綺麗な人だからで、きっとわたしでなくとも気になってしまうはずで。
心がぽかぽかするのもどきどきするのも、きっと彼が綺麗で優しい人だからに違いない。
「すみません。折角の食事が冷めてしまいますね」
ホルンは黙ったまま指先をわたしの頬に触れさせた。眉をひそめてため息をつく。
「泣かせるつもりはありませんでした。申し訳ありません」
気まずい雰囲気が流れた。耐えきれなくなったのはわたしで、皿に載ったパンを手に取ると大きく千切って口へ放り込んだ。
すぐにホルンも手を伸ばす。
それから二人黙って食事をとった。一口目に食べたパンの味は分からなかったが、まだ温かいスープを口にすると、段々と味わう余裕が出てきた。
作った人の気持ちが入っているからだろうか、それとも誰かと食べているからか。
後にも先にも最も人生でおいしいと思った食事はこの時だろう。近い将来にそう思い返すことになるとわたしはまだ知らなかった。
食事も済んで眠ろうとした時にまた問題が発生した。
いや部屋に最初に入った時に気づいていたのだけれど、お互いに問題を先送りしてしまったのだ。
「ベットが大きいとはいえ一つしかないのは問題だと思うのですよ」
「僕が床に寝ますから……」
「できません。あなたが床で眠るというのなら私も同じようにしなくては。折角ベットがあるのですよ?使わなくては勿体ないと思いませんか?」
「だからホルンさんが使ってください。僕は床で十分です。このお宿はうちよりずっと綺麗ですし、敷物だってありますから風邪もひかないでしょう」
「……わかりました。私が譲歩しますからあなたも少し譲ってください。幸い大きなベットですから余程寝相が悪くない限りはベットから落ちるようなことにはならないでしょう。一緒に寝ますよ」
「え、でも……」
「いいから寝る。いいですか?ここで言い争っている時間がもったいないでしょう。その分ゆっくり休んだほうが余程明日のためになるというもの。違いますか?」
「言う通りだと思います」
反論が浮かばず、結局ベットの端に横になった。
「そんな端にいたら落ちてしまいますよ。もう少しこちらへ」
「え、え?」
「あなたが私のことが近寄るのも嫌だというくらいに嫌いなのでしたらこの距離も甘んじて受け入れましょう。違うならもう少し中央に寄りなさい」
仕方なくわずかに身体をずらした。
「あまり変わっていませんよ。ほら」
ぐいっと肩を抱かれたと思うと身体を引き寄せられた。
「嫌でなければこのままお休みなさい。これでも心配しているのですよ。その気がなかっったとはいえ泣かせてしまいましたから」
「ホルンさんのせいじゃないです……」
「泣けるなら泣いておいたほうがいい。つらいと感じることができなくなったら泣こうにも泣けなくなるのですから」
「ありがとうございます。あの、おやすみなさい」
「おすみなさい」
何年振りか分からない人肌が心地良くて、わたしはすぐに寝入ってしまった。




